あなたも始めている信仰生活

無駄なことが好きだ。

何かをしている時に横道に逸れることが好きだし、サボることが好きだ。実益のない行為が好きだし、中身のない会話が好きだ。

それそのもの、形式が好きなのだ。何かをサボり何かをするのではなく、サボることそのものが好きなのだ。サボっている時のあの高揚感、これが大好きだ。

これらの行為、行為対象には一切の価値がない。何も生み出さない。むしろマイナスになる。しかし好きだ。

一見偏屈、歪みに見えるがそうでもないと思う。思えば娯楽とはそういうものだ。

時間が資産である現在、何も生み出すことのない娯楽はやるだけでマイナスになる、と捉えられないこともない。空き時間を使って資格勉強をすることが当たり前になっている昨今、何もしない時間は無意義という見方は特異ではないだろう。

この風潮はありがたい。無駄なことがさらに一際輝くからだ。

しかしそれはそれとして、果たして娯楽は本当に無意義なのだろうか。

ストレス発散になるとか活力がとか、そういう話ではない。もっと極端な例として、一生遊んで暮らせる人間が一生遊んで暮らした場合、その人生は無意義な人生になるのか。

遊びで発散するストレスがそもそもない人生。明日への活力のために遊ぶ必要がない人生。それを考えた時、その遊びは何にもつながらない、無意義で無意味なものなのか。

そんなことはないだろう。それをずっとやっているのだから、きっと当人にとってそれは実益ある行動のはずだ。

それは当人にとって価値がある。他の人にとってはなくとも。こんなことは頻繁にあることだ。

人それぞれ、という価値観が浸透し尽くした現在。上記のような見方であれば、多くの人が肯定するだろう。

なら何故資格形成だのなんだのに時間を使わないのが勿体無いと言われるのか?それはそれをすることが実益だと、多くの人にとって信じられているからだ。

キャリアプランを考えた時、資格を取りどんどん転職を繰り返し年収を上げていく、そうして安定を得ていく。こうしなければむしろ将来的にどうにもならなくなる。そう信じられているからだ。

しかしそれはあくまでそう信じられているという話で、実際のところそれを完遂した人間は果たしてどれほど存在するのか。現在定年を超えた人間、つまり人生の土台を築き終わっているはずの人間の過半数が資格を取り安定した生活を得ているのか?

実際のところ、現在も主流なのはシルバー人材として務めている人たちだ。つまりまだ働いている。定年後の安定を現実的に考えるのなら、これが最も安定するというデータがある。

その状態なのだから、現在時点からそのような、つまりあくなき資格取得に努めることが人生において最高に実益のあることであると、そう証明できている現状など何もないのだ。

だからそれは、単に現在の状況から逆算し、類推した結果に過ぎない。それはつまり、信じているということだ。

信じているとは信仰である。だからそのような未来を多くの人が信仰していて、それが実益であると信仰しているのだ。

注意としては、多くの人が信仰しているものには集合知があり、つまりそれなりに信憑性がある。しかしそれはそれとして、あくまで信仰に過ぎないということだ。

それを考えると、実益、つまり価値というものはやはり当人の信仰によって決まるものであると言わざるを得ない。

たとえ無駄な行為であっても本人が信仰しているものであれば、それは確かな価値を持つ。

というより、実益よりも信仰が先立つのだ。

何かを始めるには、人生の方針を決めるには、信仰がなければならない。ないと思っている人は、ただ無自覚なだけだ。

僕は読書が好きだ。そしてその原動力は信仰心だ。読書に価値があると信じている信仰心があるからそれに向かって進めているのだ。

資格取得に邁進する人は資格を信仰しているのだ。ことここにいたって、読書と資格取得には何の差もない。遊びと比較してもそうだ。

もちろんそれが目の前の実益、つまり直接的な収入に繋がることはある。ここで言っているのはそういうものではなく、人生全体の見方としての話だ。

まず信仰心ありきなのだ。一神教、あるいは神秘から抜け出した我々は結局信仰心から脱せていない。信仰心はいつまでも原動力であり続ける。

何かを実益だと断言する行為は異端の排除なのだ。それが異端の排除であると認識しなければならない。そうしてようやく、まともに将来の進路を考えることができる。

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