正義アレルギーの私が見つけた正義の唯一の活用法
こんばんは😊
いつも来てくれてありがとう。
スキ❤️もね、本当に嬉しいんだー。
ありがとう🥰
⸻
今日はね、
正義についてのおはなし。
私、本当に。正義が嫌いなの。
少し前にこんな記事を書いたから、
もうバレてるかもしれないけど。
正義や、正しさなんて
その時代や、国や、小さなコミュニティや
そういう様々な括りの中の
パワーバランスで決まるものだし。
それって、ただの
いい人アピールとか、権威のための
ツールだと思ってる。
⸻
よりよい世の中にするため、なら
正義は逆の作用になると思う。
人が正義を掲げた時、
それ以外を異端だと決めつけることになる。
そんな状態で話なんて聞いてもらえるわけがない。
⸻
という感じで、
私は、正義が本当に嫌いなの。
そんな私が、
哲学について、特に正義について
ワァワァしてる記事を見つけちゃったから
これは何か書かなくちゃ!
というのが今日のおはなしです。
この記事を読んで、
考えたこと、まとめてみたよ。
⸻
【試論】ジャン・バルジャンの夜
──正義を語る人が見落とすもの
1. 二人のすれ違い
拓矢さんの記事では、正義について語っていて、ジャン・バルジャンが「わかりやすい例」として挙げられていたよ。
家族のためにパンを盗んだ。
けれど捕まれば、結果的に家族はもっと困る。
だから、それは長期的には正しくない選択だった。
この整理は、机の上、つまりロジックの世界では美しく成立する。
でも、けんちゃぴさんはそこに、ある「引っかかり」を覚えた。
「本当にそれは、ただの短絡的な選択だったのだろうか。盗まなければ、その日の夜に家族が飢え死にしていたかもしれないのに」
ここで、二人の見ている「景色の深さ」がずれたのだ。
拓矢さんはジャン・バルジャンを「議論を説明するための事例」として見ていた。
対するけんちゃぴさんは、その記号の背後にある「血の通った生活」を見ていた。つまり、単なる論理矛盾ではなく、その判断がどの距離から人間を見ているのかだったのだと思う。
このすれ違いこそが、私たちが「正義」を考えるうえで、極めて重要なヒントを含んでいるように思う。
⸻
2. 限定された視界と、簡単な裁判
正義は、多くの場合、きわめて限定された視界の中で生まれる。
「盗んだ」
「だから悪い」
「捕まれば家族も困る」
「だから判断を誤った」
このくらいの解像度であれば、人は他者を簡単に裁くことができる。脳に負荷がかからないからだ。
けれど、そこに「飢えた家族の表情」や「救われなかった生活」、「追い詰められた夜の暗さ」が入り込んできた瞬間、私たちは急に言葉を失う。
しかも、拓矢さん自身も『あえてパンを盗みました』と書いている。つまりジャン・バルジャンは、盗みだと知らなかった人ではない。盗みだと知ったうえで、それでも盗んだ人なのだ。
簡単には何が正しいなんて言えなくなる。
つまり、正義を語る人は、しばしば「自分の見えている範囲の狭さ」に無自覚なまま、それを世界のすべてだと思って判断していると思う。
⸻
3. 「人それぞれの正義」の、その先へ
拓矢さんの記事は、最終的に「人それぞれに正義がある」という着地をしていた。
確かにそれは優しい結論だし、間違いではない。
でも私は、それだけでは足りない、と思うのだ。
「あなたの正義もある。私の正義もある。お互い違っていいよね」
それだけで終わらせてしまうなら、それぞれの視界は一歩も広がらない。そこに「成長」や「他者との交わり」は生まれない。
他人の視点に触れることによって、自分が正義だと思っていたものが、どれだけ狭い視界の上に立っていたのかを知ることができるはずだ。
自分が見落としていた痛み。
軽く扱っていたかもしれない誰かの生活。
想像すらしていなかった恐怖。
それらに触れて、揺さぶられて、初めて私たちの「正義」は更新される。
⸻
4. 道具としての「正義」の扱いづらさ
正義という言葉は、とても怖い。
それを掲げた瞬間、人は自動的に「自分は正しい側にいる」と思い込みやすい。そして同時に、目の前の相手を「間違った側」、つまり「悪」に配置してしまう。
そうなった瞬間、対話のシャッターは下りる。
最初から「悪」だと分類された人間が、こちらの言い分に耳を傾けるはずがないのだ。人間には感情があるのだ。
だから、正義は「人の心に思いを届かせるための道具」としては、かなり打率が低く、扱いづらい。
むしろ、相手の心を頑なにしてしまう。
正義とは、客観的に正しい答えそのものではない。
それは、限定された視界の中で、自分の判断に強い正当性を与えるための「麻薬のような言葉」なのかもしれない。
⸻
5. 必要なのは、掲げることではなく、疑うこと
だから本当に必要なのは、正義を声高に掲げることではない。
正義を掲げたくなったとき、まさにその瞬間の「自分の視界の狭さ」を徹底的に疑うことだ。
私は今、何を見落としているのか。
誰の痛みを、仕方のないものとして省略しているのか。
誰を悪に仕立て上げることで、自分を「正しい側」に囲い込んでいるのか。
正義という言葉をスムーズに、簡単に使えるとき、人は傲慢になっている。謙虚な人間は正義など、口にできない。
その全能感から一歩降りて、見えない暗がりに目を凝らしてほしい。
私の大嫌いな「正義」に存在意義があるとするならば、
「自分が傲慢であるという自覚を促し、私たちの視界を広げるためのきっかけになること」おそらくそれだろうと思う。
⸻
という、主張強めな記事を書いてしまったけど。
実はこれこそが、
正義なんて正義じゃないという
強い正義感のもとで書かれていて。
ということは、
届いて欲しい層には届かない
傲慢な記事ってことに。
😵💫😵💫😵💫😵💫😵💫
⸻
ここまで完成させたあとで
もう一度元の記事を読んだのだけど。
これ、パンを盗む有名な人を
つい例として使っちゃったけど
よく考えたら
短絡的に盗んだわけじゃなかったから
知徳合一の例になってなかった、ていう
簡単なミスなのでは⁉️
と、思った次第です。
でも正義厨撲滅委員会のメンバーなので
これは正義の記事なので(?)
このまま、ゴーだ!合一だけに、ゴー!
🥳🥳🥳🥳🥳
