述語論理は(命題論理との間に)根本的な矛盾を抱えていないか?
前原昭二著『記号論理入門』(日本評論社、新装版、2005年)では、記号論理学における真偽について次のように説明されている。
ここでは,それを割り切って,真偽というものを単に命題につけられた目じるしとしてのみ考えることにします.すなわち,純粋に論理的な面からだけの考察をするのでありまして,<真とは何か>また<偽とは何か>という問題をとり扱うのではありません.
真偽というものの実相は,むしろ,純粋論理以前に存するものであり,記号論理学において真偽を論じます場合には,真偽の概念がどのように演繹法と関連して現れてくるかということにだけ着目するのであります.
・・・と説明されている。
そして、命題論理の演繹の解説において具体的事例(人間は死ぬ→ソクラテスは死ぬ、といったような具体的事例による命題論理の説明)による説明は一切ない。
命題論理の演繹について一通り解説した後、
(1) B→(A→B)
(2) ¬A→(A→B)
(3) A→[¬B→¬(A→B)]
・・・をトートロジーとし、そこから条件法(A→B)の真理値を逆算されている(前原、64ページ)。
つまり、命題論理における真偽を単なる<目じるし>とし、私たちの住む現実世界において現れる真偽との関係について問うことはあえてしていない。
ところが述語論理になると、突然ソクラテスやら人間といった具体的対象に基づいた説明がなされるのである。
∀x(F(x)→G(x))
についてF(=人間である)、G(=死ぬ)とか、F(s)やG(s)のs=
ソクラテス、と考えるとかいったふうにである。
そもそも述語論理には”議論領域”という前提が必要である。つまり具体的対象のあり方に対する真偽が問われるものなのである。
この時点で述語論理には命題論理との間の”齟齬”が生まれているように思えるのである。
さらには、B→(A→B)などの(現実世界の真偽から考えれば)”理不尽な”(論理学的)トートロジーをいかに具体的対象にあてがうことができるのか、さらに言えばそもそも述語論理に”完全性”という考え方は適用可能なのか・・・
でも説明しているが、
((A∨B)∧(A→C)∧(B→C))→Cも
(A∧(A→B))→Bも
((A→B)∧(B→C))→(A→C)も
A、B、CあるいはA→BやB→CやA→Cがそれぞれ真(正しい)ときにのみ成立するものであって、もともと論理学的トートロジーというものとはかかわりのない論理規則なのである。
・・・フレーゲはこのあたりのこと、悩んだりしなかったのだろうか?
