演劇科の教室で考えた「意味のある表現」とは
「外郎売」を立体化する教室にて
「外郎売」をチームで立体化する授業を見た。
生徒たちはまっすぐで、声をそろえ、自分たちで考えたポーズに向かって懸命だった。
がんばって覚えたセリフをしっかり発声する姿も素敵だった。
しかし、どこか胸に引っかかるものがあった。
昔の言葉がたくさん出てくるので、「わかりやすく示すために“立体化”する」という指示が与えられている。みんなで「武具・馬具」をポーズで示したりする。
しかし、
「なぜ、そのポーズをするのか」
「なぜ、今その言葉を言うのか」
その“理由”が、見えにくかったのだ。
教室には、「目的なき誠実さ」があったように思う。
みんなで決めた段取りに向かい、声を合わせ、動きをそろえる。
たしかな「努力」がそこにはあった。
個人的に、この「努力」を評価するのはせいぜい中学生までで、高校生はもうちょっと大人として扱っても良いような気がしている。
1年生の授業を見ていると毎年感じるのだが、「ボクの大キライだったガッコウ」という気がして、舌の上がザラっとする。
僕自身が自分を肯定するために、うだうだ書いてみよう。
「顔を見せて」「声を張って」──形式が目的になる瞬間
演劇科ではよく、「観客に顔を見せて」「もっと明るく」「大きな声で」といった指導が行われる。
それ自体は間違っていない。むしろ正しい。僕もよく言う。
しかし「顔を観客に見せる」ことは、それ単体で意味を持つものではない。
たとえば外郎売を演じるこの場合においては、「ういろうを、売らんとする心意気があるからこそ、観客に顔を見せる」という内容から実行されたい。
それでこそ意味を持つはずだ。
大きな声も同じだ。単に音量を上げるのではなく、「届く声」であることに価値がある。
けれど現場では、ときにその順序が逆になる。
「顔を上げる」「声を張る」「イントネーションを正しくする」といった“形式”が目的になり、「伝えるためにそれをする」という本来の意図が置き去りにされてしまう。
そうなると、演技は思考をやめる。
ルールに忠実であることが正義になり、
その結果として、一糸乱れぬパフォーマンスが生まれたりもする。
軍隊的な。これはこれで一つの「すごさ」ではある。
けれど……、それは「伝える」こととは別物だ。
そこに軍隊的な美徳はあっても、劇表現的な価値はない。
「すごいシンクロ率だ!」「なんて大きな声だ!」とかは、「劇表現」の評価軸ではないはず。(個人的な見解)
(何よりも、僕自身がその価値基準の一員では居られない人間だった)
学芸会と演劇の違いは、「意味の総量」
「今私が見たものと、学芸会との違いを考えた」と、授業でコメントした。
良く考えると、本質的には学芸会と演劇なんて同じものだろうと思う。
違うとしたら、「内包する意味の総量」だろうか。
たとえば「ういろうはいらっしゃりませぬか」というシメのセリフ。
これがただの「段取りと文字通りの意味」で終わるのが、学芸会なのかもしれない。
この一言に、「売り気」とか「自己陶酔」とか「達成感」とか、さまざまな感情が重なって、観客に届けられるのが、演劇かもしれない。
「なぜ今それを言うのか」という理由の複雑さこそが、劇表現の核心だ。
言葉も、動きも、すべてが「意味を伴うかどうか」で質が変わる。
顔を上げることも、声を出すことも、「何を伝えたいのか」という意志と結びついた瞬間、初めて“表現”になる。
「ありがとう」も「おはよう」も、形式に過ぎない
……「ありがとうって言えや!」と言われて言う「ありがとう」は、ほとんど意味を持たない。
これは夫婦生活の実体験からも明らかになっている、揺るぎない事実だ。
これはつまり、「言葉そのものに実際的な意味などない」という証明である。
言葉は、あくまでも意味を伝えるための一つのツールに過ぎない。
動きも、態度も同じだ。これはただの、道具である。
どれほど立派な発声であっても、「なぜ今それを言うのか」が伴わなければ、無価値に等しい。
「本当」を「技術」で伝えるということ
顔を上げることも、声を出すことも、すべては「伝える」という目的を達成するための手段である。
「伝える」とは、何を目的に、何を感じ、どうそこにいるのかが観客にわかることだ。
演技とは「嘘」をつくことではない。
「本当」を、「技術を伴って伝える」ことだ。
まず「本当ありき」の行為だ。
だから、「外郎売」の「本当」を、まず持つことがスタート地点だ。
ジャパネットたかた社長は、売ろうとしている。
その「本当」をさしおいてトレースしたところで、「模写としてスゴイ」に留まる。
「おはようございます」を言わない勇気
演劇教育の場で、「顔を上げろ」「声を張れ」と教えること自体を否定などしていない。
けれど、学生の認識がそこで止まってしまうと、「伝える」以前のところで終わってしまうことを懸念している。
大事なのは、「なぜそれをするのか」を考え続けること。
その問いを手放した瞬間、演技は“作業”に変わる。
表現とは、声や姿勢の正しさを競うものではない。
観客に届くのは、方法ではなく、「意志」だ。
“伝える”とは、技術ではなく、意味をもってそこに「存在する」ことだ。
「挨拶せえ!」と怒鳴る先生に、形骸化した「おはようございまーす」を返すような、「ごく普通の高校生」になって欲しくない。
「おはようございます」なんて言わないまま、「(今日もよろしくお願いします)」という意味を込めて、ニッコリ微笑み、さらっと目的を達成する「演劇科の高校生」になって欲しい。
最悪、邪道を生きろ
僕は人の目を見るのが苦手で大嫌いなので、人の目を見ないまま、「伝える技術」を磨いてきた。
「人の目を見て話せ!」と何度も叱られてきた。
マジで嫌だった。意味わからんかった。嫌やっちゅうねん。見たないねん。
だるすぎる。
じゃあ見んまま、「見たのと同じ効果」を発揮する技を磨いたるわ。
そんなふうに生きてきた。
そんな僕を肯定したくて、ずっとこんな言い訳をしている。
全部台無しにするが、「大きな声で顔を上げて演じたほうが良い」し、「人の目は見たほうが良い」。
挨拶なんか、何も考えずに大きな声でやれ。
無理な場合のみ、こんなふうにゴチャゴチャ吠えて、邪道を生きろ。
迷子になってるうちに、たぶん僕と出会うと思う。
むちゃくちゃ蚊に噛まれながら、なんとか生きてる。
(了)
