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漢字の宇宙。「本」15-18 本人確認の時代に

「本人確認をお願いします。」

私たちは、日々そう言われるようになりました。

銀行で。
役所で。
病院で。
スマートフォンの画面で。
オンラインの手続きで。

名前を入力する。
生年月日を入力する。
パスワードを入力する。
顔写真を見せる。
身分証を提示する。
指紋や顔で認証する。

そうして、
私たちは「本人」であることを確認されます。


私が私であること

けれども、少し不思議です。

自分は自分である。
そのことは、あまりにも当たり前のはず。
それなのに、社会の中では、
何度も何度も
「あなたがあなたであること」を
証明しなければならない。

本人確認とは、現代社会に欠かせない仕組み。
誰かがなりすますことを防ぐ。
大切な情報を守る。
契約や医療や金融の手続きを安全に行う。

その意味で、本人確認は必要です。

本人確認の戸惑い

けれども、本人確認が増えるほど、
どこかで奇妙な感覚も生まれます。

私は、番号なのか。
私は、顔写真なのか。
私は、パスワードなのか。
私は、登録された情報の束なのか。

もちろん、そうではありません。

けれども、手続きの上では、
それらがそろって初めて「本人」と見なされます。

名前、住所、生年月日、
顔、声、署名、履歴、認証コード。

そうしたものが一致すると、システムは言います。

「本人である」と。


本当に本人か

では、それで本当に本人なのでしょうか。

ここに、現代の小さなねじれがあります。

社会が確認する本人と、
私が生きている本人とは、
重なりながらも、完全には同じではありません。

社会の中の本人は、照合される存在です。
記録と一致する存在です。
間違いなくその人であると確認される存在です。

けれども、
生きている本人は、それだけではありません。

迷っている。
変わっている。
言葉を探している。
昨日とは少し違う自分になっている。
まだ誰にも言っていない思いを抱えている。

そうした揺れや余白は、
本人確認の画面には映りません。

顔は同じでも、
心は変わっていることがあります。

名前は同じでも、
生き方が変わっていることがあります。

記録は正しくても、
その人の内側で起こっていることは、
誰にもまだわからないことがあります。


確認される本人とは

本人とは、
確認されるものだけではありません。
生きて変わっていくもの。

デジタルの時代には、
この問いはいっそう鋭くなります。

声を似せることができる。
顔を再現することができる。
文章の癖をまねることができる。
過去の記録から、その人らしい応答を作ることもできる。

すると、「本人らしいもの」は、
これまでよりずっと簡単に現れるようになります。

その人らしい声。
その人らしい文章。
その人らしい表情。
その人らしい返事。

でも、「本人らしい」と「本人である」は、同じなのでしょうか

本人らしさは、外からまねることができます。
けれども、本人であることは、
ただ似ていることではありません。

本人であるとは、
その人が自分の時間を生きていることです。

傷つき、迷い、選び、引き受け、変わっていくこと。

過去を背負いながら、
なお未来へ向かって自分の言葉を探していること。

過去の私との一致

本人確認は、過去の情報との一致を求めます。

しかし本人性は、
いま生きているその人の変化を含んでいます。

私たちは、
誰かを「本人」として大切にするとき、
その人のデータだけを見ているのではありません。

その人が、
自分の声にたどり着く時間を待っています。

その人が変わる可能性を残しています。

その人が、
まだ語っていない本心や本懐を抱えていることを、
どこかで信じています。

本人を取り残してしまわない

本人確認の時代に、本人を忘れないこと。

これは、とても大切なことかもしれません。

確認される本人。
記録される本人。
認証される本人。
再現される本人。

それらは、現代を生きる私たちに必要な仕組み。

けれども、それだけでは届かない本人がいます。

黙っている本人。
迷っている本人。
昨日までの自分を少し超えようとしている本人。
まだ言葉にならない願いを抱えている本人。

その本人に出会うためには、
認証だけでは足りません。

聞くこと。
待つこと。
決めつけないこと。
その人が自分の言葉を探す余白を奪わないこと。

本人とは、証明される対象である前に、呼びかけられる存在です。

「あなたは、どう思いますか。」
「あなたは、何を望んでいますか。」
「あなたは、どう生きたいですか。」

その問いにすぐ答えられなくてもよい。
むしろ、
すぐには答えられないところに、
その人の深さや奥行きがあります。

本人確認の時代に、私たちは何度も自分を証明します。

けれども、本当に大切なのは、
証明されたあとなのかもしれません。

その人が、その人として語れること。
変わることができること。
まだ誰にも知られていない「本」を抱えていられること。

本人とは、
確認されるものではありながら、
確認だけでは尽くされないもの。

そして人間とは、
いつもその余白の中で、
自分自身になり続けている存在なのかもしれません。