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狭穂姫の逸話と、丹後の歴史的役割

大和朝廷の全国統一 第七話 第十一代 垂仁すいにん天皇 ②


1. はじめに

 狭穂姫命さほびめのみこと垂仁すいにん天皇の皇后となって寵愛を受け、一子をもうけます。しかし、彼女の兄である狭穂彦さほびこが反乱を企てたため、狭穂姫は兄と夫の狭間で苦しみ、最終的には兄に殉じて自らも命を断ちました。最初に狭穂姫の逸話と伝承地を紹介します。そして一見関係なさそうにも見える「丹後」の歴史的役割から、垂仁天皇の時代を深掘りしてみたいと思います。


2.狭穂姫の苦悩と選択、垂仁天皇との関係


 『古事記』や『日本書紀』には、垂仁天皇の皇后である狭穂姫の逸話が記されています。

あらすじ

(垂仁天皇)4年9月23日、狭穂姫の兄である 狭穂彦王さほびこのみこが謀反を企て、皇后である狭穂姫に天皇を暗殺するための匕首あいくちを渡しました。皇后は何もできず約1年が過ぎました。そして5年10月1日、天皇は皇后の膝を枕に昼寝をしていましたが、皇后は暗殺を実行しませんでした。「兄の謀反はこの時なのに」と思い、狭穂姫は無力感から涙を流しました。

天皇は驚いて目をさまし、「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、大雨が狭穂から降ってきて顔を濡らしたのは何の兆しだろう」と問うので、狭穂姫は暗殺未遂の顛末を述べます。そして兄の元へ行きました。

「私が兄の城に逃げ込んだのは、もしかしたら私と子のために、兄の罪を許されるかも知れぬと思ったからです。許されないならば、私は捕らわれるよりは死を選びます。私は死んでも天皇の御恩は忘れません。どうか私のやっていた後宮の仕事は、好い女の人にさせてください。丹波の国に五人の婦人がいます。貞潔の人たちです。丹波道主のむすめです」と。天皇は聞き入れられた。

(後略)

(参考)全現代語訳日本書紀 上 宇治谷孟  講談社学術文庫


 上記のあらすじは『日本書紀』のものです。『古事記』の逸話は、ストーリーは同じですが、もっと情緒的に記されていて、逸話の中でも特に美しいものだと評価されています。


サホビコ・サホビメの名前

 佐保川は春日山山中を水源とし、若草山の北麓を迂回して奈良市内を流れ、万葉歌にも多く詠われる川です。開化天皇皇子の彦坐王ひこいますのみこと、春日建国勝戸女たけくにかつとめの娘、大闇見刀売おおくらみとめとの間に生まれたのが狭穂彦・狭穂姫です。

奈良で「春日」といえば、真っ先に春日大社を思い浮かべると思いますが、春日大社は768年称徳天皇の勅命で藤原永手によって創建された神社です。上古には奈良盆地東北部の春日の地は、和珥氏わにうじ(6世紀には春日・小野・栗田・柿本など別姓を名乗り枝分かれします)の土地でした。狭穂姫の父 彦坐王は、開化天皇と和珥氏の娘 姥津媛ははつひめの子です。

自作系譜

和珥氏については過去記事でも書いていますので、そちらをご覧ください。

 

 サホビコ・サホビメの名前からしても、この逸話の舞台は、奈良盆地北部の奈良山丘陵あたりだと推察できます。

若草山(340m)から眺めた奈良山(平城山)丘陵。奈良盆地の北端にあり京都府との境。標高100mほどの東西丘陵。


3.狭穂姫を祀る神社

狭岡さおか神社

 奈良市法蓮町。真偽はわかりませんが、狭穂姫が成人するまで当地に住んでいたという伝説があるようです。本殿に向かう石段の途中に、伝承地の碑と鏡池があります。ただし、祭神として祀られているわけではありません。



黒髪山稲荷神社

奈良市奈良坂町字大黒平(黒髪山)。狭穂姫が追っ手から人目を避けるために黒髪を切って埋めたとされます。こちらも祭神としては祀られていません。


4.狭穂姫時代の歴史的背景

 『古事記』は開化天皇段で「狭穂彦は日下部連・甲斐国造の祖」、『先代旧事本紀』「国造本紀」は、甲斐国造「纏向日代宮朝(垂仁天皇)の御代に、狭穂彦の三世の孫、臣知津彦公おみしりつひこの子、塩海足尼しおつみのすくねを国造に定められた」と記します。

狭穂彦の子孫は甲斐国造になり、狭穂姫の推挙した丹波道主の五人のむすめの中から日葉酢媛が皇后となり、あとの二人も后になるなど、反乱を起こしたにもかかわらず狭穂彦・狭穂姫に対する寛容な処置は、垂仁天皇はよほど狭穂姫のことを愛していたのでしょうか?

 ロマンスをぶち壊すようですけど、この時代には、そうせざるを得ないパワーバランスがあったように思います。狭穂彦・狭穂姫、丹波道主は何れも彦坐王の血統です。あちこちの伝承地を訪ね歩いていると、彦坐王の伝承地と、和珥氏や尾張氏の伝承地はずいぶんかぶっていることに気づきます。

広範囲に及びますので、今回は「丹後」に絞って話しをします。


5.丹後地方の歴史的重要性


713年に分国されて「丹後国」となりましたが、それ以前は「丹波国」の一部でした。崇神天皇の御代に丹波道主たにわのみちぬしを四道将軍として派遣し、丹波を平定したことが記されます(古事記は父の彦坐王を派遣したと記します)。

加悦町古墳公園資料館展示パネル

 丹後地方には、4世紀中葉の白米山しらげやま古墳を皮切りに、前方後円墳が築かれていきます。中でも、4世紀中葉の蛭子山古墳、4世紀後半に築造で、奈良の佐紀盾列古墳群にある日葉酢媛ひばすひめ陵と同形の網野銚子山古墳、その網野銚子山古墳に次ぐ大きさで竹野神社の傍にある神明山古墳(5世紀初頭)、これら三つの大型古墳は、日本海側三大前方後円墳と呼ばれています。

垂仁天皇の時代を私は3世紀後半と考えていますが、それから5世紀初頭までの百数十年間、古墳の規模などから、丹後地方が大和朝廷にとって非常に重要な地域であったことが伺えます。


 では、丹波道主が平定する前の丹後(北タニワ地方)はというと、時代は弥生時代に遡ります。多くの人が、朝鮮半島との交易の窓口は北部九州と思い込んでいると思いますが、この地を拠点とする海人族が、中国や朝鮮半島との交易を行っていたことが、大風呂遺跡や三坂神社みさかじんじゃ墳墓群などから出土する遺物でわかります。中でも三坂神社3号墳から出土した中国製とされる素環頭鉄刀そかんとうてっとうは、奈良纏向のホケノ山古墳でも出土するものですし、私は和珥氏の本拠である天理市の櫟本いちのもと古墳群にある東大寺山古墳から出土した中国後漢の年号「中平」の紀年銘を持つ大刀も、あるいは丹後の海人族が関連しているのではないかと思っています。あと興味深いのは、丹後の弥生遺跡からは、関東・東海地方の土器が出土することです。それと出雲と北陸に挟まれた土地なのに、墓の形式が出雲ではないことです。このあたりは後日別途記事にします。

丹後古代の里資料館




赤坂今井墳墓


そして弥生終末期には、赤坂今井墳墓が築かれます。同時期の最大規模の墳墓です。

京丹後市立古代の里資料館展示


 垂仁天皇のあと、景行けいこう天皇・日本武尊やまとたけるのみこと仲哀ちゅうあい天皇・神功じんぐう皇后の巻では繰り返し九州平定の記述が続きます。そして沖ノ島祭祀が始まり、朝鮮半島側の遺跡では畿内の遺物が出土するようになります。

一方、丹後で築かれる古墳は5世紀に入ると規模が縮小し、衰退していくことがわかります。これは大和朝廷が瀬戸内から北部九州を経て朝鮮半島を結ぶ海上ルートを確立したためで、それを担う海人も律令制の中に組み込まれていきました。そのため丹後の地理的な役割が低下したのだと考えられます。

 大和でも大きな変化がありました。奈良盆地の纏向から始まった前方後円墳の造営は、大和古墳群を経て、後に平城宮が築かれる奈良盆地北部の佐紀盾列古墳群に移りますが、その後の大型古墳は河内に移ります(世界遺産 百舌鳥・古市古墳群)。場所が移っただけで前方後円墳を築くことに変わりはありません。王朝交代だ、河内王朝だ、などと言いますが、河内湖を干拓して、広大な耕作地を求めたのと、海人族を律令制の中に組み込み、朝鮮半島や中国との交易を独占するのに、海に面する河内に移っただけのことです。いわば大和朝廷2.0が始まったにすぎません。

6.まとめ


 飛躍してしまいましたが、話を元に戻しますと、丹後が、ある時期大和朝廷の重要な役割を果たしてきたことがおわかりいただけたと思います。この時期に垂仁天皇と日葉酢媛の皇女 倭姫命やまとひめのみことを御杖代として天照大神は伊勢に鎮まリます。そして丹後地方の祖神である豊受大神は、その後 伊勢へ遷座し、天照大神の御食津神となって今に至るわけですね。

そちらの話は「倭姫命世紀物語」シリーズで書いていますので、あわせてお読みいただければ嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。







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