【昭和浪漫講談】『魂の殺人』後編 灯りを点け直す夜——金魚鉢から脱出する「親子の解放の物語」、そして残る一筋の光
(パパン、パン!)
お待たせいたしました。
書斎の灯りを消した男が、また釈台の前に戻ってまいりました。
毒に当たり、筆を置き、しばし呆然としておりましたが——。
灯りはいったん消さねばならなかった。
しかし消したままでは、この話は終われない。
フラフラと、外に出て町をさまよう埼玉。
そこに小学3年生くらいの男の子が2人、話をしております。
駅はどっちかな?
こっちじゃね?
いや、あっちだょ!
そこへ通りがかった埼玉に子供が話しかけます。
すみません、駅はどちらでしょう?
なんと!立派なものの尋ね方。
あたくし、びっくりするとともにこのような子供たちのためにも灯りを消して、筆を置いたままにできない!
なにを惚けていた、埼玉!!
思えば、あたくしは昔から子供が好き。
町に出れば、子供が話しかけてきます。
娘が入った幼稚園では子供にまとわりつかれ、小学校では見知らぬ子にまで挨拶されるしまつ。
そんな可愛い子供達に悲しい思いはさせられない。
ふたたび立ち上がるのでありました!
お立ち会いの皆様、長らくお待たせいたしました。
埼玉の裏仕事人、後編の幕を開けます。
(パン!)
さて、まずひとつ問いを立てさせていただきましょう。
「闇教育」とは、毒親の話でございますか?
前編をお読みになった方の中には、こう思われた方もおられるかもしれません。
「なるほど、ヒトラーの父親は酷い男だったのだな」
「クリスティアーネの環境は悲惨だったのだな」
「いやいやうちの親はそこまでひどくはなかった。私には関係のない話だ」
……と。
あるいは、まさに今「うちの親は本物の毒親だった」と、当時の傷跡に震えながら、痛みをこらえて前編をお読みになった方もおられるかもしれない。
「関係のない話」と目を背ける方。
「私の話だ」と胸を締め付けられる方。
待ってくださりませ!
補足回で「毒に当たった」と申し上げました。
なぜ当たったのか。
ヒトラーの話を読んで当たったのではない。
クリステイァーネの境遇に涙したからでもございません。
「あんな凄惨な環境、自分には関係ない」と高みの見物を決め込もうとした、まさにその足元に。 「自分は被害者だ」と傷ついていた、そのすぐ隣に。学校の中に、会社の中に。
そしてこのnoteを書く私自身の記憶の中に——まったく同じ構造が見えたから、毒に当たったのでございます。
ここが今日の核心でございます。
【第一章】闇教育は「毒親」の話ではない
(パパン!)
闇教育とは何か。
前編でもお話しいたしましたが、改めて申し上げましょう。
アリス・ミラーが告発したのは、「体罰をふるう鬼のような親」だけではございません。
「あなたのため」という善意の仮面をかぶった支配。
「これが正しい」という確信を持った矯正。
「愛しているからこそ」という感情で包まれた管理。
これが闇教育の正体でございます。
つまり——善意であっても闇教育になっている。
いや、もっとはっきりと申し上げましょう。
愛情深い親、熱心な教師ほど、深く闇教育をやってしまうのでございます。
なぜか。
愛しているから、おせっかいをする。
心配だから、口をはさむ。
失敗してほしくないから、おぜんだてする。
立派になってほしいから、型にはめる。
この一連の行為に、悪意は一切ない。
しかし子どもの側から見れば——
「好きなようにやろうとしたら、やらせてくれない」
「ちょっとやってみようとしたらやめて!と言われる」
「これをやってみたい!と思ったら違うことをやらされる」
「『こういうことやってみたい!』って言ったら、『あんたには無理よ』って言われる」
という体験の積み重ねになってしまう。
これが「魂の殺人」の本質でございます。
肉体は生きている。しかし魂は、じわじわと殺されていく。
そして恐ろしいのは、やった側も、やられた側も、それが「愛情」だと信じているということだ。
地獄への道は、善意で舗装されている。
さらに恐ろしいことがございます。
闇教育を受けた者同士、学校や家庭という教育期間が終わると——美化されるのでございます。
「あの頃は厳しかったけど、おかげで今がある」
「先生は怖かったけど、あれが愛情だったとわかった」
「親に感謝している」
魂を殺された当人が、その殺され方を「愛」と呼んで、次の世代に繰り返していく。
日常の光景を思い出してください。
いたたまれない光景が、日々あちらこちらで繰り広げられております。
スーパーの菓子売り場で、「ダメって言ったでしょ!」と我が子の胸ぐらを掴まんばかりに烈火のごとく怒鳴りつけるお母さん。
ファミレスの片隅で、泣く我が子を、それ以上の怒号でテーブルが震えるほど怒鳴り散らすお父さん。
公園の遊具で遊ぶ我が子に、「危ないからやめなさい!」「そっちに行っちゃダメ!」「ほら、ママの言う通りにしなさい!」と、一歩も動かさぬよう四方八方に網を張る親御さん。
決してあの親御さんたちが、冷酷なわけじゃあございません。
我が子可愛さゆえの心配。
周りの「おい、親ならちゃんとコントロールしろよ」という無言の視線。
必死になって手綱を引こうとした結果の、悲しい爆発なのでございます。
……そんな悲痛な叫びが、あの怒号の裏には張り付いている。
そのような場面を見るたびに心を痛め、そっと涙を拭うのでございます。
そしてふと思う——
あなたの子供はじゃじゃ馬ですか?
赤ちゃんの頃を思い出してください。
ただ元気でいるだけで幸せだった。笑ってくれるだけで十分だった。
それだけで親は涙を流すほど喜んだ。
その同じ子どもに、いつから自分の希望や願望を押し付け始めたのか。
いつから「こうあるべき」「こうあって欲しい」という色眼鏡をかけ始めたのか。
そして思うのです
教育とは、その色眼鏡そのものではないのか?
お立ち会い、世間にはびこる色眼鏡は、決してこれ一つではございません。
「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」「いい会社に入って、人並みの結婚をして、家を買うのが幸せ」私たちは生まれた瞬間から、ありとあらゆる「当たり前」という色眼鏡を、社会から、そして親から、よってたかってかけられるのでございます。
その、無数にある色眼鏡の最たるものが——
「学校へ行くのが当たり前」でございます。
行くのが楽しい子、お母さんと離れるのが嫌な子。
いろいろな子がいます。
小さいうちは子どもも抵抗いたします。 泣いて、嫌がって、行きたくないと言う。
しかしだんだんと——諦める。抵抗しなくなる。行くのが当たり前になる。
これを「成長した」と呼ぶのか?
「洗脳が完了した」と呼ぶべきではないのか?
問題は「学校」という場所そのものではございません。「○○せねばならない」という世間の色眼鏡に、子どもの、そして私たち自身の魂がガチガチに締め付けられていること、それ自体が問題なのでございます。
(パパン!)
そろそろ目覚める時が来たのではないか。
魂を殺された!と気づければ、まだ良い方でございます。
しかし——気づくことができない。
なぜか。
ここで金魚の話をいたしましょう。
金魚鉢の中の金魚は、その金魚鉢が居心地悪くても、外へ出ることができない。
なぜなら——金魚鉢の中が、自分の全世界だからでございます。
外の世界があるとすら、思っていない。
私たちも同じでございます。
闇教育という金魚鉢の中で育った者には、その外側が見えない。
見えないから疑わない。
疑わないから繰り返す。
では——金魚鉢の外に出るにはどうすればいいのか。
それは……
(パパン!)

【第二章】そもそも「教育」とは何か——断絶を連続に見せた魔法
(パン、パン!)
お立ち会い。先ほどあたくし、「教育とは色眼鏡そのものではないのか」と申し上げました。
世間にはびこる「男はこう」「女はこう」「いい会社に入って結婚するのが幸せ」というありとあらゆる色眼鏡。その最たるものが「学校へ行くのが当たり前」という色眼鏡でございます。
では、私たちはその色眼鏡の奥で、一体「何を」教育だと思い込まされてきたのでございましょう?
お立ち会の皆様は、おそらくこうお考えではないでしょうか。
「子どもの可能性を伸ばすもの」 「知識を与えるもの」 「社会で生きる力をつけるもの」
——どれも正解でございます。
しかし、この「正解」と信じ込んでいること自体が、明治以来百五十年かけてかけられた、巨大な色眼鏡だとしたらどういたします?
学校へ行かなければ、それらは学べないのか。
集団でやらなければダメなのか。
コロナ禍でリモート授業になっても、子どもたちはちゃんと学んでいた。
顔をつきあわせなければ教育にならないというのは、大人の都合に過ぎません。
皆様もちょっと振り返ってみてください。
算数、国語、理科、社会——。楽しかった運動会。夜中まで騒いでおこられた修学旅行……。
読み書きや簡単な計算といった「暮らしの道具」は、確かに日常生活で今も有効に使っておられます。
しかし、それ以外の膨大な知識や、あの「前へならえ」の集団行動は、本当に私たちの人生に絶対必要なものでございましたでしょうか?
そもそも、私たちが「絶対必要だ」と信じ込んでいるその「教育」とは、一体何なのでございましょう。
(パパン!)
念のため辞書を引いてみました。
広辞苑、デジタル大辞泉——日本を代表する辞書でございます。
そこにはこう書いてある。
「ある人間を望ましい姿に変化させるために、意図的・計画的に知識や技能を教え込み、心身を育てる働きかけのこと」
……お立ち会い。
「望ましい姿」とは、誰が決めるのでございますか?
「意図的・計画的」とは、誰の意図でございますか?
「働きかける」とは——される側はどこにいるのでございますか?
これのどこに、主体的な人間を育てるという意味がございましょうか!
そう——私たちは辞書の定義の段階から、すでに騙されていたのでございます。
しかも恐ろしいのは、騙した側も騙されているということだ。
教師も、親も、「これが教育だ」と信じてやっている。辞書にもそう書いてある。社会全体がその定義を疑わずに受け入れている。
悪意のない、善意の集団洗脳。
さあここから、現代日本の話をいたしましょう。
2017年、文部科学省が学習指導要領を改訂いたしました。
その旗印が——
「主体的・対話的で深い学び」
でございます。
子どもが自ら考え、自ら学ぶ。受け身ではなく主体的に。
聞こえは大変よろしい。
しかしお立ち会い、よく考えてみてください。
学ぶ場所は決まっている。
学ぶ内容は決まっている。
時間割は決まっている。
評価する方法も決まっている。
その全部が決まった箱の中で——
その全部が決まった箱の中に子どもを放り込み、大人はこうのたまうのでございます。
——「さあ、主体的にやれ」と。
(パン!)
どこをどのように主体的にやるのでしょうか?
主体的にやれ!と言われてやろうとしたら、勝手にするな!と怒られているのです。
学校に主体的に行く行かないを選べないのです。
このnoteをお読みの方の中にも、学校へ行かないを選んでいるお子さんをお持ちの方がおられるかもしれません。
学校という箱には入らなくとも、寝食を忘れて大好きなイラストを描き続け、溢れる情熱のままに自分の世界をどんどん広げている小学生がおります。 大人が決めた時間割ではなく、己の心が求めるタイミングで、己の学びを着実に深めている。
学校へ行っていないのに、誰よりも瑞々しく、主体的に学んでいるのでございます。
お立ち会い。これを見て、なお「病」と呼びますか? 「異常」と呼びますか?(ご本人とご家族への配慮から、詳細はぼかしております)
——いや、この子こそが最も正直に「主体的な学び」を実践しているのではないか。
(パン!)
ここで、お立ち会い。
あたくしの話を聞いて、「じゃあ、毎日学校へ楽しく通っている子は、洗脳されて個性を失ったロボットなのか?」と思われた方がいたら——
待ってくださりませ!
決してそういうわけではございません!
学校という場所で、友達と笑い合い、何かに熱中し、「今日学校でこんな面白いことがあったんだ!」と目を輝かせて帰ってくる子どもたち。その子たちの魂もまた、ビンビンに生きて、打ち震えております!
彼らは、明治以来の巨大なシステムに「飼い慣らされている」のではない。むしろ、そのシステムという荒波を、己の力でしなやかに乗りこなしている、大したタフな若人たちでございます!
問題なのは「学校という場所」そのものではない。
そこに行くことを「絶対の正解」として、子どもの心がガチガチに凍りついているのに、無理やり型にはめ込もうとする大人の側の「色眼鏡」でございます。
学校の中で魂を輝かせる子も、学校の外で自分だけの魂を掘り起こす子も、生きる楽しさに根ざしているならば、どちらも等しく、これからの時代を照らす「一筋の光」に他なりません!
(パパン!)
器が変わらない限り、何を入れても同じでございます。
この埼玉、ここに大きな罠があると申し上げたい。
確かに寺子屋は「教育」と呼べるかもしれません。
読み書き算盤を教えた。
しかしその本質は生活の知恵の伝授でございます。
江戸の庶民が子どもに読み書きを教えたのは、「良い国民を作るため」ではない。生きていくために必要だったからでございます。
しかも——算額というものをご存知でしょうか。
江戸時代、庶民が数学の問題を木の板に書いて神社に奉納した。難問を解いた者が次の問題を奉納する。全国に広まった、知的な遊びの文化でございます。
楽しいから学ぶ。面白いから深める。
これが寺子屋や算額の本質でございました。
ヨーロッパのギルドも、徒弟制度も同様でございます。
親方のもとに入り、技術を身体で覚えていく。「国民を作るため」ではなく、職人として生きるための技の伝承でございました。
ところがここに、決定的な断絶がある。
補足回でご紹介いたしました、フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』。
この本が暴いた事実を、申し上げましょう。
中世ヨーロッパに、「子ども」という概念はなかった。
子どもは「小さな大人」として、大人と同じ空間で同じように扱われていた。
ところが近代に入り、「子どもには子ども特有の性質がある」という発見がなされます。
本来ならこれは、子どもをより丁寧に保護し、慈しむ方向に向かうはずでした。
しかし近代社会は、この発見を全く別の方向へと使ってしまった。
「子どもは未熟である」
「だから大人が正しい方向へ導かねばならない」
「社会に役立つ人間に、効率よく仕上げなければならない」
こうして「子どもの発見」は、「子どもを管理・画一化するための教育システムの発明」へと転換されてしまったのでございます。
日本では明治維新がその転換点でございました。
寺子屋という台木に、近代国家教育という穂木が無理やり接ぎ木された。
そして恐ろしいのは、この断絶が「連続」に見せかけられたことでございます。
「昔から日本人は学ぶことを大切にしてきた」
「寺子屋の伝統が今の学校につながっている」
——こう言われると、なんとなく納得してしまう。
しかし本質はまったく別物でございます。
寺子屋は「楽しいから学ぶ」場でした。
近代学校は「国民として役立つために学ばされる」装置でございます。
学校という制度を考えてみてください。
一定の年齢の子どもを一か所に集め、同じ内容を、同じペースで、同じ形で教える。
できる子、できない子を成績で序列化する。
時間割という名のもとに、一日の行動を細かく管理する。
これは工場の生産ラインと、本質的に同じ構造でございます。
子どもを「社会に役立つ規格品」として仕上げるための、巨大な製造装置。
そしてこの装置の中では、教師もまた被害者でございます。
「子どものため」と信じながら、実は社会のOSを子どもに書き込む役割を担わされている。
善意の歯車が、善意のまま、闇教育の機械を回し続けている。
これが教育という構造の、おぞましい真実でございます。
そう——教育に光も闇もない。
白い闇教育と、黒い闇教育があるだけで——闇教育でないものは、ない。
教育には必ず闇が混じる。
なぜなら教育とは、まだ判断力の弱い他者に影響を与える行為だからです。
教育とは、そもそも闇教育でしかなかったのでございます。
しかし同時に、人間を闇から引きずり出すのもまた教育。
(パン……)
しかし——ここで少し立ち止まってくださりませ。
なぜ人間は、それほどまでにおぞましい闇のシステムを、自ら維持し、求めてしまうのか。
闇教育の恐ろしさは、子どもを型にはめることだけではない。
管理する側の大人もまた、型という権威に寄りかかることで、自分自身の不安から逃げているのでございます。
「これが正しい教育だ」と確信した瞬間に——その大人もまた、自由から逃走している。
善意の仮面をかぶった支配の根っこには、支配する側の「自由の重さへの恐怖」があった。
これが闇教育の、さらに深い闇でございます。
(パパン!)
【第三章】闇教育から抜け出すにはどうすればいいのか?
(パパン、パン!)
では、その心の中に深く潜む『思い通りにコントロールしたい』という闇のOSから、私たち自身が抜け出すには、一体どうすればよいのでございましょう
ここが、この講談の本当の核心でございます。
「教える」のをやめて、「育つのを待つ」ことでございます。
「だったら放任すればいいんか?」と、そうおっしゃる。
違います。放任とは、放り出すことではございません。
「こうしろ、ああしろ!」という指図をいっさい捨て去り、その子がどう動くか、どう生きたいかを、じっと、ただじっと見守る。
型にはめるのではなく、その子が己の型を創り上げるのを、下から支える。
支配ではなく、支え。管理ではなく、見守り。
言うは易く、行うは難し。
ここで一つ、思い出した朝の光景がございます。
娘は登校班では学校へ行けませんでした。
行ったり、行かなかったり。そういう時期がございました。
それでも「行く」と言った朝は、この埼玉が手を繋いで、二人で歩いて学校へ向かった。娘が小学二年生だったころ。
校門の前では、さまざまな光景が繰り広げられておりました。
泣きながらお父さんに抱っこされ、荷物のように先生に渡される子。
鬼の形相で泣いている男の子の手を引っ張り歩くお母さん。
かと思えば、ランドセルを背負った子に寄り添うように並んで歩くお母さん。
ある朝、娘と下駄箱まで行くと——お目当ての友だちが、今日は休みだという。
「どうしようか」
「今日は行くのつらいな…」
「そうか。じゃ帰ろうか」
帰り道、先生に「今日は帰宅します」とお話ししたところ…
担任の先生と、養護の先生が二人がかりで
「給食まででないか?」
「児童相談室ですごすということもできるよ?」
あれやこれやと心配して声をかけてくれます。
しかしこの埼玉、毅然と申し上げた。
「今日は連れて帰ります」
後日、担任の先生にこう言われました。
「お父さん心配しすぎですよ、中に入っちゃえば、みんなけろっとしてるんですから」
——私は、愕然といたしました。
この先生に悪意はございません。むしろ親を安心させようという善意の言葉でしょう。しかし——泣きながら連れてこられた子どもが、諦め、感情を麻痺させ、中に入って静かになる。それを「けろっとしている」「うまくいった」と呼ぶ。
その子がその小さな胸で何を感じ、どれほど傷ついていたか、には興味がない。
枠組みの中に収め、管理できれば成功。それが仕事。
これが学校教育なのか? これが学校の先生なのか?
……しかし、お立ち会い。
私は何も、学校の先生方を一方的に責め立てたいわけではございません。
実は、この埼玉の治療院には、現職の学校の先生や教育関係の方々も多く、患者さんとしてお見えになります。
ある時のことでございます。
来院されたある先生の腕に、痛々しい擦り傷がございました。
尋ねてみれば、その先生は力なくこうおっしゃった。
「体の大柄な子が、学校に行きたくないと車の中で暴れるんです……。それを無理やり外へ出すときに、できてしまった傷で……」
私は……何も言えませんでした。
学校の先生は、親御さんが連れてきた子どもを受け取っただけ。何も悪くはございません。先生方もまた、ボロボロになりながら、必死にその責任を果たそうとされている。
しかし……しかし、でございます。
無理やり車から引きずり出された、その子の気持ちを思うとき、胸が締め付けられるような痛みを覚えるのでございます。
守ってくれるはずの親も、信用できない。
預けられる先の先生も、信用できない。
この広い世界で、誰も信じることができない。
その絶望の中で、小さな心をどれほどすり減らしていることか。
悲しいかな、傷を負いながら子どもを管理する先生も、誰も信じられず心を閉ざす子どもも、すべては明治以来百五十年かけて作り上げられた「闇のOS」という巨大な仕掛けの中で、健気に、必死に動いている「善意の歯車」に過ぎなかったのでございます。
ここで、今まさにお子さんの不登校で夜も眠れぬほど悩んでおられる親御さんがいたら——
どうかご自分を責めないでくださりませ。悪いのはあなたではない。あなたもまた、その金魚鉢の中で育った金魚なのですから。
ただ——「そうか。じゃ帰ろうか」
学校の先生を前にして、これほど毅然と言い放てる親御さんは、そうそうおられないかもしれません。
それでよいのでございます。ただ、せめて、せめて我が子の身体が上げる小さな悲鳴に、耳を傾けてあげてほしい。
子どもの気持ちを、その小さな両手で、そっと汲み取ってあげてほしいのでございます。
この埼玉、鍼灸師として長年、数え切れないほどの「身体」と向き合ってまいりました。
身体は、言葉以上に正直でございます。
恐怖に直面したとき、小さな背中はガチガチに固まる。嫌なとき、呼吸は浅くなり、指先は冷たくなる。安心したとき、はじめて身体はふわりとほぐれる。
学校へ行きたくないと泣いている子の身体は、命がけで何かを訴えている。その声を聞かずに「中に入ればけろっとする」と言うのは、その子の生きる力を無視することでございます。
看守ではなく親として、ただ子どものそばにいて、その身体が発する微細なサインをキャッチして動く。言葉にならない訴えを、自らの身体で受け止める。これこそが、技術ではない、ある教育者がかつて説いた「援助する教育」の生きた姿でございます。
これは一見、甘く聞こえるかもしれません。「それでは競争社会で生き残れない」という焦りの声も聞こえてきそうだ。
しかしここで思い出してください。前回のゴードンの言葉を。
「闇のOSを宿したまま触れれば、子どもを巧妙にコントロールするための冷たい技術に変貌してしまう」
どんなに立派な教育論も、根っこにある「この子を思い通りにコントロールしたい」という支配欲が残っていれば、冷徹な技術に化けてしまう。
では、その根っこを変えるとは、一体どういうことか。
大人である我々自身が楽しんだ充実した人生を歩むこと。
子供は子供、自分の理想や願望を子供に押し付けない。
そこに尽きるのではないかと思います。
大人が自分の人生を心から楽しんでいる姿を子供にみせる。
それがOSの縛りから抜け出し、生きる喜びを謳歌することに通じるのではないか。
その姿という「豊かな大地」があって初めて、子どもの苗木は自ずから根づき、輝き出すのではないだろうか?。
【終章】生きることの楽しさ、これに尽きます
(パン……)
アタクシの短いようで長い人生、死にそうになった経験も何度もあり、手術だ入院だと皆に心配をかけて、たどり着いた言葉でございます。
「生きることは楽しい」
魂が打ち震えるような楽しさ、でございます。
それは何かに熱中したとき、時間を忘れたとき、「ああ、生きていてよかった」と思わず呟いたとき——あの感覚でございます。
誰に言われるでもなく、日がな1日イラストを書き続ける小学生の目が、輝いていたとすれば——それでございます。
この楽しさを知った人間は、金魚鉢の存在に気づいてしまう。
気づいた瞬間に、もう元には戻れない。
第一章でお立ち会いに問いました。
「金魚鉢の中から外に飛び出すにはどうすればいいか——それは……」
答えはこれでございます。
魂が打ち震えるような楽しさを、一度でも知ること。
それだけで、金魚鉢の壁が見えてくる。
管理することも、矯正することも、善意の闇教育も——すべては、どこかに「楽しさ」がないから起きる。
自分の人生が楽しくない大人は、子どもをコントロールすることで、何かを埋めようとする。
自分が正しいと信じることで、不安を消そうとする。
子どもを型にはめることで、自分の正しさを確認しようとする。
逆に言えば——魂が打ち震えるような楽しさを知っている大人の傍らでは、子どもは自然に育つ。
援助する教育の根っこは、技術ではない。
自分自身の魂が、生きることに打ち震えているかどうか、でございます。
さあ、お立ち会い。
この埼玉、前編から補足回、そして後編と、長い旅をいたしました。
闇教育の構造を暴き、接ぎ木の失敗を嘆き、毒に当たって筆を置き、それでも釈台に戻ってまいりました。
なぜ戻れたのか。
毒に当たらない人間に、この話は書けない。
補足回でそう申し上げました。
そして毒に当たった夜、この言葉がふと浮かんだのでございます。
「生きることの楽しさ、これに尽きます」
魂を殺されそうになった者が、魂の打ち震えを取り戻した。
灯りをまた点け直すことができたのは、その震えがあったからでございます。
皆様の書斎の灯りにも、どうかその光が届きますように。
(パパパパパン!)

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【編集後記】
今回いささか話がふくらみすぎてしまい…書いては削り、削っては書き…。
思いの丈はまだまだあるのですが、このままではいつまで経っても出すことができない。
なので、いささか荒削りではありますが、こちらでお開きといたします。
この講談の背景にある史料や学術的な考察の詳細は、TALES連載にてじっくりと論じる予定でおります。
よろしければそちらもご覧くださいませ。
#魂の殺人
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