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⁠【創作大賞2026】17歳未婚の母、看護師歴16年の挑戦。夜勤に依存しない「パラレルワーカー」という新しい選択肢 ①⁠


第1章:17歳、未婚のシングルマザーがナースになるまで


17歳の秋、私の世界は一変した


現在の私は、介護施設で日勤常勤の看護師として働きながら、エステティシャン、そしてこのnoteで「資産型副業」を実践・発信する「パラレルワーカー」です。

プライベートでは17歳で産んだ長男を筆頭に、5人の子供の母親でもあります。

周りからは「どうやってそんなにたくさんの仕事を回しているの?」と驚かれますが、私のこの「絶対に折れないマインド」と「破綻しない時間管理術」の原点は、今から23年前、17歳の秋にあります。

同級生だった相手との間に、妊娠が発覚したのです。

当時は、法律的にもまだ結婚できる年齢ですらなかった。

親に何を言われるだろう、学校にはどう説明すればいいのか、私の人生はこれからどうなってしまうんだろう——。

迫り来る不安で、頭の中が文字通りぐるぐると支配され、夜も眠れなかったことを今でも鮮明に覚えています。

けれど、不思議なほど「産まない」という選択肢は、私の頭の中に1ミリも浮かびませんでした。

世間から見れば、17歳の未婚の妊娠は「間違い」に見えたかもしれません。

それでも私は、お腹に宿った小さな命を守る、つまり「息子を産んで育てる」と決意したのです。


友達が制服を着ていたとき、私はオムツを替えていた


彼とはその後もしばらく一緒にいましたが、10代の未熟さゆえの価値観の違いから、「この人と人生を共にして、結婚することはないな」と気づき、別れを選びました。

そこから26歳で結婚するまでの約9年間、私はシングルマザーとして生きることになります。

地元の友達は、みんな可愛い制服を着て、楽しそうに学校へ通っている。

一方で私は、狭い部屋の中で、泣き止まない赤ちゃんのオムツを替えている。

同世代の子たちのキラキラした日常と、自分の過酷な生活。まるで別の世界に生きているような感覚でした。

連絡を取り合う友達も、自然といなくなっていきました。

幸いにも私は実家で両親と同居させてもらっていたため、家事のほとんどを両親に甘え、家族の温かいサポートに支えてもらうことができました。

それでも、「学歴もない、お金もない私が、この子を私のせいで不幸にしたくない。何が何でも私がこの手を動かして、経済的に養わなければいけない」という張り裂けそうな責任感だけが、いつも私を突き動かしていました。


人生を変えた、12歳年上の女性の「一言」


息子を出産した後、私は自立のための一歩として、通信制の高校に編入しました。

なんとか高校を卒業する目処が立った頃、私はこれからの長い将来のことを、真剣に考え始めました。

中途半端なアルバイト生活のままでは、子供の教育費どころか、いつか生活が行き詰まってしまうと分かっていたからです。

そんな不安のどん底にいた時、12歳年上で、私がずっと心から信頼していた一人の女性が、私の目を見てこう言ってくれたのです。

「MOMOちゃん、絶対に資格があった方がいいよ」

たった、その一言でした。でも、その言葉は私の胸の奥深くに突き刺さり、消えることなく残り続けました。

シングルマザーの私に今、必要なものは、息子を一人で不自由なく育てていける「経済的な基盤」であり、日本全国どこでも食いっぱぐれることのない「手に職」でした。

考え抜いた末、私が出した答えは一つしかありませんでした。

「看護師になろう」

19歳の時、私の第二の人生の挑戦が始まりました。



限界を超えたマルチタスク。折れなかった理由


19歳で決意してから、道のりは果てしなく遠く、険しいものでした。

まずはアルバイトをしながら医療系の予備校に1年間通いました。

そして、看護専門学校への切符を掴んでからは、奨学金を借り、アルバイトも続けながらの、3年間に及ぶ猛勉強の日々が始まったのです。

まだ幼い息子を保育所に預け、家族に家事を支えてもらいながら、学校へ通う毎日。

特に、看護学校の「実習」は壮絶でした。

昼間は病院で張り詰めた空気の中、患者さんと向き合い、夕方、疲れ果てて帰宅してからは、山のような実習記録のレポート作成に追われます。

試験前になると、息子が眠りについた後の静かな部屋で、教科書を開くのが私のルーティンでした。

けれど、体力の限界で、教科書にマーカーを引いたまま、床で泥のように眠ってしまった夜が何度あったか分かりません。

それでも、私の心がポキリと折れてしまうことはありませんでした。

疲れ目でかすむ視線の先には、いつも、すやすやと眠る息子の小さな寝顔があったからです。

「この子の未来を守るためなら、今の寝不足なんてどうってことない」

息子という存在そのものが、私の限界を突破させてくれる最強のエネルギー源でした。



息子の小学校入学、そして私の「白衣」


死に物狂いの努力が実を結び、国家試験の合格通知を手にした時——それは、息子が小学校に入学する、まさにその春のことでした。


入学式の日、ピカピカの大きなランドセルを背負った息子。
そして、念願の白いナース服に袖を通した私。

「これから、一緒にがんばろうね」

息子に向かってそう声をかけた気がします。感動で胸が詰まって、うまく言葉にならなかったかもしれません。

私の胸の中は、19歳からの受験勉強の4年間だけでなく、あの17歳で出産した日から、息子と共に手を取り合って必死に生き抜いてきた「6年間のすべての記憶」が、走馬灯のように駆け巡っていました。

「私一人が頑張ったんじゃない。この子と一緒に、私たちはここまで来たんだ」という、言葉にできない熱い想いと達成感で溢れかえっていました。

あの暗闇のような17歳の日から走ってきて、やっと、ここまで来た。


第2章:心の安定を求めて——パワハラ、適応障害、そして見つけた新しい選択肢


公務員だった私が、職場に行けなくなった日


17歳で人生を諦めず、死に物狂いで掴み取った「看護師」という切符。私はその後、16年にわたり看護師としてのキャリアを積み上げていきました。

以前の私は、公立病院に勤める公務員の看護師でした。

安定している、給料もいい、福利厚生も手厚い。周りからは「恵まれてるね」「将来安泰だね」と言われていました。

けれど、誰も知らないその職場の中では、壮絶なパワハラが続いていたのです。

毎日出勤するたびに、胃が激しく痛む。
夜、眠れない日が続く。

「また明日が来てしまう」恐怖で、布団の中で一人、声を殺して泣いた夜が何度もありました。

ある日、体と心が音を立てて限界を迎えました。

医師から告げられた診断名は「適応障害」。

「しばらく休んでください」と言われたとき、不謹慎ながら正直、ホッとした自分を覚えています。

「もうあの場所に行かなくていいんだ」という安堵。それと同時に、「これまで築いてきた看護師としてのキャリアが、ここで終わってしまった」という激しい恐怖が押し寄せてきました。



3ヶ月の療養休暇、そして退職の決断


休職してからの3ヶ月間は、ただただ傷ついた心と体を回復させることだけを考えました。

子供たちのそばにいて、ゆっくり眠って、好きなものを食べる。それまで忘れていた「当たり前の日常」が、どれだけありがたいかを実感した時間でした。

そして、穏やかな日々の中で気づいたのです。

「お金の安定より、心の安定の方がずっと大事だ」


どんなに給料が良くても、毎朝職場に行くことが怖くて、眠れない夜が続くなら、それは本当の「安定」なんかじゃない。


私は退職を決めました。周りにどう思われるか、公務員を辞めるのがどれだけもったいないか。そんな世間の目よりも、自分と子供たちの笑顔を守ることを選びました。



派遣で働いた4ヶ月と、直面した厳しい現実


退職したからといって、すぐにまたフルタイムの正社員として働く自信はありませんでした。

「また同じように心が折れたら、今度こそ立ち直れないかもしれない」

そんな不安から、まずは責任の重すぎない派遣の仕事を選び、ゆるく働くことから始めました。

少しずつ「働く」ことに体を慣らしていく、いわばリハビリのような4ヶ月間でした。

心はだんだんと回復し、「あ、私、まだ看護師として動ける」という自信も少しずつ戻ってきました。

しかし、現実は甘くありませんでした。

派遣の給料は、公務員時代の約半分。5人の子供たちとの生活を守るには、明らかに足りませんでした。

目減りしていく貯金通帳を眺めながら、「このままじゃまずい」という焦りが日に日に大きくなっていきました。



点と点が線に繋がった未来で


生活を守るためには、やはり安定した収入が必要だ。その現実を受け入れ、私は別の介護施設で再び正社員(日勤常勤)として働き始めました。

しかし、以前の私とは決定的に違う点がありました。
頭の中に、ずっと一つの問いがこびりついていたのです。

「子供たちとの時間を犠牲にせず、これ以上の収入を増やす方法はないだろうか?」

生活費のために、これ以上夜勤を増やすことはしたくありませんでした。私が夜勤のバッグを持つだけで、まだ小さな娘は寂しさに耐えかねて号泣するのです。

後ろ髪を引かれる思いで仕事へ向かうたび、私の胸は引きちぎれそうでした。

残業まみれの激務に戻るのも、心がまた悲鳴を上げるのが分かっていました。

「おうちで、子供のそばにいながら、自分の力で、看護師としての強みを活かして稼げるようになりたい」

そんなわがままに見える願いを叶えるヒントは、実は私のこれまでの歩みの中に隠されていました。


私は看護師になってすぐ、今から約15年前になりますが、以前から興味のあったエステティシャンの資格を取得していました。

当時はただ「好きだから」という理由でしたが、その後、メディカルエステの現場でリーダーを3年間務める機会に恵まれたのです。

その3年間は、私の財産です。
現場のリーダーとしてお客様の肌と向き合う中で、「やっぱり私は美容の仕事が心から好きなんだ」と再確認できました。

それだけでなく、看護師としての解剖生理学や医療知識があるからこそ深く理解できる、「美容医療とエステの決定的な違いや境界線」をロジカルに学ぶことができたのです。

その後は一度、安定を求めて公務員ナースの道へ進んだため、エステの経験は心の奥にしまい込んでいました。

しかし、パワハラで倒れ、派遣としてリハビリをしながら「どう生きるか」を模索したとき、この過去の経験が鮮やかによみがえってきたのです。

「看護師の知識」と「美容の経験」、この2つを掛け合わせたら、私にしかできない働き方ができるのではないか。

そこから私は、介護施設での仕事を軸にしながら、派遣の合間にエステティシャンとしての活動を再開。

さらに、その経験を同じように悩む看護師さんに向けて届けるために、「noteでの発信」という新しい世界に飛び込みました。

本業の看護師をベースにしながら、自分の得意や過去の経験をいくつかの新しい収入源に変えていく。

これこそが、私が苦難の末に行き着いた「パラレルワーカー」という答えです。


17歳で出産したあの日も、専門学校で泥のように眠った日々も、パワハラに震えた夜も、当時は必死すぎて「自分の選択が正解かどうか」なんて振り返る余裕は1ミリもありませんでした。

でも、あのとき抱きしめることしかできなかった息子が23歳になり、立派に自立して自分の人生を歩んでいる今なら、胸を張って言えます。

私の選択は、何一つ間違いじゃなかった。

あの涙を流したすべての点があったからこそ、今の私はエステも発信もできる看護師になれたのです。

どんな絶望的な状況に見えても、前を向いて歩き続ければ、人生の点と点は、未来で必ず鮮やかな一本の線になって繋がっていく。

それが、過去の私と同じように、今しんどくて未来が見えない誰かに、私が一番伝えたいメッセージです。

あなたの人生の正解は、今の職場の中だけにあるわけじゃない。一歩を踏み出す勇気さえあれば、働き方も、未来も、自分の手でいくらでも変えていけます。


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