『オニババ化する女たち』を再読してみた。修正版 2026年4月23日
〜性エネルギーの捌け口問題〜
先日、まなつ嬢の記事を読んでいて、本棚の隅に眠っていた一冊を思い出した。(うっかりしておりました。記事のリンクを貼り忘れておりました!)
江戸時代の女性の生理事情と布ナプキンの話だったのだが、それを読んだ瞬間にこの本の背表紙が頭に浮かんだのである。
三砂ちづる 著 『オニババ化する女たち:女性の身体のゆくえ』(光文社新書・2004年)
二十年以上前の本だ。それでもいまだに売れ続けている。問題提起がより深刻になっているということだろう。
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まずタイトルで引っかかる人もいるだろうから、最初に片付けておく。
オニババというのは古典や昔話に出てくる鬼女のことだ。若い女性の姿のものを鬼女、老婆の姿のものを鬼婆という。女性の宿業や怨念によって鬼と化した存在とされている。タイトルだけ見れば女性蔑視か、と思ってしまうかもしれない。
しかし筆者の三砂氏はオニババをこう定義している。
山にひとりで住む山姥が夜中に若い男を襲う昔話がある。あれは、社会のなかで適切な役割を与えられなかった独身の更年期女性が山に籠もるしかなくなり、エネルギーの行き場を求めるしかなかった……という話だと。
このエネルギーとは、性と生殖に関わるエネルギーのことだ。フロイドのいうリビドーと通じるものがある。
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この本が出たのは2004年。前年には酒井順子 著『負け犬の遠吠え』(講談社)が出ており、女性をめぐる議論が活発だった時代だ。
当時この本を読んで、正直ピンとこなかった。仕事で身体には触れていたが、まだ理解が追いついていなかったのだろう。男である自分には女性の問題として遠く感じた部分もあったかもしれない。
それでも本棚に残っていた。
付箋の量が証明している。

二十年越しに再読して、ようやく腑に落ちてきたことがある。
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三砂氏の主張はシンプルだ。
エッチをしろ!
エッチをしないとエネルギーの捌け口が暴走する!
女性が女性性を軽視してはいかん、と力説している。
相模ゴム工業の調査では、男性は年齢とともに満足度が下がり、女性は60代でピークを迎える。Ipsos社の国際比較調査では、日本は29カ国中「性生活に満足しているか」の項目で最下位。満足度33%、「非常に満足」はわずか6%だ。ジェクスの調査では1年以上性交渉がない人が男性45%、女性52%にのぼる。
ここでの相模ゴムでの女性は60代でピークというのは面白い。色々とここでも話したいことはあるのだが今回は省略。
しかし、この調査ではひとつ引っかかることがある。
そもそも、何を「満足」と定義して聞いたのか。
質問票の作り方によって結果はがらりと変わる。「回数」や「オーガズムの有無」で満足度を測ることに、どれだけの意味があるのか。「不満がない」イコール「満足」という回答の中に、三砂氏のいう「身体の空洞化」が隠れているのではないか。
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そして、三砂氏の主張には大きな前提が抜けていると私は思う。
男性が女性を満足させることができる、ということだ。
自分勝手な男の性エネルギーが解放されたセックスでは女性にフラストレーションが溜まるだけだ。むしろそれがオニババ化をさらに加速させる可能性がある。
そして、男性は物理的な刺激のみでオーガズムは得られるが、女性はどうだ?利用されたと感じるだけではないだろうか?これらの行為が続くことに喜びや快感が生じるか?
昔義務と演技(内館牧子著)という小説が流行った。まさにこれを暗示していると言えないだろうか?
ここでも言いたいことはたくさんある。そもそもそのような関係を維持しているのはなぜなのか?
誰得なのか?
二人で話合うこともできないのか?
今回は性エネルギーの話なので割愛する。
それはまた別の機会に。
人間の性は本能だけで完結しない。性生活とは文化であり、技術だ。
学び、磨き、育てるものだ。
ところが日本にはその文化を伝える場がほぼない。性教育は「生命の誕生」で止まり、性を人間の営みとして深く教えることを社会全体が避けてきた。
その空白に流れ込んだのがアダルトビデオだ。
AVは男性目線で男性のために作られた映像だ。あれを事実上の「教科書」として育った世代は、自己本位な性行為を「これが正解」と学習することになる。女性側には自分の快不快よりも「演じること」が求められる構造が出来上がる。
三砂氏が警鐘を鳴らした2004年はまだ序章だった。スマートフォンとサブスクリプションサービスによってAVが無限にアクセスできるようになった現代では、この問題はさらに深刻になっていると現場の肌感覚では思う。
アダルトビデオ草創期には多種多様な監督が才気を迸らせていた。最近でも全裸監督で話題になった村西とおるを筆頭に清水大敬や代々木忠などなど。
今の60代前後の人はお世話になった方も多いだろう。
代々木忠はチャネリングSEXを唱え、著作でこう書いている。学校や会社や国家といった「制度の世界」の価値観を持ち込む限り、オーガズムは体験できない、と。AV業界の内側にいたからこそ見えた限界だろう。
現代人のセックスの不毛さを、誰よりも間近で見ていた人間の言葉だ。
だからこそ彼の作品は支持された。問題は、後から氾濫したAVがその本質を引き継がなかったことだ。残ったのは刺激だけだった。

身も心も裸になれない男女が、他者の評価や自分を守りながら交わっている。
代々木忠の弁を借りるなら自分を明け渡し、身も心も裸になるのが本来のセックスだ。そこに気持ちよくさせようなどという意識はそもそも入り込む余地がない。自分も相手もなくなり自他の境界線がない境地がオーガズムだろう。
と、考えるとどうだろうか?
三砂氏の論はいささか楽観的すぎる気がする。
そして、私の関心は冒頭で述べたまなつ嬢の江戸時代のフレーズだ。今とは違う時代でどのような性文化があったのか?少なくとも春画などを見る限りはみなすけべで旺盛だ。
これらのことも調べてみないと、現代人の性の問題なのか、日本人特有の問題なのかはわからないと思う。
また、関心のある分野が増えてしまった。こうして本の山が増えていく。また、時期を見てうちの図書棚も紹介したい。
その人を知るには、まず友達を知れと言います、という話がある。
私なら本を見ればその人がわかると言いたい。
男性の自己本位化が進み、女性のフラストレーションが蓄積し、セックスレスとオニババ化が加速する。この連鎖は性教育の空白が生んだ文化的な問題だ。
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そして、もっと根本的な話をしよう。
女性が子宮の病などで摘出した場合はどうなのか?
そして、私は前立腺がんの手術で勃起神経を取っている。つまりセックスはできない。
とはいえ、勃起神経が残っていたとしても、前立腺をとっているので射精はできない。
そう考えると、男性性の充足できない私は鬼ジジイか。
少なくとも自分ではそうは思っていないし、言われたこともない。
単に周りが言えない?という可能性もあるけど…。
三砂氏が本当に問題にしているのは「機能の有無」ではないはずだ。身体への無関心、自分の快不快に蓋をすること、理屈と攻撃性だけで生きること。それが「鬼化」の正体だろう。
勃起や挿入という「結果」に縛られないからこそ、見えてくるものがある。相手の体温、呼吸の重なり、言葉の響き。そういった微細な「快」に気づける余地が、むしろ生まれるとも言える。
性エネルギーの充足とは、性行為そのものではない。
自分の身体という器を愛おしみ、そこから湧き出る感覚を大切にできているか?
それが人間としての瑞々しさであり、オニババにも鬼ジジイにもならないための道ではないかと私は思う。
この著作ではエッセイ的な書かれ方なので、それ以外のオニババ化回避の選択肢もかかれてはいるのだが、今回は省略。
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