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96歳の祖母のお葬式で気づいた、人生の最後に残るもの

こんにちは、仁です。

96歳の祖母のお葬式に参列してきました。

人生の最後に残るのは、

どれだけお金を持っていたかでもなく、
どれだけ財産を築いたかでもなく、

どれだけ人を愛し、愛され、
どれだけ人とのつながりを育み、
徳を積んでこられたか。

そんなことを考える一日になりました。


祖母は和歌山の田舎にある平家で、
一人暮らしをしていました。

戦後、おじいちゃんが出稼ぎに出ている間、
駅前で果物屋を営んだり、
タクシー会社の事務をしたり、
4人の子育てをしながら、家計を支えてきました。

芯が強く、
思ったことは、はっきり言うタイプ。

ときには周りに厳しい言葉をかけてしまうこともあり、
母は苦労したこともあったそうです。

それでも孫の私には、
いつも優しいおばあちゃんでした。

帰省するときは、
いつも縁側に座り、
庭を眺めながら
到着を待っていてくれる。

玄関を開けると、
「よく来たね」
と迎えてくれる。

家に入ると、
おばあちゃんの家の匂いがする。

それだけで
「ああ、帰ってきたなぁ」
と安心した気持ちになれる。

仏壇の前に座り、
おじいちゃんに手を合わせ
「ただいま、元気に過ごしてきたよ」
と報告する時間も
心がほっとする時間でした。

そんないつも当たり前のように
出迎えてくれていた
おばあちゃんが亡くなった家にいくと、
同じ家、同じ室内、同じ匂いでも、
どことなく違う空気を感じました。

365日のうち毎年、数日だけの帰省、
それでも、そこにおばあちゃんがいてくれる、
遠く離れていても、おばあちゃんがいる、
また帰省したら会うことができるというだけでも
私の生活の力になっていました。

損得ぬきに自分のことを
受け入れてくれている
人の存在は大きいものです。

生きていくうえで
何者にもかえられない
かけがえのないものです。

自分のことを大切に
思ってくれていた人は、
意識のなかで、
どこかでずっと存在しています。


お葬式には子どもや孫、ひ孫たち、
普段はバラバラに生きている親族が
50人ほど集まりました。

どこか照れ臭く、よそよそしく
社会人としては身分も立場も
違う人たちの集まりだけど、

親族というだけで他人行儀ではなく、
身内としての距離間で会話がされる。

お葬式に集まる人、
そこで交わされる会話、
懐かしそうに笑う人、
寂しそうな表情を浮かべる人。

式場ではその様子を
どこか客観的にみている自分がいて、
おばあちゃんはたくさんの人に愛されながら
生きてきたんだなぁと実感していました。

たとえ
・どれだけお金をもっていても
・どれだけ財産があったとしても
・どれだけ遺産があったとしても
結局、亡くなってしまうと
そこにあるのは、
その人の「人徳」だけなんだなぁとも
感じていました。

おばあちゃんが最後に残してくれたもの、
それは「人はいつか死ぬ」
という当たり前のことを改めて考える時間、

そして
・これからどんな人生を送りたいのか
・どんな時間を過ごしたいのか
・どんな最後を迎えたいのか
自分自身に問いかけるきっかけを残してくれました。

人生折り返し地点を過ぎ、
これからの時間をどう使うのかを大切にしたいと思います。

子どもたちと過ごせる今の時間。
今だから会える人。
今だから経験できること。
そうしたものを大切にしながら生きていきたいと思います。

おばあちゃんのように、
最後は集まった人たちから「ありがとう」
と慕ってもらえるような生き方をしていきたい。

そのために特別なことをするのではなく、
家族との時間を大切にすること。
目の前の人に誠実に接すること。
今日という一日を大切に過ごすこと。

そんな小さな積み重ねを、
続けていきたいと思います。

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