見出し画像

「平和を守る」と言う前に――私たちはまだ、平和になっていない



はじめに

ある日の夕方、ニュース番組で若い女性アナウンサーが原稿を読み上げていました。「日本は、この平和を守り続けることができるのでしょうか」。よく整った声で、よく整った表情で、よく整った文章が流れていきます。

私はその瞬間、テレビの前で固まってしまいました。守り続ける、と言いました。ということは、いま守るべき平和が手元にある、という前提です。しかし本当にそうでしょうか。私たちはもう平和を持っていて、あとはそれを落とさないように運べばいい、という段階にいるのでしょうか。

私にはどうしても、そうは思えないのです。

もちろん、日本の街で銃声が聞こえることはまずありません。徴兵の通知も届きません。空襲警報で叩き起こされることもありません。それは事実であり、決して軽くない事実です。世界には、その最低限すら手に入らない場所が今も存在しています。日本がその点で恵まれていることを、私は否定するつもりは一切ありません。

けれども、「銃弾が飛んでこないこと」と「平和であること」は、本当に同じことなのでしょうか。もしそれが同じなのだとしたら、平和という言葉はずいぶん安く見積もられていることになります。そしてもし同じでないのなら、「平和を守り続ける」という一文は、実はかなり乱暴な主張をこっそり忍び込ませていることになります。

この論考で私が問いたいのは、「日本の平和をどう守るか」ではありません。その一つ手前にある、「そもそも今、平和なのか」という問いです。

順序としては、まず平和という概念そのものを分解します。次に、日本社会の現状を公的な数字で確認します。そのうえで、凶悪犯罪に対する私たちの「慣れ」、血を流さずに進む分配の偏り、そしてそれらを診断しないメディアの役割を順に見ていきます。最後に、「守る」という動詞に埋め込まれた政治性を検討し、では私たちはどこから始めればよいのかを考えます。

先に断っておきますが、これは絶望を配って回る論考ではありません。むしろ逆です。病名がつかないまま体調不良を抱え続けることほど、人を消耗させるものはないからです。

第1章:「戦争がない」は、平和の必要条件でしかない

平和とは何かを考えるとき、私は辞書を引きませんでした。辞書は言葉の使われ方を記録するものであって、その言葉が正しく使われているかを保証してくれるわけではないからです。むしろ私が知りたかったのは、「これが揃っていれば平和と呼んでよい」という構成要素のほうでした。

この問いには、すでに半世紀以上前に整理を試みた人がいます。平和学という分野の創設者の一人、ノルウェーの社会学者ヨハン・ガルトゥングです。彼は「平和とは戦争のない状態である」という素朴な定義に真っ向から異議を唱えました。

ガルトゥングは平和を二つに分けます。一つは消極的平和、すなわち直接的な暴力――戦争、内戦、テロ、殺人といった、加害者の顔が見える暴力――が存在しない状態です。もう一つは積極的平和、すなわち社会の仕組みそのものが人の生命や可能性を削り取る「構造的暴力」が存在しない状態です。

構造的暴力という概念は、彼の理論の中でも特に切れ味の鋭いものだと私は思います。誰も殴っていないのに人が損なわれる、という事態を名指しできるからです。たとえば、経済的な理由で必要な治療を受けられずに寿命が縮む人がいるとき、そこには加害者らしい加害者がいません。誰か一人を捕まえて裁判にかけることもできません。しかし、その人の生命は確実に削られています。ガルトゥングはこれを、拳による暴力と同じ「暴力」の一種として扱いました。

さらに彼は後年、文化的暴力という第三の層を加えます。これは、直接的暴力や構造的暴力を「仕方がない」「自己責任だ」「昔からそうだ」と正当化してしまう価値観や言説のことです。構造的暴力が現実の仕組みだとすれば、文化的暴力はそれを批判から守る防護壁にあたります。

この三層構造を手に入れると、視界が一気に変わります。「戦争がないから平和だ」という命題は、三つのうち一つだけを見て全体を判定していることになるからです。試験でいえば、三科目のうち一科目しか受けていないのに合格を宣言しているようなものです。

もう一つ、忘れてはならない要素があると私は考えています。それは主観的な安心です。統計上どれほど安全であっても、当人が「明日どうなるかわからない」と怯えているなら、その人にとって平和は成立していません。平和とは客観的な指標であると同時に、生活実感の問題でもあるからです。国家が無事であることと、そこに住む一人ひとりが無事であることは、残念ながら自動的にはつながりません。

ここまで整理したうえで、日本の現状を見ていきたいと思います。

第2章:数字は何と言っているか

印象論で社会を語ると、たいてい自分に都合のいい結論に着地します。ですから、まず公的な統計に語らせることにします。

貧困について。 厚生労働省の2025年(令和7年)国民生活基礎調査によれば、日本の相対的貧困率は15.0%です。おおよそ7人に1人が、社会の標準的な生活水準を大きく下回る所得で暮らしている計算になります。そしてひとり親世帯に限れば、その割合は44.7%にのぼります。ふたつに一つ近い世帯が貧困線の下にいる、ということです。

ここで公平を期すために言い添えておきますが、この15.0%という数字は前回調査から0.4ポイント改善しています。子どもの貧困率も11.0%へと低下しました。悪化の一途をたどっているわけではありません。この点を伏せて危機だけを煽るのは、私が批判しようとしているメディアの手法とまったく同じになってしまいます。

しかし同時に、生活意識の調査では全世帯の55.4%が「生活が苦しい」と回答しており、母子世帯では82.1%に達しています。貧困率がわずかに改善する一方で、多くの人が苦しさを実感し続けています。この二つは矛盾ではなく、統計上の線引きと生活の手触りがずれているという、それ自体が重要な事実です。

社会政策学者の阿部彩さんは、日本の貧困が長く「見えない」ものとして扱われてきた経緯を丹念に記述しています。絶対的な飢餓が目に入らないために、貧困そのものが存在しないことにされてしまうのです。この指摘は、いま私が問おうとしている「平和」の話とまったく同じ構造をしています。目に見える極限状態がないことが、問題の不在の証明として使われてしまうのです。

治安について。 警察庁の犯罪情勢統計によれば、2025年(令和7年)の刑法犯認知件数は77万4142件で、前年比4.9%の増加でした。戦後最少を記録した2021年から4年連続の増加であり、コロナ禍前の2019年の水準をも上回っています。

とりわけ目を引くのが詐欺です。特殊詐欺の認知件数は2万7758件(前年比31.9%増)、被害額は1414億円(同96.8%増)で、いずれも過去最多を更新しました。オレオレ詐欺に限れば認知件数は前年比113.2%増、被害額は144.5%増です。倍増、という言葉が統計の上で現実に起きています。

その担い手として警察庁が名指ししているのが、匿名・流動型犯罪グループ――いわゆる「トクリュウ」です。SNSの「闇バイト」を通じて集められ、離合集散を繰り返すため、従来の暴力団対策の枠組みでは捕捉しにくい集団です。摘発された容疑者は1年間で1万2178人にのぼり、前年から2割増加しました。

経済について。 総務省の令和7年版情報通信白書によれば、2024年のデジタル関連サービス収支は約6.7兆円の赤字で、前年から0.9兆円悪化して過去最大を更新しました。検索、クラウド、OS、SNS、そして生成AI。私たちが日々の仕事と生活で当たり前に使っている基盤の使用料が、毎年これだけ国外へ出ていっています。2014年との比較では、コンピュータサービスの赤字は約3.3倍に膨らんでいます。

株式市場の側でも変化が起きています。東京証券取引所などによる2024年度株式分布状況調査では、外国法人等の株式保有比率は32.4%と過去最高を更新しました。ここで注意しておきますが、これは市場全体の時価総額に占める保有比率であって、配当総額のうち海外へ渡る割合とぴったり一致するわけではありません。企業ごとに株主構成も配当性向も異なるからです。それでも、上場企業全体を平均して見たときに、株主還元の相当部分が国外の投資家へ向かう経路が定着したことは確かだと言えます。

そして労働者の側です。厚生労働省の毎月勤労統計に基づけば、2025年の実質賃金指数は前年比マイナス1.3%で、4年連続のマイナスとなりました。名目賃金は2.3%上昇したにもかかわらず、物価上昇がそれを上回ったためです。つまり、賃上げが行われていないのではありません。賃上げが行われてもなお、生活は貧しくなっているのです。

さて、ここで私は慎重にならなければなりません。いま並べた数字は、それぞれ別の要因で動いています。デジタル赤字が実質賃金を押し下げたわけではありませんし、外国人株主の比率上昇が詐欺を増やしたわけでもありません。これらを一本の因果の鎖につないで「だから日本は収奪されている」と語るのは、私が第5章で批判しようとしている手法そのものになってしまいます。

ですから、この章から取り出せる結論は、もっと控えめなものにとどめます。すなわち――直接的暴力の指標では日本は良好であるにもかかわらず、生活の安定、安全の実感、分配の公正といった別の軸では、複数の指標が同時に悪い方向を向いています。因果関係は不明でも、この同時性そのものは事実です。そして「平和」という一語は、この同時性をきれいに覆い隠してしまいます。

第3章:「またか」という感覚は、安全の証明ではない

数字とは別に、私が強い違和感を覚えている現象があります。それは、凶悪犯罪のニュースに接したときの自分自身の反応です。

一般家庭に押し入って住人を縛り上げる強盗事件が報じられます。高齢者が数千万円を騙し取られたと報じられます。実行犯はSNSで募集された若者だったと報じられます。そのとき私の頭に最初に浮かぶのは、「またか」という言葉です。

この「またか」は、非常に危険な言葉だと思います。

なぜなら、「またか」と思えるということは、それが初めてではないということだからです。それどころか、パターンとして認識できるほど反復されているということです。心理学ではこれを脱感作と呼びます。同じ刺激を繰り返し受けることで、反応の閾値が上がっていく現象です。本来なら悲鳴を上げるべき事態に、眉を少し動かすだけで済むようになってしまいます。

この麻痺自体は、人間の正常な防衛反応です。あらゆる事件に全力で衝撃を受けていたら、精神がもちません。問題は、その防衛反応が社会全体で共有されたときに何が起きるか、です。

起きるのは、異常の常態化です。「またか」で処理される事件は、追及されません。追及されない以上、背景にある構造も検証されません。検証されない以上、対策も打たれません。そして翌週にはまた同種の事件が起き、また「またか」と処理されます。この循環が回り続けている限り、統計上の件数がどう動こうと、社会が学習することはありません。

しかも、脱感作はもう一つの副作用を生みます。防犯の私事化です。「またか」と思いながら、私たちは防犯カメラを買い、補助錠を追加し、宅配業者にすらドア越しに応対するようになります。それぞれは合理的な行動です。しかし社会全体として見れば、これは公共的な安全が個人の自衛コストに置き換えられている状態にほかなりません。安全が公共財から私的購入品へと変質しているのです。

この変質について、一つ正確を期しておきたいことがあります。「治安の悪化はまず貧しい人を襲う」と言いたくなりますが、少なくとも特殊詐欺に関しては、それは正しくありません。オレオレ詐欺の主な標的は、まとまった金融資産を持つ高齢者です。犯罪は必ずしも弱者だけを選んで襲うわけではありません。

私が言いたいのは、被害の分布ではなく、防御コストの負担能力の差です。オートロックの新しい住居に移れる人と、移れない人。防犯設備に投資できる世帯と、月々の食費を削っている世帯。同じ脅威に晒されたとき、身を守るために支払える額には歴然とした差があります。安全が購入品になるということは、安全が所得に比例するということです。ここで、第1章の構造的暴力と、第2章の貧困統計が、静かに接続します。

ガルトゥングの枠組みで言うなら、「またか」という私たちの慣れそのものが、文化的暴力に近い機能を果たしていることになります。それは異常を「そういうもの」として飲み込ませ、構造への問いを封じるからです。

第4章:血を流さずに進む、分配の偏り

ここからは、より慎重に進めたいと思います。誤解されやすい論点だからです。

軍事的な侵略を受けていなくても、経済的な仕組みを通じて富が外へ流れ出していく――この構図を語ろうとすると、たちまち陰謀論の匂いがしてきます。「日本は外国に食い物にされている」という語り口は、しばしば外国人排斥や敵探しに直結してきました。私はその轍を踏むつもりはまったくありません。

ですから、はっきりさせておきます。問題は「外国」ではなく、「分配の設計」です。

外資が日本株を買うのは投資であって、資本の流入でもあります。プラットフォームの利用料を払っているのは、それが便利で生産性を高めるからです。どちらも取引としては対等であり、誰かが銃を突きつけているわけではありません。「収奪」という強い言葉を使いたくなる気持ちは私の中にもありますが、それは事態の記述として不正確だと考えています。

私が問題にしたいのは、対等な取引の集積が、必ずしも社会の持続可能性を保証しないという点です。個々の企業にとって、賃上げを抑えて株主還元を厚くするのは合理的な選択です。個々の企業にとって、自前のシステムを開発するより海外のクラウドを借りるほうが合理的です。しかしその合理的選択の総和として、国内の購買力が痩せ細り、技術的な自立性が失われていきます。経済学が「合成の誤謬」と呼んできた事態が、ここでも起きています。

そして重要なのは、この配分比率が自然法則ではないということです。付加価値を賃金に回すか、配当に回すか、内部に留保するか。この比率は、税制、労働法制、企業統治のルールによって、実際に変えることができます。変えられるものを「仕方がない」と受け入れることこそ、ガルトゥングが文化的暴力と呼んだものの典型例だと私は思います。

アマルティア・センは、豊かさを所得の多寡ではなく「その人が実際に何をなしうるか」という潜在能力の観点から測るべきだと論じました。この視点を借りるなら、いま日本で起きているのは所得水準の低下という以上に、選択肢の減少です。転職を検討する余裕、進学させてやれる見通し、痛みを我慢せずに受けられる治療、子どもを持つという選択肢。そうしたものが一つずつ手の届かない場所へ移っていきます。統計に現れる貧困率の背後には、こうした「できたはずのことができない」の集積があります。

そして、ここが肝心なのですが、この過程で誰の血も流れません。爆撃も占領もありません。だからこそ抵抗も起きません。もし外国軍が上陸して年間6.7兆円を接収したなら、国民は激怒するでしょう。しかし同じ額がクラウド利用料と広告費として静かに送金されるとき、私たちは請求書を見ることさえありません。

繰り返しますが、私はこれを犯罪だと言っているのではありません。合法かつ対等な取引の積み重ねです。ただ、痛みを伴わない変化には、抵抗も是正も働きにくいという性質があります。暴力が可視的でなくなったとき、それは消滅したのではなく、異議を申し立てにくい形態に変わっただけかもしれません。私はそう疑っています。

第5章:診断書を書かない医師

さて、こうした状況について、私たちは誰から情報を得ているのでしょうか。

ここで一つのたとえを使わせてください。医師の仕事です。

医師が患者の状態を精密に把握しようとするのは、知的好奇心のためではありません。正確な診断なしには、適切な投薬も手術計画も立てられないからです。診断の精度は、そのまま治療の精度になります。だから医師は、患者が聞きたくない事実であっても告げます。「悪性の可能性があります」と言うのは残酷だからではなく、そう言わなければ治療が始まらないからです。

報道機関が「社会の木鐸」や「第四の権力」と呼ばれてきたのも、本来はこれと同じ理屈のはずでした。社会という患者の病状を可視化し、有権者が適切な処方箋――政策や候補者――を選べるようにします。それが民主主義における報道の機能的な存在理由です。

ところが実際に流れてくるのは、「日本は平和です」「平和を守りましょう」という文言です。これは診断書ではありません。強いて言えば、鎮痛剤の処方箋です。

なぜこうなるのでしょうか。ノーム・チョムスキーとエドワード・ハーマンは、報道の偏りを個々の記者の思想ではなく、メディア企業が置かれた構造から説明しようとしました。彼らが「プロパガンダ・モデル」と呼んだ枠組みでは、資本規模、広告収入への依存、情報源への依存といったフィルターを通過する過程で、報道内容が自然と特定の方向に整形されていきます。誰も命令していないのに結果が揃う、という点がこのモデルの不気味なところです。

私はこの枠組みを、日本のメディアにそのまま当てはめるつもりはありません。文脈も制度も異なりますし、現場には誠実な記者が確実にいます。実際、貧困や闇バイトについての優れた調査報道は数多く存在します。私が問題にしているのは、個々の記事の質ではなく、社会全体の状態を要約する言葉が、いつのまにか「平和」に固定されてしまっていることです。

構造問題の報道には、三つの不利があります。第一に、理解に時間がかかるため視聴者が離れます。第二に、広告主や監督官庁と摩擦を起こす可能性があります。第三に、結論が出るまでに年単位を要するため、番組の尺に収まりません。対して、「平和を守ろう」という一言は、誰も傷つけず、誰からも反論されず、三秒で終わります。コストパフォーマンスが圧倒的に違うのです。

こうして、事件は感情を煽る素材として消費され、その背景にある構造は検証されないまま次の話題に流れていきます。「またか」と思わせるほど事件を流しながら、なぜ「またか」になるのかは決して問いません。第3章で見た脱感作は、この報道様式によって加速されています。

では、あの原稿を読んでいたアナウンサー自身は、このことを考えているのでしょうか。

おそらく、そこにはグラデーションがあります。分刻みの進行とインカムの指示に脳のリソースを使い切っていて、内省の余白がない人。内心では疑問を抱きつつ、台本に私見を挟むリスクを引き受けられない人。そして、自身が高倍率の採用を突破した層であるがゆえに、日本は安全で平和な国だと素朴に信じている人。

いずれにせよ、私はその人個人を責めたいわけではありません。むしろ気の毒だとすら思います。あの場面でその人は、自分の頭で考えた真実を語る主体としてではなく、用意された物語を流通させるためのインターフェースとして機能させられていたからです。批判すべきは声の主ではなく、その声に何を言わせるかを決めている構造のほうでしょう。

第6章:「守る」という動詞に埋め込まれたもの

ここで、最初の一文に戻ります。「日本は、この平和を守り続けることができるのでしょうか」。

私がこの文に引っかかった理由が、ここまで来てようやく言語化できます。引っかかったのは「平和」という名詞だけではなく、「守る」という動詞のほうだったのです。

「守る」は、現状を肯定する動詞です。守るという行為が意味を持つのは、守る価値のあるものがすでに手元にあるときだけだからです。したがって「平和を守ろう」という呼びかけは、聞き手に対して二つのことを同時に要求しています。一つは、現状が良好であると認めること。もう一つは、その現状を変えようとする動きを警戒すること。

これは、政治的に中立な呼びかけではありません。現状維持を最も望む人々にとって、これ以上に都合のよいスローガンはないからです。しかも「平和」という誰も反対できない看板を掲げているため、批判すると平和そのものに反対しているように見えてしまいます。批判を封じる仕掛けとして、これはよくできています。

一方で、実質賃金が4年連続で下がり続けている人、母子世帯で「生活が苦しい」と答えた82.1%の側にいる人にとって、「守るべき現状」とは一体何なのでしょうか。彼らにとって必要なのは維持ではなく変更です。「守ろう」と呼びかけられたとき、そこに自分の居場所がないと感じる人が確実にいます。

つまり、あの短い一文には断絶が凝縮されています。「今は平和だ」という前提に立てる人と、立てない人の断絶です。そして報道の言葉は、ほぼ常に前者の側から発せられます。

私は、平和という言葉を捨てるべきだとは思いません。むしろ逆で、この言葉を安売りするのをやめるべきだと思っています。「戦争がない」で満点をつけてしまうから、そこから先の議論が始まらないのです。

もし平和を、ガルトゥングが言うような積極的平和――構造的暴力も文化的暴力もない状態――として定義し直すなら、日本の現状はどう表現されるでしょうか。おそらく、こうなります。「日本は消極的平和を高い水準で達成しているが、積極的平和については達成の途上にあり、いくつかの指標では後退している」。

これは悲観的な診断ではありません。診断書として、まっとうなだけです。そして診断書がまっとうであれば、治療の議論を始めることができます。

第7章:では、どこから始めるのか

批判だけして終わるのは不誠実ですから、私なりの出発点を三つ挙げておきます。

第一に、言葉の解像度を上げることです。 「日本は平和だ」と言われたとき、「どの意味での平和ですか」と問い返す習慣を持ちます。直接的暴力の話なのか、構造的暴力の話なのか、それとも安心感の話なのか。この一問だけで、議論の質は変わります。曖昧な言葉は、曖昧なまま使われることで機能するからです。定義を求めることは、揚げ足取りではなく、議論を可能にする作業です。

第二に、指標を複数持つことです。 国際的な平和指標である世界平和度指数において、日本は2025年時点で163か国中12位という高い評価を得ています。これは事実であり、私はこれを軽視しません。しかし同時に、実質賃金は4年連続でマイナスであり、特殊詐欺の被害額は過去最多であり、ひとり親世帯の44.7%が貧困線の下にいることも事実です。単一の指標で社会を要約しようとするから、議論が「平和か、平和でないか」という不毛な二択になります。 複数の物差しを同時に持てば、「この面では良好、この面では危機」という、より現実に近い記述ができます。

第三に、変えられるものと変えられないものを区別することです。 天候や人口動態のように、私たちの手が届きにくいものがあります。一方、税制、労働法制、企業統治のルール、社会保障の設計は、いずれも人間が決めたものであり、人間が変えられるものです。第4章で見た分配の比率は、後者に属します。この区別を失うと、変えられるはずのものまで「仕方がない」の箱に放り込んでしまいます。そして「仕方がない」は、たいてい誰かにとって都合のよい結論です。

そして、これは報道機関にも言えることです。自分たちのビジネスを延命させたいという動機自体を、私は責めません。誰だって自分の仕事を守りたいものです。しかしその延命は、日本社会という土台が成り立っていて初めて可能になります。購買力のある中間層、機能する治安、信頼される情報空間。これらが崩れれば、その上に建っているメディア産業も一緒に倒れます。乗っている船の床板を剥がして薪にするのは、経営判断ですらありません。ただの遅い自滅です。

おわりに

私が言いたかったことは、突き詰めれば一つです。

「平和である」と言い切ってしまった瞬間、それ以上考えなくてよくなってしまいます。 そして考えなくてよくなった領域から、静かに何かが持ち出されていきます。

私は日本が地獄だと言いたいのではありません。第2章で見たとおり、貧困率はわずかながら改善しており、国際的に見れば日本は依然として最も安全な国の一つです。その事実を無視して悲観を煽るなら、それはそれで別種の欺瞞になります。

私が言いたいのは、「まだ平和ではない」と認めることが、平和に近づくための入口だ、ということです。

借金があることを直視しない人は、返済計画を立てられません。同じように、「日本はもう平和である」という前提に立ち続ける限り、私たちは積極的平和に向かって一歩も進めないのです。守るべき対象は完成しておらず、まだ建設中なのですから。

ですから、あの夕方のニュースに対する私の答えは、こうなります。

「平和を守り続けることができるのか」ではなく、「まだ平和になっていないものを、これからどうやって平和にしていくのか」。

問いの形が変われば、答えの形も変わります。そして問いの形を変える権利は、国家にもメディアにもなく、それを聞いている私たち一人ひとりの手に残されています。私はそこに、まだ十分な希望があると思っています。

夕方のニュースの前で固まってしまったあの数秒間は、無駄ではなかったのです。違和感を覚えるという能力は、まだ麻酔が効き切っていない証拠なのですから。


予想される反論と、それに対する見解

反論1:この論考自体が、批判しているメディアと同じ手法を使っているのではないか

これが最も痛い反論であり、私が真っ先に自分に向けるべき問いです。

私がやったことは、貧困率、犯罪統計、デジタル収支、株式保有比率、実質賃金という、由来も因果も異なる数字を並べ、そこから「平和ではない」という一つの物語を立ち上げることでした。これは、断片的な事実を切り取って耳目を引く筋書きに仕立てるという、私がメディアについて批判した手法と、形式的には同型です。「日本は平和だ」という物語を「日本は平和でない」という物語に差し替えただけではないか、と言われれば、その危険は確かにあります。

私にできる応答は、開き直りではなく、手続きを開示することだけです。第2章の末尾で、これらの指標を因果の鎖でつなぐことを明確に拒否したのは、そのためでした。同じ章で貧困率が改善していることも記載しました。第7章では、日本が世界平和度指数で12位であるという、私の主張に不利な事実を自分から持ち出しました。第4章では「収奪」という強い語を、正確でないという理由で自ら取り下げました。

私が批判したいのは「悪い数字を並べること」ではなく、「不利な数字を出さないこと」です。この論考が同じ穴に落ちていないかどうかは、読んだ方が判定してくださって構いません。むしろ、そうやって判定される場に自分の論を置くことが、定型句を垂れ流すこととの唯一の違いだと考えています。

反論2:国際比較すれば日本は世界有数の安全国であり、贅沢な不満ではないか

世界平和度指数において日本は163か国中12位、アジア太平洋地域では第3位です。紛争地域の現実を思えば、日本の状況を「平和でない」と呼ぶことに抵抗を覚える方がいるのは当然でしょう。

しかし、私の主張は「日本は世界で最も不幸だ」ではありません。「日本は消極的平和の指標では優等生だが、積極的平和の指標では課題を抱えている」です。この二つは両立します。そして重要なのは、比較の相対性が絶対的な苦痛を消してくれないという点です。紛争地域より恵まれているという理由で、ひとり親世帯の44.7%が貧困線の下にいる事実が軽くなるわけではありません。「もっとひどい場所がある」は、改善しない理由にはならないと私は考えます。

反論3:平和の定義を広げすぎると、どんな社会も平和でなくなり、概念が無意味化するのではないか

これは理論的に最も鋭い反論だと思います。実際、ガルトゥングの構造的暴力概念に対しては、平和学の内部からも「概念が拡張されすぎて分析ツールとして機能しなくなる」という批判が長く投げかけられてきました。あらゆる社会問題を「暴力」と呼ぶなら、暴力という語の識別力は失われます。

私の応答はこうです。定義を広げるのではなく、段階を分けるべきです。「平和/非平和」の二値判定をやめ、「消極的平和は高水準、積極的平和は中水準」といった多次元の記述に切り替えれば、概念の希薄化を避けつつ現実を捉えられます。本論考が「日本は平和ではない」と単純に断言せず、指標ごとに分けて述べてきたのは、この批判を意識してのことです。

反論4:外資による株式保有やプラットフォーム利用料の支払いを問題視するのは、経済学的に粗すぎるのではないか

まったくその通りで、第4章でも述べたとおり、これらは対等な取引です。外国人投資家の保有比率上昇は資本流入の裏返しでもあり、日本企業のガバナンス改善に寄与した面も確実にあります。クラウドサービスの利用は、日本企業の生産性を高めています。一方的な被害という構図は成立しません。だからこそ本論では「収奪」という語を最終的に採用しませんでした。

私が指摘したいのは取引の不当性ではなく、分配の設計です。生み出された付加価値が、賃金ではなく株主還元とプラットフォーム使用料に優先的に配分される構造が定着し、その一方で実質賃金は4年連続で低下しています。両者の間に直接の因果があると主張するつもりはありません。ただ、この配分比率が税制や労働法制によって変更可能である以上、「そういうものだ」と受け入れる理由もない、というのが私の立場です。

反論5:メディア批判が陰謀論に接近しており、現場の記者の努力を軽視しているのではないか

この危険性は自覚しています。だからこそ第5章で、プロパガンダ・モデルを日本にそのまま適用することは避け、優れた調査報道の存在を明記しました。実際、貧困、闇バイト、外国人労働者問題などについて、質の高い長期取材は継続的に行われています。

私が批判しているのは、記者個人の怠慢ではなく、社会全体の状態を要約する定型句が「平和」に固定されているという現象です。これは誰かの陰謀ではなく、視聴率と広告収入と制作時間という制約の合成結果として生じます。むしろ陰謀がなくても同じ結果が出てしまうことのほうが、問題としては根深いと私は考えています。

反論6:犯罪統計の増加は、通報・認知の増加や統計の取り方の変化を反映しているだけではないか

これは統計を扱ううえで必ず考慮すべき論点であり、率直に言って、私の議論の弱い部分です。認知件数は発生件数そのものではありません。被害者が声を上げやすくなったこと、警察の集計方法が変わったこと、社会的な注目度が上がって通報が増えたこと。いずれも件数を押し上げます。そして被害額もまた認知された事件の積み上げである以上、認知バイアスから独立していません。

それでも一点だけ、注目に値する数字があります。特殊詐欺の認知件数の伸びが31.9%であるのに対し、被害額の伸びは96.8%と、三倍近い開きがあることです。これは1件あたりの被害額が大きく増えたことを意味し、単なる認知率の向上では説明しにくい変化です。加えて、匿名・流動型犯罪グループの摘発者数が1年で2割増加していることも、実体の変化を示唆します。とはいえ、単年の数字で断定すべきでないという指摘は正しく、複数年の推移を見続ける必要があります。

反論7:「まだ平和ではない」と認めることが、かえって不安を煽り社会を不安定にするのではないか

これは実務的に無視できない懸念です。危機感の共有は、しばしば排外主義や強権的な政治への支持に転化してきました。「日本は危機だ」という認識が、特定の集団への攻撃に向かう危険は現実に存在します。

私の応答は、診断と犯人探しを厳密に分けることです。第4章で「問題は外国ではなく分配の設計だ」と強調したのは、まさにこのためでした。構造的暴力という概念の利点は、加害者個人を特定しないところにあります。悪人がいなくても人が損なわれる仕組みを名指しできます。この視点を保つ限り、正確な診断は敵探しではなく制度設計の議論へ向かうはずです。不安を避けるために誤診を続けるほうが、長期的にはよほど危険だと私は考えます。

反論8:結局のところ、個人には何もできないのではないか

ある意味では、その通りです。個人が実質賃金の推移やデジタル収支を直接動かすことはできません。無力感を感じるのは当然です。

ただ、無力感の多くは「大きなことを一人で成し遂げられなければ無意味だ」という思い込みから生まれています。実際には、社会の言葉づかいが変わるだけで、通用しなくなる政策や言説があります。「平和」「安全」「豊かさ」といった大きな言葉が使われたとき、「どの意味で?」と問い返してみることです。これは費用もかからず、明日から誰にでもできます。そうした問い返しが一定数を超えたとき、定型句でお茶を濁す言説は少しずつ割に合わなくなります。世論の変化とは、そういう地味な採算計算の総和であって、劇的な覚醒ではありません。


参考文献

  • 書籍:『構造的暴力と平和』ヨハン・ガルトゥング著、高柳先男・塩屋保・酒井由美子訳(中央大学出版部, 1991年)Amazon

  • 書籍:『子どもの貧困――日本の不公平を考える』阿部彩著(岩波新書, 2008年)Amazon

  • 書籍:『不平等の再検討――潜在能力と自由』アマルティア・セン著、池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳(岩波現代文庫, 2018年)Amazon

  • 書籍:『マニュファクチャリング・コンセント――マスメディアの政治経済学 1』ノーム・チョムスキー/エドワード・S・ハーマン著、中野真紀子訳(トランスビュー, 2007年)Amazon

  • データ:「2025(令和7)年 国民生活基礎調査の概況」厚生労働省(2026年)URL

  • データ:「令和7年の犯罪情勢」警察庁長官官房(2026年2月)URL

  • データ:「2025年の犯罪情勢:刑法犯がコロナ禍前上回る 詐欺の被害が深刻」nippon.com(2026年、警察庁「令和7年の犯罪情勢」に基づく)URL

  • データ:「令和7年版 情報通信白書――デジタル関連項目のサービス収支の動向」総務省(2025年)URL

  • データ:「2024年度株式分布状況調査の調査結果について」東京証券取引所・名古屋証券取引所・福岡証券取引所(2025年7月)URL

  • データ:「2025年の実質賃金指数の前年比はマイナス1.3%で、4年連続のマイナスに」労働政策研究・研修機構(JILPT, 2026年)URL

  • データ:「Global Peace Index」Institute for Economics and Peace(2025年)URL

  • 論考:「相対的貧困率の動向(2022年調査update)」阿部彩、東京都立大学子ども・若者貧困研究センター(2024年1月)URL

※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています


著者プロフィール

kentrue(yousystem)

フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家

麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業

いいなと思ったら応援しよう!