遠くへ行かなくても、夏はすぐそばにある
朝のうちに、近所の川へ出かけた。
昼に近づけば、きっと厳しい暑さになる。
まだ空気に少し涼しさが残っている午前中、ご縁のある方と、その子どもたちと一緒に川へ入った。
今日の目的は、川を歩くこと。
流れに沿って下ったり、途中で泳いだり、また上流へ戻ったりする。
いつもは岸から眺めている川も、実際にその中へ入ってみると、まるで別の世界だった。
石には苔が生えていて、足を置くたびに滑りそうになる。
浅く穏やかな場所もあれば、急に深くなる場所もある。
流れの速いところでは、踏ん張っていないと足を取られそうになる。
ひとつの川の中にも、いくつもの表情がある。
水の冷たさ。
足裏に触れる石の感触。
木々の間からこぼれる光。
水の流れる音。
子どもたちの笑い声。
身体の感覚が、次から次へと目を覚ましていく。
少し歩けば、また景色が変わる。
流れの強さが変わる。
足元の感触が変わる。
そのたびに、意識は自然と「今ここ」へ戻ってくる。
途中で、川の中や岸辺に落ちているごみを拾った。
せっかくの自然の中にごみがあることを残念に思う気持ちもある。
けれど、怒りながら拾うのではなく、目の前にあるものを静かに手に取る。
川で遊ばせてもらいながら、ほんの少しだけ、この場所をきれいにして帰る。
そんなささやかな循環も、心地よく感じられた。
出かける前には、途中でゆっくり座れる場所があれば、みんなで瞑想をするのもいいね、と話していた。
けれど結局、あえて瞑想の時間をつくることはなかった。
川の中を歩き、流れに身体を預け、石を踏み、水に触れ、風を感じる。
それだけで、十分だった。
むしろ「瞑想をしよう」と目を閉じなくても、私たちはすでに深く自然を味わっていたのだと思う。
瞑想とは、必ずしも静かに座ることではない。
目の前にあるものを、判断せずに感じること。
身体の感覚に気づくこと。
過去や未来ではなく、今この瞬間にいること。
そう考えるなら、川の中で過ごした時間そのものが、ひとつの瞑想だった。
子どもたちは、水の中へ飛び込んだり、石を渡ったり、流れに逆らって歩いたりしながら、目の前の世界を全身で楽しんでいた。
そこには、「自然を味わおう」という意識すらなかったのかもしれない。
ただ楽しいから遊ぶ。
冷たいから声を上げる。
おもしろそうだから、やってみる。
大人になると、何かを味わうためにも、意味や目的を求めてしまうことがある。
けれど本当は、ただ遊ぶことも、ただ感じることも、それだけでいい。
夏休みというと、どこか遠くへ出かけることを思い浮かべる。
旅館やホテルを予約して、観光地へ行き、特別な体験をする。
もちろん、そんな旅もすばらしい。
けれど遠くへ行かなくても、お金をかけなくても、家のすぐそばに、こんなに豊かな時間があった。
冷たい川の水。
緑に囲まれた風景。
一緒に笑える人たち。
全身を使って自然と遊ぶ時間。
それだけで、心は十分に満たされていた。
一緒に歩いた方が、あとからこんなことを話してくれた。
「いろんなものを感じながら、いらないものを流せた気がしました」
「あのあと、すごくいい昼寝ができました」
川の流れに身を置くことで、身体の中に溜めていたものも、少し一緒に流れていったのかもしれない。
考えすぎていたこと。
知らず知らずに入っていた力。
言葉にならない疲れ。
何かを無理に手放そうとしなくても、水に触れ、自然の中で遊んでいるうちに、いつの間にか心と身体が緩んでいく。
そして家へ帰り、安心して眠る。
それは、とても自然で、健やかな一日の終わり方だと思う。
遠くへ行かなければ、特別なものには出会えない。
以前は、どこかでそんなふうに思っていたのかもしれない。
けれど本当は、豊かさは距離では決まらない。
どこへ行ったかではなく、そこで何を感じたか。
何を成し遂げたかではなく、その時間にどれだけ心を開いていたか。
すぐそばを流れる川は、今日も同じように流れている。
けれど、その中へ入り、全身で触れてみたとき、いつもの景色はまったく違って見えた。
幸せは、どこか遠くに用意されているものではない。
気づくことができれば、きっといつも、すぐそばにある。
この夏も、そんな小さくて確かな豊かさを、ひとつずつ味わっていきたい。

