なぜ「仕事」に「遊び」が入りにくくなるのか(前編)
前回の記事では、「仕事」に「遊び」を取り入れる効用、つまりシリアスプレイの価値について以下の本を参考にまとめてみた。
今回はその続きで、どうして良いとわかっていながら、「仕事」に「遊び」が入れにくいか、どうすれば入っていくかを簡単に考えてみたい。
「仕事」に「遊び」が入りにくいという問題提起をタイトルにも込めて書いたが、そのパターンを整理するとともに、対応策を考えてみたい。
理由1:そもそも「遊び」慣れていない場合
「仕事」に「遊び」を入れる難しさのひとつは自分の「遊び」への慣れの程度からくる。上記の書籍では、子供の頃から「遊び」を抑圧され規定のルール通りに従うことだけを繰り返し訓練され、「遊び」を怠惰の証であると刷り込まれてきた人は、「遊び心をもって仕事に向かう」ということに強い罪悪感を感じたり、心理的な反発をしてしまうという。
そのような人は、オフの時間も有って無いような感じで、要は仕事づけになっているだろうから、まずは遊び感覚を取り戻すことからはじめるのがよい。オフの時間をしっかりとって散歩ぐらいから始めていくというのがよいと思われる。普段見られない景色をみる旅行もいいかもしれない。「遊び」に慣れていないひとには、目的が見えにくい活動を体験させることが良さそうだ。
理由2:その仕事に遊びを入れると危ない場合
一人でする場合で、「仕事」に「遊び」が入りにくいもう一つのパターンは、「仕事」の性質そのものがそうさせているものである。決まりきった内容や手続きを踏むもので、想像性を組み入れる余地のないもの、それ以外の手続きをしたら罰則などがある場合には当然難しい。この場合には、そのようにする理由があるはずで、その理由が真っ当なものなら「仕事」に「遊び」を入れてはならない。
例えば、20年以上前に茨城の核燃料加工施設で大変悲惨な事故が起きたのは「厳格な手続き」を作業員が自らの発案で破っていたからだった。
この場合でなくても「遊び」がない「仕事」の場合には手続きの裏にある理由まで学んでおくべきで、理由を知った上であれば事故は防げただろうし、「ルールを守る」ことの責任感が意識されることから「遊び」がなくても喜びを得られることになる。
「遊び」がない理由を知ることで、その理由が時代遅れになっていれば、むしろ「遊び」が力を発して、新しいものを生み出す場合もあるだろう。制約の認識が意識させ、創造性を生みだすことはよく指摘されているところである(これについては機会を見て深掘りしてみたい)。
今回は、一人で何か仕事をするときに「遊び」が入りにくい理由を挙げてみた。ただ「仕事」は二人以上が関わる場合が多いだろうし、一人でしていても他者を意識して進めている場合も少なくない。次回は、二人以上で仕事を進めるという状況において「仕事」に「遊び」が入りにくい理由について考えていきたい。
