【父の介護と看取りの記録 #01】父に異変が起こった日
こんにちは、けんじおじです。
私は自宅で父の介護をしてきましたが、最後は看取りという形で施設に入り最後を看取るまでの記録です。
父というのがタイトルになっていますが、いつも父を親父(おやじ)と呼んでいましたので本文では親父としています。
まず、親父のことを少し紹介させてください。
元は建具屋で、途中から大工に転身した職人気質の人間です。
耳が遠くて補聴器も持っているのですが、つけるのは毎日決まった時間に放送される「水戸黄門」を観るときだけ。
補聴器をつけると話し相手の声だけでなく、周りの雑音も全部入ってきてうるさいらしいのです。
それを脳がうまく整理できなくなってきているのでしょう。
同じような話は、他でも耳にしたことがあります。
性格は昔ながらの頑固者で、一刻なところもあります。
ただ外面だけはやたらとよくて、「やさしいお父さんだね」とよく言われるのですが、正直なところ外面がいいだけです(笑)。
基本は優しいのですが、怒ると怖い。
だから兄弟の誰も、親父に面と向かって文句を言ったり愚痴をこぼしたりはしませんでした。
言っても聞かないですし、逆らうという発想自体がなかったですね。
典型的な「大黒柱」スタイルで、風呂は一番風呂、食事は親父が帰宅してから全員で食べるのが家のルールでした。
母が外に働きに出るのは基本禁止で、「俺が稼ぐ」というスタンス。
母は家で内職をしていました。
何か親父に言いたいことがあるときは、母を経由して伝えてもらうのが我が家の流儀でした。
それが一番丸く収まりましたし、親父もそれには素直に従うことが多かったので。
そんな母も病気になり、長い闘病生活が始まりました。10年以上続きました。
母が病気になってから、すでに仕事も辞めていた親父が家事を全部担うようになりました。
私が仕事で遅くなって帰宅すると、親父が台所にいます。
玄関を開けたのを確認すると、すぐにレンチンしたり食卓に皿を並べたりして準備してくれていました。
これ自体はやりすぎなくらいありがたくて、親父の優しさと気配りだと思っています。本当に感謝しています。
……感謝しているのですが、ただ一点だけ困ることがありました。
親父が同じ食卓に座ったまま、テレビを観ながらずっと待機しているのです。
私が食べ始めると、一皿空くたびにすっと手を伸ばして流し台へ持っていきます。
また戻って待機。
また空いたら持っていく。
私が食べ終わるのをひたすら待っているのです。
優しいじゃないか、と思われるかもしれませんが、落ち着かないんですよ(笑)。
毎日それが続くと、ゆっくり食事ができません。
子どもの頃から「食べたら皿を流し台へ」という習慣があって、食器洗いも自分たちでやっていたので、「自分がやらないといけない」という意識が強すぎる親父に、逆に気を使ってしまうことが多くありました。
もっと自分のことを、母のことを大事にしてくれよ——と思うこともありましたね。
まあ、母と結婚した当初は遊び人だったらしくて、よく女性と遊んでいたというエピソードも聞いています(笑)。
当時はモテたらしいです(自称ですが)。
母が他界して、もう13年が経ちました。
その後も私は毎日帰宅が遅く、兄も仕事があるので、親父が家事をするのが日常になっていました。
親戚の食事会があっても「ご飯を作らないといけないから」と断ることがあったほどです。
まあ、母もいないし付き合いたくないという気持ちもあったのでしょうが。
そして兄が再婚して、お義姉さんが食事の用意をするようになり、家の体制も少し変わっていきました。
親父86歳
親父に異変が起こった日
この頃から——今思えばですが——親父に少しずつ変化が現れ始めていました。
当時、親父が86歳くらいの時に会話をしていると、どもるようになりました。
最初は年齢のせいかな、と軽く考えていました。
でもしばらくしても治らない。
むしろじわじわと酷くなっていく気がしました。
それでも会話自体は成立していましたし、コミュニケーションに大きな支障はありませんでした。
そしてしばらくして、兄がある変化に気づきました。
兄「あれ、なんか左足……歩き方おかしくない? 痛いの?」
父「ん? そんなことないよ。痛くないし」
兄「でも歩き方おかしいよ」
父「そうか?」
兄「なんかかばってる歩き方みたいで、痛くないの?」
父「痛くない」
これが最初でした。
本人にはまったく自覚がありません。
痛くもないし何ともないと言い張る。
でも確かに歩き方がおかしい。
左足をかばうように歩いていて、家の中では足を擦るような音がしていました。
足が上がりきっていない感じです。
何度聞いても「痛くない、異常ない」の一点張りでした。
そしてある日、散歩から戻ってきた親父の顔に、アザができていました。
当時、親父は近所の小学校でボランティアの「見張り隊」をやっていました。
毎日元気に歩き回って、散歩も1日に何度もしていたのです。
それが、ある時期から転んで帰ってくることが増えてきました。
老いていく親の変化というのは、最初はそんなふうに、ごくささいなことから始まるのだと今はわかります。
あの頃はまだ、何が始まろうとしているのか、誰も気づいていませんでした。
散歩中に何度も転ぶようになった
最初に転んだとき、手でカバーできませんでした。
顔面から地面に突っ込んで、メガネが壊れ、額や顔に擦り傷ができていました。
鼻の周りもメガネで赤くなっていました。
幸いにして頭を強打したわけではなかったようでしたが、見た目はなかなかの衝撃でした。
「なんで転んだの?」と聞いても、「わからない、気づいたら倒れてた」というばかりです。
転んだ瞬間の記憶がないのです。
家では相変わらず足を擦るような歩き方をしていて、左足をかばっている感じがありました。「足が上がっていないから外の段差に躓いたんじゃないの?」と言っても、
父「躓いたんじゃない! 足も上がってる」
私「いつも家で擦って歩いてるよ?」
父「外ではちゃんと足は上がってるし、影を見ればわかる」
認めない。とにかく認めません。
そして、しばらくしてまた転びました。
今度もまた顔に怪我をして帰ってきました。
聞くと、いつも同じ道を歩いているので、転ぶのも同じ場所だというのです。
段差があるのではないかと思って現場を見に行くと、アスファルトと歩行者道の境目に小さな段差がありました。
でも親父は「段差はない」と言い張ります。
そもそも転ぶ瞬間を覚えていないのだから、躓いたかどうかも本人には判断できないはずなのですが。
親父は近所の小学校でボランティアの見張り隊をまだ続けていました。
毎朝、子どもたちの通学を見守る活動です。
それ自体はできていたので、「歩くこと」そのものには大きな問題はないと思っていました。
ところがその引率中にも転倒した、という話を聞きました。
天気が悪い日で、傘を持っていたのが幸いして顔の怪我は免れましたが、手に擦り傷ができていました。
話を聞くと段差もない平坦な道で、子どもたちのペースについていこうと無理に早歩きをしたらしいのです。
確かにそれが原因だろうとは思います。
ただ——これだけ転ぶようになったら、もう見張り隊は難しいと判断しました。
続けたがっている親父を説得するのは、気が重かったです。
長年やってきたことを「やめろ」と言うのは、親にとっては何かを奪われるような話だとわかっていましたから。
「状態が落ち着いてまた歩けるようになればいつでも再開できる」とやんわり伝えて、なんとか納得してもらいました。
それでも散歩はやめませんでした。
毎日、何度も出かけていました。
止めることもできないし、危ないとわかっていても、あまり強く言えない自分もいました。
親の「歩きたい」という気持ちをどこまで尊重して、どこから止めるべきなのか。
そのラインは、正直よくわかりません。
そんなある日、見知らぬ番号ではなく——親父の携帯から、私のスマホに電話が鳴りました。
最後に
読んで頂き有難うございます。
当時の記録を順番に書いているので、多少前後する話題もあるかもしれません。
親父の変化から介護、介護認定など、年々と早い速度で変わる体の変化をみてきました。施設探しや入院などもいろいろ大変な事も多かったです。
それでも私よりもっと大変な方も多いと思います。
親父は認知症はなかったので、そこは楽だったと思います。
けれど自宅介護の限界を迎え施設にと考えてた矢先に入院となりその後は早かったですね。
今後も記録として書き込んでいきます。
