紀伊 奈久佐濱宮・吉備 名方濱宮
倭姫命物語 第五話 紀伊 奈久佐濱宮・吉備 名方濱宮
はじめに
『倭姫命世紀』は、伊勢神道(外宮神道)の神典である「神道五部書」の一書で、鎌倉時代に編作されたと考えられています。この書は、豊鍬入姫命と倭姫命が天照大神を奉じて各地を巡り、伊勢に鎮座するまでを描いた物語です。倭姫命の巡幸は『日本書紀』にも部分的に記されていますが、倭姫命に先がけて豊鍬入姫命が天照大神を丹後吉佐宮・紀伊奈久佐濱宮・吉備名方濱宮に奉じたという記述は、『倭姫命世紀』にしかありません。
「伊勢神道(外宮神道)」は、当時隆盛だった「両部神道」の教理である「不二一体」(二つは一つで切り離すことができない)の考え方を取り入れつつ、外宮祭神である豊受大神を 天御中主神とし、内宮の天照大神と同等または上位に位置付けています。この考え方が明確に示されているのが『倭姫命世紀』です。神道五部書の中で一番古いとされる『宝基本紀』には見られない記述であることから、鎌倉時代に確立された教えと考えられています。
こうした経緯から、豊鍬入姫命が天照大神を奉じて巡幸したという部分は創作の可能性がありますが、それでも、800年以上地元で語り継がれていること自体を「それもまた歴史」と考えたいと思います。
現在の豊受大神宮(外宮)は、「天照大神と同等または上位」というような主張はされていません。私個人も度会神道(伊勢神道・外宮神道)の考えには否定的です。ただ、『倭姫命世紀』にある「元元本本」という考え方には共感します。「元元」とは元の元、原初にさかのぼることで、「本本」は物事の本源・本質を意味します。「はじめをはじめとし、もとをもととする」。すなわち、今ある物事も、大本にさかのぼってその根拠を明らかにするというものです。長い歴史の中では何事も紆余曲折ありますから、古代のことを知り、今に伝える上で「元元本本」は大事な考え方だと思っています。
紀伊の伝承地を訪れる
濱宮
第一殿に天照皇大神、第二殿に天懸大神・国懸大神を祀ります。豊鍬入姫命が天照大神の霊を奉遷して三年間祀った奈久佐濱宮の地と伝わります。日前国懸神宮の元摂社。
豊鍬入姫命は、崇神天皇の皇女で、母は荒河戸畔の娘、遠津年魚眼眼妙媛です。荒河戸畔は紀国造家の人物で、天道根命の子孫とされます。紀国造家は代々日前神宮・国懸神宮の祭祀を行う一族で、豊鍬入姫命の母はその一族の出ということになります。









日前宮
『紀伊続風土記』は、崇神天皇51年に天照大神を奉じて豊鍬入姫命が濱宮の地に遷ってきた際に、天懸・国懸大神も毛見浦から遷り並べ祀られたと記します。3年後、天照大神は吉備名方浜宮へ遷座しましたが、天懸・国懸大神はしばらくとどまり、垂仁天皇16年に現在の日前宮の地に遷座したといいます。(日本歴史地名体系)
一つの境内に日前神宮と国懸神宮があり、総称して日前宮と呼ばれています。


伊勢部柿本神社
日前国懸神社の筵の藺草を採る「井引の森」が、『紀伊続風土記』には「名方浜」と記されます。そこにあった社殿が、のちに日方の伊勢部柿本神社に合祀された所以で、当社が『倭姫命世紀』の「名方浜宮」であるとします。
『紀伊名所会図』には、当社は「妙見高里神社」と記され、中・近世においては妙見信仰の社であったようです。妙見や水天宮系の御祭神は天之御中主神ですので、そこに伊勢神道との接点を見いだしたのかも知れません。





吉備の伝承地を訪れる
「名方濱宮」が紀伊という説もあれば、当然のことながら、「そんな訳はない、吉備国に決まっとる」というご意見もあります。ただ、吉備は吉備でも、候補地がいくつかあって「なぜ吉備へ行ったのか」「名方濱宮はどこだったのか」、実際のところよくわかりませんでした。
伊勢神社
岡山市北区番町。式内社伊勢神社の論社。御祭神は天照大神・豊受大神・栲幡千千姫命。宇喜多、池田藩主の崇敬が篤かったようです(神社由緒による)。鬼瓦や賽銭箱の菊の御紋が印象的でした。





内宮
岡山市南区浜野。御祭神は天照大御神・倭姫命・大己貴命。社伝によると大正9年に現在地に遷座され、近くの神社に祀られていた倭姫命と大己貴命を合祀したとのこと。それにしても豊鍬入姫命ではなく、倭姫命なんですね。






穴門山神社(倉敷市真備)
倉敷市真備町。御祭神は天照大神、倉稲魂大神(豊受大神)、穴門武姫命(吉備武彦の娘で日本武尊の妃)。岡山県内には、伊勢神社・内宮以外に、こちらの穴門山神社と、高梁市の同名の穴門山神社、総社市の神明神社の5社が元伊勢と伝わります(高梁市と総社市の神社は未見)。鳥居は麓にあるのですが、社殿は山のてっぺんにありました。大変見晴らしの良いところですが、「浜宮」というイメージではなかったですね。でも、穴門武姫命を訪ねることが出来て良かったです。



まとめ
吉備と紀伊は「記紀」における神武天皇の東征譚にも登場します。また、奈良の弥生遺跡「鴨都波遺跡」から出土した外来土器から、両地域が古くから大和と交流を持っていたことが伺えます。これらのことから、『倭姫命世紀』に紀伊と吉備が記されているのは、両地域に関連する古い伝承があった可能性も考えられます。

別の見方をします。
元々神宮は「私幣禁断」であり、その経済は神戸の神税によって支えられていました。しかし、平安時代後期以降に律令制が崩れると、神宮は次第に経済的に困窮するようになります。そうした事態をうけ、神官達は貴族に私祈祷を行うようになります。それにより、豪族からの献納が増加し、御厨や御園(神宮に神饌を供給する地域)も増え、次第に経済状況は改善されていきました。各地に荘園鎮守の神明社が建てられることになり、この過程で伊勢信仰が全国的に広がっていきました。
『倭姫命世紀』には、奈久佐濱宮で、「紀伊国造が豊鍬入姫命に舎人として紀麻呂良を、さらに稲田を進上した」。名方濱宮では「吉備国造は、采女として吉備津比売を、さらに稲田を進上した」という記述があります。
もし豊鍬入姫命の記述が創作だとしたら、なぜ紀伊と吉備が描かれたのかを考えてみました。紀伊と吉備は外宮を経済的に支える有力なスポンサー(タニマチ)だったのではないでしょうか? 貢献に対する感謝の表れ・支援に対する返礼の意味合いがあって描かれたのかなと想像するのですが、根拠となる資料がある訳ではないので、単なる思いつきにすぎません。でも、「元元本本」の精神で古代のことを明らかしようとすると、想像力を働かせることも大事ですよね(笑)
最後までお読みいただきありがとうございました。
おまけ
3年前濱宮に行った時のものです。念の為ネットで調べましたが、絶賛営業中でした!「WAKAYA津屋」さん。
和歌山市和歌浦東2-6-2
073-444-0525



【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
石神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
葛城の弥生時代 葛城市歴史博物館
ナレッジジャパン検索『日本地名地理体系』 『国史大辞典』『日本大百科全書』ほか。
