見出し画像

まともの定義

普通ではなく、戻ってこられる力

「まとも」とは何か。

そう聞かれると、私たちは案外すぐに答えられそうな気がする。

まともな人、まともな考え、まともな社会、まともな判断。
日常の中で、私たちはこの言葉を何気なく使っている。

けれど、改めて考えてみると、この言葉はかなり不思議だ。

なぜなら「まとも」は、ただの褒め言葉ではないからだ。
時には、人を内側と外側に分ける境界線にもなる。

「まともな人なら、そんなことはしない」
「まともな大人なら、こう考える」
「まともじゃない」
「まともな社会なら、こんなことは起きない」

こう言われると、多くの人は反論しにくい。

なぜなら、「まとも」という言葉には、どこか説明を省略する力があるからだ。
具体的な理由を言わなくても、なんとなく正しそうに聞こえる。
なんとなく常識的に聞こえる。
なんとなく、それに反する側が間違っているように見えてしまう。

しかし、本当にそうなのだろうか。

まともとは、普通であることなのか
多数派と同じであることなのか
常識に従うことなのか
社会の中で浮かないことなのか

考えていくと、どうやら「普通」と「まとも」は同じではない。

普通とは、多くの場合、多数派との距離で決まる。
その時代、その地域、その集団の中で、多くの人がしていること、多くの人が信じていること、多くの人が受け入れていること。

つまり普通とは、社会の平均に近い状態だ。

しかし、まともはそれとは少し違う。

普通ではないけれど、まともな人はいる
普通に見えるけれど、まともではない人もいる

普通であることは、集団の中で浮かないことかもしれない
けれど、まともであることは、ただ浮かないことではない

むしろ、みんなと同じ形をしていなくても、現実や他者との接続を失わず、間違えたときに戻ってこられる人がいる。
反対に、見た目はとても普通で、言葉も態度も整っているのに、自分の矛盾を見ようとせず、他者や現実の方をねじ曲げてしまう人もいる。

では、まともとは何か。

今回の考察の中で見えてきたのは、こういうことだった。

まともとは、矛盾がないことではなく、矛盾を処理し続ける力である。


矛盾しない人ではなく、戻ってこられる人

人間は矛盾する。

これは、たぶん避けられない。

理想と現実はずれ、感情と論理はぶつかり、言っていることとやっていることも完全には一致しない。
自分の幸福と他者の幸福も、短期的に得なことと長期的に大切なことも、いつも綺麗に並んでくれるわけではない。

たとえば、環境のことを大切にしたいと思いながら、忙しい日には使い捨てのものに頼ってしまう。
人には優しくありたいと思いながら、余裕がないときには誰かに冷たくしてしまう。
健康が大事だとわかっていながら、疲れた夜には体に悪いものを選んでしまう。
家族を大切にしたいと思いながら、仕事や生活に追われて、近くにいる人ほど後回しにしてしまう。

こうした矛盾は、誰の中にもある。

だから、人間に矛盾があること自体は、珍しいことではない。
問題は、その矛盾を見たときに、自分を全否定するのか、見なかったことにするのか、それとも少しずつ調整しようとするのかにある。

矛盾があること自体を「まともではない」と言ってしまえば、人間はほとんど誰もまともではなくなってしまう。

本当に大事なのは、矛盾があるかどうかではない。

矛盾に気づいたとき、どうするか。

学ぶのか
修正するのか
保留するのか
謝るのか
考え直すのか

それとも、見なかったことにするのか
相手を攻撃するのか
現実の方をねじ曲げるのか
自分に都合のいい物語で覆い隠すのか

ここに、その人の「まともさ」が現れる。

まともな人とは、間違えない人ではない。
矛盾しない人でもない。
常に正しい人でもない。

まともな人とは、間違えたときに、まだ戻ってこられる人である。

ただし、ここでいう「戻ってこられる」とは、昔の自分に戻るという意味ではない。
多数派の中へ戻ることでも、場に合わせて自分を消すことでもない。

正しさへ戻る、というよりも、現実との接続へ戻る
対話のテーブルへ戻る
他者の存在をもう一度見られる場所へ戻る
自分が間違っていたかもしれない、と思える余白へ戻る

人は間違える
偏る
感情に飲まれる
自分に都合よく世界を見てしまうこともある

それでも、そこで完全に閉じてしまわないこと。

自分の正しさだけを守るために、現実や他者を壊すのではなく、もう一度、事実と対話と修正可能性のある場所へ戻ってこられること。

その力を、ここでは「まとも」と呼びたい。

自分の中の矛盾に気づいたとき、それを完全に消せなくても、少なくとも処理しようとする人
自分の都合だけで現実を壊さない人
自分の正しさを守るために、他者を消そうとしない人
世界との接続を、完全には切らない人

そう考えると、まともとは固定された人格ではなく、かなり動的なものだ。

一度手に入れたら終わりではない。
人生の中で育ち、揺れ、崩れ、また立て直されるもの。

まともとは、世界との摩擦の中で育つ、後天的な矛盾処理能力なのだと思う。


まともは、生まれつきではなく育つもの

人間は、生まれた瞬間からまともなのではない。

赤ん坊はルールを知らない
言葉も知らない
善悪も知らない
責任も知らない
約束も知らない
社会の仕組みも知らない

そもそも、従うべきルールがあることすら知らない。

そこから人間は、少しずつ世界を覚えていく。

怒られる
褒められる
傷つく
誰かを傷つける
失敗する
許される
許されない
嘘をつく
信じられる
裏切られる
何かを学ぶ
何かを失う

そうした経験の積み重ねの中で、人間は少しずつ、自分と他者と社会と現実のあいだにあるズレを処理する方法を身につけていく。

だから、まともとは生まれ持った性質というより、人生の中で蓄積される調整能力に近い。

認識が育つ
知識が増える
経験が重なる
他者の痛みを知る
自分の限界を知る
世界が自分の思い通りには動かないことを知る

それでも、自分の内側だけで閉じずに、なんとか外側と接続しようとする。

その積み重ねが、まともさを育てる。

しかし、だからこそ危険でもある。

後天的に育つものなら、育てることもできる
壊すこともできる
歪めることもできる
囲い込むこともできる

ここに、「まとも外し」という問題が現れる。


まとも外しとは何か

人間の矛盾は、本来なら少しずつ処理されていくものだ。

気づき、考え、失敗し、修正し、また誰かと関わる。
その繰り返しの中で、人は少しずつ現実との接続を取り戻していく。

けれど、その矛盾は、処理されるだけではない。
利用されることもある。

不安がある人には、安心を売ることができる
怒りがある人には、敵を与えることができる
孤独がある人には、閉じた仲間意識を与えることができる
罪悪感がある人には、従う理由を与えることができる

ここに、「まとも外し」という問題が現れる。

ここでいう「まとも外し」とは、誰かを単に変にすることではない。

人が自分の矛盾に気づき、考え直し、戻ってくるための道を狭めること。
あるいは、その人の矛盾処理能力を壊したり、偏らせたり、都合のいい方向へ誘導したりすること。

それが、ここでいうまとも外しである。

ただし、これは単純に「嘘を信じさせること」だけではない。

ここが重要だ。

まとも外しは、嘘だけで行われるわけではない。

むしろ、真実もよく使われる。

本当のこと、正しいこと、善意、希望、責任感、正義感、愛情、信頼、人情。
こうした「本物」が使われるからこそ、まとも外しは見抜きにくい。

完全な嘘なら、まだ疑える。
でも、そこに本当のことが混ざっていると、人は簡単には疑えない。

たとえば、ある人が怒ったとする。
それは事実だ。

ある人が暴言を吐いたとする。
それも事実かもしれない。

ある人が場を乱したとする。
それも、結果だけ見れば本当かもしれない。

しかし、その前に何があったのか。

どのような圧力があったのか
どのような挑発があったのか
どのような孤立があったのか
相手の逃げ道は残されていたのか
その人が壊れるような場が、あらかじめ作られていなかったか

結果だけを切り取れば、真実に見える。
しかし、その真実が生まれるまでの道筋を見ると、まったく違う意味を持つことがある。

つまり、真実とは結果だけに宿るものではない。

そこに至るまでの関係、圧力、沈黙、誘導、配置、文脈。
それらを含めて見なければ、本当の意味での真実には近づけない。

嘘よりも厄介なのは、都合よく生まれた真実である。


真実もまた、使われる

真実は、ただ見つけられるものとは限らない。
場の作り方によって、偏った形で現れてしまうことがある。

ある人が悪く見えるような場を作る
ある人が怒るような状況を作る
ある人が失敗しやすい配置を作る
ある人が断れない空気を作る
ある人が逃げられない関係を作る

そして、最後に結果だけを見せる。

「あの人は怒った」
「あの人は失敗した」
「あの人は協調性がない」
「あの人は危ない」
「あの人はまともではない」

このとき、表に出された事実は本物かもしれない。

だが、その事実がどのように生まれたのかを隠してしまえば、真実は人を照らすものではなく、人を追い込む道具になる。

この意味で、まともさとは、嘘を見抜く力だけでは足りない。

本当のことが語られているときにも、その本当がどのように生まれ、どのように切り取られ、どの方向へ使われているのかを見る力が必要になる。

まともとは、事実を見る力であると同時に、事実の生成過程を見る力でもある。


論理は、倫理にも支配にもなる

ここでさらに考えたいのは、論理と倫理の関係だ。

論理は、それ自体では倫理ではない。

論理とは、ある前提からある結論へ進むための道筋だ。
しかし、その道筋を何のために使うのかは、論理だけでは決まらない。

人を助けるためにも使える
人を説得するためにも使える
人を騙すためにも使える
人を閉じ込めるためにも使える
人を自由にするためにも使える

つまり、論理は道具である。

その論理を倫理へつなげるのか、支配へつなげるのか
保護へつなげるのか、搾取へつなげるのか
教育へつなげるのか、操作へつなげるのか

それは、扱う者の目的、立場、利益、想像力、他者への接続の深さによって変わる。

ここで、「まとも」は単なる論理力ではなくなる。

どれだけ筋が通っていても、その筋が人間や現実や未来との接続を壊していくなら、それをまともとは呼びにくい。

正論なのに、まともではないことがある
論理的なのに、人間を壊すことがある
効率的なのに、社会をゆっくり腐らせることがある

だから、まともとは論理だけではない。

まともとは、論理を使うときに、現実・他者・未来との接続を壊しきらない力である。


人間の中にある自然資源

ここで大切なのは、まとも外しを、単純に「悪い人が人を騙す話」としてだけ見ないことだ。

もちろん、意図的に利用する人はいる。
けれど、それだけで説明してしまうと、構造の広がりを見落としてしまう。

人間には、もともと利用されやすいものがある。

不安になれば、安心を求める
孤独になれば、所属を求める
怒りがあれば、原因を探したくなる
希望があれば、そこへ向かって動きたくなる
信じたいものがあれば、それを守りたくなる

それらは人間の弱さであると同時に、人間らしさでもある。

だからこそ、それらは資源にもなる。

ここで、ひとつの比喩が見えてくる。

まとも外しは、陰謀論的に「誰かが全部を操っている」という話に閉じ込めるより、石油のようなものとして考えた方がわかりやすい。

石油は、自然の中に生じたものだ。

それ自体が善でも悪でもない。
人間が作った感情でも、誰かが発明した欲望でもない。

自然の中に存在していた高密度の資源を、人間が掘り出し、精製し、流通させ、さまざまな用途に使っている。

燃料にもなる
素材にもなる
薬品にもなる
道路にもなる
兵器にも関わる
環境汚染にもつながる

石油そのものが善悪を決めるのではない。
どう使うかが問題になる。

人間の中にも、これに近い自然資源がある。

恐怖、希望、怒り、不安、承認欲求、帰属欲求、正義感、孤独、劣等感、優越感、愛情、罪悪感、夢、物語、信頼、責任感。

これらは本来、悪いものではない。

むしろ、人間を人間たらしめる大切な材料だ。

人は希望があるから生きられる
誰かに認められたいから努力できる
正義感があるから理不尽に怒れる
愛情があるから誰かを守ろうとする
責任感があるから約束を果たそうとする

しかし、それらは同時に、利用可能な資源でもある。

希望を使って人を立ち上がらせることもできるし、希望を使って人を閉じ込めることもできる。
正義感を使って弱い人を守ることもできるし、正義感を使って敵を作り、人を攻撃させることもできる。
責任感を使って信頼を育てることもできるし、責任感を使って断れない人を追い込むこともできる。
愛情を使って人を癒すこともできるし、愛情を使って人を縛ることもできる。

だから、問題は感情や論理や希望そのものにあるのではない。

それらをどう採掘し、どう精製し、どう流通させ、何のために使うのか。
そこに問題がある。


石油モデルで見るまとも外し

まとも外しを石油モデルで見るなら、こうなる。

まず、人間の不安や欲望を採掘する。
次に、それを物語や制度や商品や思想に精製する。
次に、メディア、組織、教育、コミュニティ、SNS、仕事、家庭などを通して流通させる。
最後に、人間の行動、購買、投票、沈黙、怒り、忠誠、依存として消費させる。

では、誰がそれを採掘し、精製しているのか。

それは、特定の誰か一人とは限らない。

広告が不安を掘り起こすこともある
SNSの仕組みが怒りや承認欲求を増幅させることもある
政治的な言葉が恐怖や敵意を形にすることもある
会社の評価制度が、責任感や不安を利用することもある
学校や家庭の空気が、「みんなと同じでなければならない」という感覚を強めることもある

そして、私たち自身もまた、無意識のうちにそれに加担することがある。

誰かの不安を利用して説得する
誰かの優しさに甘えて、断れない空気を作る
誰かの怒りを都合よく使って、自分の正しさを補強する
誰かの失敗だけを切り取って、自分の側を正しく見せる

つまり、採掘する側とされる側は、完全に分かれているわけではない。
私たちは時に利用される側であり、時に利用してしまう側でもある。

ここで重要になるのが、濃度・深度・頻度だ。

不安の濃度を上げる
希望の深度を調整する
怒りの頻度を増やす
承認の供給を小出しにする
罪悪感を繰り返し与える
外部への恐怖を濃くする
内部への依存を深くする
自分で選んだと思わせながら、実際には選択肢を狭めていく

こうなると、人は自分の意思で動いているように見えて、かなり設計された流れの中で動くことになる。

もちろん、これを利用する人が全員悪人とは限らない。

教育も人間心理を使う
医療も使う
広告も使う
政治も使う
宗教も使う
家族も使う
会社も使う
芸術も使う
物語も使う

問題は、使うことそのものではない。

その利用が、人間の矛盾処理能力を育てる方向へ向かうのか。
それとも、人間の矛盾処理能力を奪い、狭め、閉じ込める方向へ向かうのか。

ここが分岐点になる。


まとも外れのいくつかの型

まとも外しを考えるためには、まず「まともではない状態」にも種類があることを見た方がいい。

ひとつは、認識や知識の不足によって起きるまとも外れ。

これは、本人に強い悪意があるとは限らない。
知らない、見えていない、経験が足りない、前提が欠けている、判断材料が不足している。

この場合、知ることで戻ってこられる可能性がある。

次に、そもそも自分が矛盾している段階まで届いていないまとも外れがある。

これは少し難しい。

自分の考えを疑わない
前提を見直さない
違和感を感じない
他者の指摘が届かない
自分の内側で世界が完結している

本人は本気で、自分こそまともだと思っていることが多い。

さらに、気づいているのに処理しないまとも外れもある。

本当はおかしいとわかっている
しかし、修正すると自分が損をする
立場を失う
収入を失う
支持者を失う

だから、気づかないふりをする。
あるいは、矛盾を正当化する。

これは、いわば利得型のまとも外れだ。

そして、さらに危険なのが操作型まとも外れである。

これは、自分がまともから外れるだけではない。
他者のまともさまで外させる。

不安を煽る
怒りを煽る
敵を作る
都合のいい情報だけを流す
矛盾に気づかせない
気づいた人を孤立させる
「まともな人ならこう思う」と言って、まともの基準そのものを乗っ取る

ここから先は、個人の性格の話ではなく、社会の設計や情報環境の話に近づいていく。

矛盾処理能力の低い集団ほど、動かしやすい。
だから、まとも外しは、人を動かす技術にもなり得る。

人を動かす
団体を動かす
組織を動かす
社会を動かす
国を動かす
経済を動かす
政治を動かす
歴史を動かす

この段階になると、まともではない状態は、単なる個人の未熟さでは済まなくなる。


見える支配と、見えにくい囲い込み

かつての支配は、身体や身分に刻まれる形で見えやすかった。

もちろん、それ自体が極めて残酷なことに変わりはない。
けれど少なくとも、「支配されている」という状態は外から見えやすかった。

一方で、現代的な囲い込みは、もっと見えにくい形を取ることがある。

鎖ではなく、借金
刻印ではなく、肩書き
牢屋ではなく、契約
鞭ではなく、評価
監視員ではなく、システム
命令ではなく、自己責任
強制ではなく、自分で選んだと思わせる構造

この場合、本人は縛られているとすら思えないことがある。

ここで怖いのは、井の中の蛙が技術的に作れてしまうことだ。

井の中の蛙とは、ただ視野が狭い人のことではない。
外が見えない環境に長く置かれた結果、その井戸を世界そのものだと思ってしまう状態である。

情報を絞る
外部との接触を減らす
外側を危険だと教える
内側の価値観だけを反復する
疑問を持つ人を裏切り者にする
小さな報酬を与える
たまに希望を見せる
脱出には大きな損失があると思わせる
現状に適応するほど、外に出にくくなるようにする

こうなると、人は井戸の中で「まとも」になる。

ただし、それは本当のまともではない。

それは、閉じた領域の中だけで通用するまともだ。

閉域内まとも。

ある集団内では正しい
ある業界内では普通
ある組織内では常識
ある思想圏内では当然
ある経済圏内では合理的

しかし、外から見るとおかしい。
人を傷つけている
矛盾している
倫理が崩れている
現実との接続が切れている

たとえば、ある職場では、定時で帰る人が「やる気がない」と見なされることがある。
ある集団では、外の人には伝わらない専門用語を使えることが、仲間である証のようになることがある。
ある家庭では、誰か一人が我慢し続けることが「家族のため」と呼ばれることがある。
ある業界では、外から見れば過剰に見えるマナーや慣習が、「それが普通だから」で処理されることがある。

その内側にいる間は、それが当たり前に見える。

けれど、少し外側から見ると、そこには無理がある。
誰かの沈黙や、誰かの我慢や、誰かの見えない負担によって、その「まとも」が保たれていることがある。

これが、閉域内まともの怖さだ。

それは完全な嘘ではない。
内側では、確かに筋が通っているように見える。

しかし、その筋が外の現実や他者の痛みと接続した瞬間、静かに破綻し始める。

それでも内側にいる人たちは、自分たちこそまともだと思っている。

ここが操作型まとも外れの強さだ。

まともを奪うのではない。
別のまともを与える。

そして、その閉じたまともの中で、人は外の世界を間違っていると思うようになる。


希望すら、拘束に使われる

このとき、希望すらも利用される。

人は絶望だけでは動かない。
完全に壊されると、反乱するか、動けなくなるか、あるいは生きる力そのものを失ってしまう。

だから、囲い込みは絶望だけではなく希望を使う。

頑張れば報われる
選ばれれば上に行ける
今は苦しいが未来はある
外に出たら失敗する
ここにいればいつか認められる
あなたは特別だ
あなたはまだ負けていない
もう少し我慢すればよい

希望そのものは、本来とても大切なものだ。

しかし、希望が脱出ではなく拘束に使われるとき、それは未来を開くものではなく、現在に縛るものになる。

まとも外しの怖さは、まさにここにある。

人間の中にある大切なものを使って、人間を閉じ込めることができてしまう。


まともであろうとする心まで使われる

さらに厄介なのは、「まともであろうとする心」そのものも利用されることだ。

人は、できれば正しくありたい
信頼されたい
迷惑をかけたくない
責任を果たしたい
人を裏切りたくない
ちゃんとした人間でいたい

この感覚は、本来とても大切だ。

しかし、これすら利用される。

「まともな人なら我慢するよね」
「責任ある人なら断らないよね」
「本当に仲間なら疑わないよね」
「大人なら黙って受け入れるよね」
「あなたならわかってくれるよね」

こうして、まともであろうとする心が、逆にその人を縛る鎖になる。

つまり、まとも外しの高度な形は、まともさを攻撃するのではない。

まともであろうとする心を利用して、まともから外させる。

これは非常に厄介だ。

なぜなら、その人は自分が壊されているとは思わないからだ。
むしろ、自分はちゃんとしている、自分は耐えている、自分は責任を果たしている、自分は大人として振る舞っている。

そう思いながら、少しずつ自分の判断力を失っていく。


信用できる人とは、間違えない人ではない

では、信用とは何か。

ここまで考えると、信用できる人とは「間違えない人」ではないことがわかる。

間違えない人など、ほとんどいない。

信用できる人とは、間違えたときに、現実の方を壊さない人である。
自分の矛盾に気づいたとき、他者を攻撃してごまかさない人である。
知らないことを知らないと言える人である。
自分に不利な情報も扱える人である。
指摘されたときに、相手を即座に敵認定しない人である。
都合の悪い事実を、都合よく消さない人である。

逆に危険なのは、矛盾を持つ人ではない。

矛盾に気づいたとき、自分を修正せず、現実や他者の方を曲げようとする人である。

これは個人だけでなく、組織にも当てはまる。

まともな組織とは、失敗しない組織ではない。
失敗を検知できる組織である。
修正できる組織である。
内部からの指摘を潰さない組織である。
都合の悪い情報が上に届く組織である。
問題をなかったことにするより、問題を処理することを選べる組織である。

まともな社会とは、問題がない社会ではない。
問題が見える社会である。
異論が出せる社会である。
修正できる社会である。
少数派の声を完全に消さない社会である。
怒りや不安を利用する構造に、少しでも警戒できる社会である。

まともな政治とは、間違えない政治ではない。
間違いを認められる政治である。
データを見直せる政治である。
失敗を隠さない政治である。
人々の認識を操作しすぎない政治である。
自分たちの正当性のために、現実を犠牲にしない政治である。


悪者探しで終わらせないために

ここで大事なのは、この話を単純な悪者探しにしないことだ。

もちろん、意図的に人を誘導し、利用し、囲い込む人や組織は存在するだろう。
それは警戒すべきだ。

しかし、まとも外しは必ずしも、誰か一人の悪意だけで起こるわけではない。

利益構造、空気、同調圧力、教育不足、孤立、不安、承認欲求、経済的追い込み、情報環境、競争、正義感、善意。

こうしたものが組み合わさると、誰かが完全に設計しなくても、結果として人を閉じ込める構造が生まれることがある。

むしろ怖いのは、社会全体が無意識にその構造を再生産してしまうことだ。

家庭が閉じた井戸になる
学校が疑問を潰す場になる
会社が逃げられない囲いになる
メディアが怒りと不安を供給する
政治が敵を作る
経済が不安を収益化する
コミュニティが外部への恐怖を育てる

そうなると、社会は人をまともに育てる場所ではなく、まともから外れた状態を維持し、利用する装置になってしまう。

これが本当に危険なところだ。

ただし、この危険を語ることは、誰かを裁くためだけのものではない。
自分の外にいる誰かを「まともではない」と断じるためでもない。

むしろ、自分もまた、いつかどこかで閉じたまともの中に入ってしまうかもしれない。
自分の正しさを守るために、誰かの声を聞こえなくしてしまうかもしれない。
自分に都合のいい真実だけを集めて、安心してしまうかもしれない。

そう考えるための視点でもある。

まともとは、他人を測る定規である前に、自分の戻り道を確認するための灯りなのかもしれない。


それでも、まともは育て直せる

しかし、だからといって絶望する必要はない。

まともが後天的に育つものなら、壊されるだけではなく、育て直すこともできる。

知ること
考えること
疑問を持つこと
違和感を捨てないこと
他者の視点を入れること
自分の正しさを絶対化しないこと
事実だけでなく、文脈を見ること
結果だけでなく、生成過程を見ること
怒りだけでなく、怒りが生まれた場を見ること
相手の失敗だけでなく、失敗しやすくされた構造を見ること

こうしたことの積み重ねが、まともを育てる。

まともとは、きれいな人間になることではない。
矛盾のない人間になることでもない。

自分の中に矛盾があると知りながら、それでも現実や他者との接続を失わないようにすること。
間違えたときに戻ってこられる道を残しておくこと。
自分の正しさのために、世界の方を壊さないこと。

それが、まともなのだと思う。


まともの定義

最後に、今回の定義を置いておきたい。

普通とは、多数派に近いことである。

まともとは、矛盾を処理し続ける力である。

信用とは、矛盾を処理するときに、他者や現実を壊さないことである。

そして、

まとも外しとは、人間に自然発生する感情・論理・希望・恐怖・関係性を資源として扱い、その濃度・深度・頻度を調整することで、本人の矛盾処理能力と脱出可能性を操作する技術である。

もう少し短く言えば、

まとも外しとは、人間の自然資源を、人間自身の自由ではなく拘束に使う技術である。

だからこそ、まともであることは、単に「ちゃんとしている」という意味ではない。

それは、世界とつながり直す力である
自分を修正できる余白である
他者を消さずに現実を見る力である
本当のことが語られているときにも、その本当がどこから来て、どこへ向かって使われているのかを見ようとする力である。

まともとは、最初から正しいことではない。

間違いながらも、戻ってこられること
揺れながらも、世界との橋を壊しきらないこと
矛盾を抱えながらも、それを他者や現実への破壊ではなく、修正と理解へつなげようとすること。

人間は不完全だ。

だからこそ、まともは必要になる。

完全ではない人間が、完全ではない世界の中で、それでも互いに壊し合わずに生きていくための、後天的に育つ調整能力。

それが、私たちが本当に守るべき「まとも」なのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!