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緊急提言 小中学校で性交などを扱わない「歯止め規定」の存続は、大人の逃げ腰だ

今日、こんなニュースを目にした。学習指導要領の改訂議論で、

「歯止め規定」小中学校で性交などを扱わない「歯止め規定」の存続が議論されているという。文科省の姿勢は「現場に委ねる」。

(ニュースソースはこちら 世界から遅れる日本の性教育 学習指導要領の「歯止め規定」維持へ https://mainichi.jp/articles/20260304/k00/00m/040/137000c)

思わず、苦笑いした。

「委ねる」「検討する」――この国の大人が問題を前にしたとき、反射的に選ぶ言葉だ。性教育だけじゃない。YouTubeの過剰な情報氾濫、不登校の低年齢化、子供を取り巻く問題が山積みになっても、答えはいつも同じ。誰も決めない。誰も責任を取らない。そして子供だけが、その「空白」の中に放り込まれる。


思えば、私にも「空白」に放り込まれた瞬間がある。

小学生の頃、家族でテレビを見ていた。父、母、私、一歳下の弟。何のドラマかは忘れたが、太った男性が女性を手籠にする場面が茶の間に流れた。

興奮もあった。
いけないものを見ているという感覚もあった。
でも、その場でどうすればいいかわからなかった。
だから思わず「えへへ…」と笑ってしまった。

こっぴどく怒られた。

その日から、性的なものへの罪悪感が私の中に植え付けられた。

高校の保健体育の授業でも、状況は変わらなかった。
さらっと何を言っているかわからない授業の中で、唯一覚えているのは剣道部の顧問だった保健の先生の一言だ。
(筆者 男子校だったゆえかなり性に関しては大っぴらだったとは思うのだが)

「猿はオナニーを覚えると死ぬまオナニーをし続ける。」

……なんだそれ?
当時おぼこだった私には、何のことかさっぱりわからなかった。

これが、私が受けた「性教育」の全てだ。


そして、精通が訪れた。

これまた、何のことかさっぱりわからなかった。

「寝小便もらしてしまった!」

慌ててパンツをこっそり捨てた。
しばらくするとまたもらした!こんどはがびがびに乾いている。
また捨てた。

タンスの中からパンツが極端に減っていた。

挙げ句の果てには、親父のパンツをこっそり履いた。
(自分のパンツがこれ以上なくなるとさすがにおかしいと思ったのだ。
でもよく考えれば親父のパンツが洗濯物に2枚出てくること自体が異常だが…)

笑い話として書いているが、これは笑えない話だ。

誰かが一言、正確な言葉で教えてくれていれば。
「それは精通といって、成長の証だよ」と。
ただそれだけで、あの狼狽も、こっそり捨てたパンツも、親父のパンツも、全部なかった話だ。
(今と違ってスリム、いやガリガリだった自分にはおむつのように大きかったパンツ…)

知識は、自分を守る。
それだけのことが、この国の教育からすっぽり抜け落ちている。


あの恥ずかしさを、娘に繰り返させたくない。

だから私は話す。「お父さんは若い頃にね…」と笑いながら。
子供がどうやって産まれてくるかも、ちゃんと言葉にして。
妻は嫌がる。それでも話す。

学校が教えないなら、親が教えるしかないからだ。

みんな、自分では教えたくない。
その「教えたくない」という感覚がどこから来るのか。
文明開化、戦後、GHQによる価値観の塗り替え――その歴史と無関係ではないと思っている。
「性は恥ずかしいもの」という刷り込みは、どこかで意図的に埋め込まれたのかもしれない。

そして、今日見た学習指導要領の改訂議論を見る限り、教育には期待できない。

「現場に委ねる」「検討する」――また同じ言葉だ。

ならば親がやるしかない。
子供と真正面から向き合い、正確な言葉で伝える。
それが親というものではないか。

むしろ、自分の子供にちゃんと教えられることが、嬉しい。
娘も恥ずかしながら聞いてくれる。
今しかない。今でなければ、ただの変態父さんだ。

その使命感に燃えている。

私のパンツが減り続けたあの夏、誰かがそうしてくれていたら。

いや、過去を攻めるのはやめよう。

父母も精一杯だったと思う。

だからこんな立派な!?大人になりました…とさ。

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