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ここ数年、日本でも
「アラサー」「アラフォー」という言葉とともに、
30代、40代の女性の魅力や価値を見直そう
という議論を目にすることが増えました。

一方、ドイツでは
女性の生き方や成熟した美しさについて話題になると、
決まって耳にする言葉があります。

「自分の魅力が何かを知っている女性に惹かれる。」

友人や知人に尋ねてみても、
若い男性も年配の男性も、そして女性自身も、
驚くほど似た答えを返してくれます。

自分の長所も短所も理解していること。
そして短所さえも魅力へと変えてしまうような自己表現ができること。

ドイツ語では
Selbstbewusste Frau(ゼルプストベヴステ・フラウ)と言います。
直訳すれば、
「自分というものを自覚した女性」となるでしょう。

欧米では19世紀頃から、
「己を知った大人の女性」のたたずまいや知性が、
美しさとして語られてきました。

映画や小説では、
そんな女性が恋の駆け引きの主人公になることも少なくありません。

ところが近年、
ドイツではもう一つ別の美しさが存在感を増しています。

日本のアニメや漫画です。

書店には日本のコミックの棚が大きく設けられ、
日本語を学ぶきっかけがアニメだった
という若者にもよく出会います。

そして、どこかあどけなさを残した少女の表情に、
「かわいい!」と歓声を上げる姿も珍しくありません。

ここで、私は少し立ち止まってしまいます。

自分をよく知り、
自分をどう演出すれば自分らしい魅力が伝わるのか
まで理解している女性。

その姿に憧れる人がいる。

その一方で、
自分ではまだ気づいていない魅力や可能性を、
周囲が少しずつ見つけていく存在、
どこか「おぼこい」存在にも、
人は不思議と惹かれてしまう。

どちらが本当に魅力的なのでしょうか。

前者には、自立した大人の格好よさがあります。

後者には、
「まだ見ぬ何か、自分でもまだ気づいていない何かが
奥に隠れているのではないか」と思わせる余白があります。

おそらく、その余白が、
人を惹きつけ、時には
アイドルのような憧れを生み出すのかもしれません。

考えてみれば、自分という存在は、
自分が一番よく知っているようでいて、
案外そうでもありません。

「人は自分の顔の三分の一も見ていない」と
言われることがあります。

鏡に映る姿は見ることができます。
でも、それは誰かが私を見る姿とは少し違います。

表情やしぐさ、話し方、雰囲気、沈黙の間――
そうしたものまで含めた「私」なるものには、
実は他者のまなざしの中で初めて立ち現れる部分が少なくありません。

だからこそ、自分を知ろうと努力することは大切なのでしょう。

しかし同時に、
自分ではまだ知らない自分を、
誰かが見つけてくれる余地も残しておきたい。

成熟とは、自分を完全に理解することではなく、
自分にもまだ知らない可能性があることを
受け入れていくことなのかもしれません。

はたして、私は、私という存在について
どれだけ知っているといえるでしょうか。

そして、自分でもまだ知らない「私」
自分には見えていない「わたし」は、
いったい誰の目に、
どんなふうに映っているのでしょうか。