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自分の輪郭が、少しずつ変わっていく

人は、ある日突然変わるわけではない。
変化とは、音もなく進むものだ。
気づいたときにはすでに、以前の自分には戻れなくなっている。

昔の私は、もっと明確な輪郭を持っていた。
好きなものと嫌いなものがはっきりしていて、
信じるものと疑うものも、単純に分かれていた。

世界は外側にあり、
自分はその中のひとつの点に過ぎない。
そう思っていた。

だから、世界に合わせて生きていた。
求められる役割を演じ、
期待される言葉を選び、
正しいとされる方向へ歩いた。

それが「生きる」ということだと、疑いもしなかった。

だが、ある時から、違和感が生まれた。

それは強烈な衝撃ではなかった。
むしろ、非常に微細なズレだった。

同じ景色を見ているはずなのに、
どこか別の場所から見ているような感覚。

同じ言葉を話しているはずなのに、
その言葉が、以前ほど自分を説明していないような感覚。

輪郭が、わずかに揺らいでいた。

最初は、それを恐れた。
輪郭とは、自分そのものだからだ。
それが揺らぐということは、
自分が消えてしまうことに等しいと思った。

だから、元に戻ろうとした。
以前の自分を再現しようとした。
同じ考え方をし、同じ反応をし、同じ判断を下そうとした。

だが、どうしても完全には戻れなかった。

以前は自然だった反応が、
どこか演技のように感じられた。

以前は確信だったものが、
いまは単なる選択肢のひとつに見えた。

その時、初めて理解した。

輪郭とは、固定されたものではない。
それは、世界との接触によって、常に書き換えられているものだということを。

人は、経験によって変わるのではない。
経験の「解釈」によって変わる。

同じ出来事でも、
それをどう受け取るかによって、
自分の輪郭は微妙にずれていく。

そして、そのズレは蓄積する。

ある日、ふと気づく。
以前の自分なら選ばなかった道を、
自然に選んでいる自分に。

以前の自分なら恐れていたはずの沈黙を、
むしろ心地よく感じている自分に。

以前の自分なら証明しようとしたことを、
もはや証明する必要を感じていない自分に。

それは、成長という言葉では説明できない。
むしろ、「再配置」に近い。

自分という存在の内部で、
重心が移動している。

中心だと思っていたものが周辺になり、
周辺だと思っていたものが中心になる。

そして、その移動は静かに起きる。

誰にも気づかれないまま、
しかし確実に進行する。

輪郭が変わるということは、
世界との関係が変わるということだ。

以前は重要だったものが、重要でなくなる。
以前は無意味だったものが、意味を持ち始める。

それは、世界が変わったのではない。
自分の位置が変わったのだ。

位置が変われば、見えるものも変わる。

同じ場所に立っているつもりでも、
実際には、少しずつ別の地点へ移動している。

そして、その移動こそが、人生なのだと思う。

人は、完成することはない。
完成とは、変化が止まることだからだ。

変化が止まった瞬間、
輪郭は固定され、
それは生きている状態とは言えなくなる。

生きているとは、
輪郭が変わり続けている状態のことだ。

不安定で、曖昧で、未完成な状態。

しかし、その未完成こそが、
可能性の証明でもある。

もし輪郭が完全に固定されていたら、
新しい自分は決して生まれない。

だが、輪郭が揺らいでいる限り、
自分はまだ変わることができる。

そして今、私は感じている。

以前よりも、輪郭は曖昧になった。
だが、それは弱くなったのではない。

むしろ、広がったのだ。

以前は、自分の外側にあった世界が、
いまは自分の内部に入り込んでいる。

世界と自分の境界線は、
思っていたほど明確ではなかった。

境界線とは、固定された線ではなく、
常に揺れている接触面だった。

その接触面の形が変わるたびに、
自分の輪郭も変わる。

そして、その変化は、これからも続く。

私は、もう以前の自分には戻れない。
だが、それを失ったとは思わない。

それは消えたのではなく、
現在の自分の中に、層として存在している。

過去のすべての輪郭が重なり合い、
いまの自分を形作っている。

自分とは、単一の形ではない。
変化し続けた軌跡そのものだ。

だから私は、変化を拒まない。

輪郭が変わることを、恐れない。

それは、自分が壊れている証拠ではなく、
自分がまだ、生きている証拠だからだ。

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