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良い悪い、かっこいい格好悪い。ファッションに「正解」なんてない、という話。

「それ、かっこいいと思ってるの?」

この言葉を、誰かに言ったことがありますか。あるいは、言われたことがありますか。

ファッションに関する言葉の中で、この一言ほど傲慢なものはないと思っています。「かっこいい」と思うかどうかは、言っている本人の感覚です。でもその言い方は、「かっこいいと思っているお前がおかしい」という断定を含んでいる。

ファッションの「良い悪い」「かっこいい格好悪い」「かわいいかわいくない」——これらはすべて、主観です。絶対的な基準ではありません。

わかっているようで、わかっていない人が多いことのひとつだと思っています。


「好み」と「正解」を混同することの問題

ファッションに関する議論で最もよく起きる混同が、「自分の好み」と「ファッションの正解」を同一視することです。

「このコーデはダサい」と言うとき、多くの場合その人が言っているのは「私はこのコーデが好きではない」という意味です。でも「ダサい」という言葉は、客観的な評価であるかのように響きます。

「私は好きではない」と「これはダサい」は、まったく違う発言です。

前者は自分の感覚の話。後者は対象への評価の話。この二つを混同すると、「自分が好きではないもの=世界的に価値がないもの」という論理になってしまいます。

好みは個人のものです。ある人が「かっこいい」と思うものを、別の人が「格好悪い」と思うことは、ごく普通にあります。どちらも間違っていません。どちらの感覚も、その人の中では正しい。

問題は「私はそれが好きではない」を「それは間違っている」にすり替えるときです。


男性がスカートを履くこと、女性がパンツを履くこと

少し具体的な話をします。

男性がスカートを履くことについて、今でも「変だ」「おかしい」という反応をする人がいます。でもその「変」「おかしい」の根拠は何でしょうか。

スカートは女性が履くもの——という常識は、どこから来たのでしょうか。

歴史を振り返ると、スカート状の衣服は男性も着用してきた長い歴史があります。古代ギリシャのキトン、古代ローマのトーガ、スコットランドのキルト、沖縄の琉装——世界中で、様々な文化圏の男性がスカート状の衣服を着てきました。

「スカートは女性のもの」という感覚は、特定の時代・特定の文化圏で作られた規範であって、普遍的な真実ではありません。

逆に、女性がパンツを履くことが「おかしい」と言われていた時代がありました。今ではほとんどの人がその感覚を持っていませんが、シャネルがパンツスタイルを女性に広めた1920年代には、相当な抵抗がありました。

つまり「女性はスカートを履くべき」「男性はパンツを履くべき」という規範は、時代とともに変化するものです。今「当たり前」に思えることも、百年後には「あの時代はそういうルールがあったのか」と歴史の記述になっているかもしれません。


「似合う似合わない」と「好き嫌い」は別の話

もうひとつ整理しておきたいのが、「似合う似合わない」と「好き嫌い」の違いです。

「似合う」は、骨格・肌色・体型・顔の特徴との相性の話です。これはある程度客観的な要素を含んでいます。「この色は肌をくすませて見える」「このシルエットは体型を拾いやすい」——こういった観察は、ファッションの知識として有用です。

でも「似合わない」と「着てはいけない」はまったく別の話です。

「この色は似合いにくいかもしれないけど、好きだから着る」——これは完全に正しい選択です。客観的な「似合う」基準より、主観的な「好き」を優先することは、ファッションの本来の姿のひとつです。

おしゃれな人の多くは、「似合う」と「好き」の両方を持ちながら、最終的に「好き」を選ぶことの楽しさを知っています。「似合わないけど好きだから着る」という選択が、スタイルになっていきます。

「似合わないから着てはいけない」という論理は、ファッションを窮屈にするだけです。


「かわいい」の多様性

「かわいい」という言葉についても、少し考えてみます。

日本語の「かわいい」は、非常に広い概念を包んでいます。幼くて愛らしいものも「かわいい」、美しい大人の女性も「かわいい」、奇妙で面白いものも「かわいい」、不格好だけど愛着があるものも「かわいい」。

ファッションにおける「かわいい」も同様で、ひとつの正解がありません。

ロリータファッションの「かわいい」とストリートファッションの「かわいい」は、まったく違う美意識から来ています。でもどちらも「かわいい」という言葉で表現される。

「それはかわいくない」という言葉は、「私が思う『かわいい』の定義に当てはまらない」という意味に過ぎません。でもそれはひとつの「かわいい」の定義であって、すべての「かわいい」の定義ではない。

ファッションにおける「かわいい」は多様であっていい。むしろ多様であることが、ファッション文化の豊かさです。


「好み」を持つことと「押し付ける」ことの間にある線

ここまで読んで、「じゃあ何も批評してはいけないのか」と思った方もいるかもしれません。

そうではありません。

好みを持つことは、まったく正当なことです。「このコーデが好き」「あのスタイルは自分には合わない」「この色の組み合わせが美しいと思う」——これらは自由に感じ、自由に表現していい。

問題は、その好みを他人に「正解」として押し付けるときだけです。

「私はこれが好き」は自由な表現です。「これが正解で、それは間違い」は押し付けです。

この線を意識するだけで、ファッションをめぐる会話の質は大きく変わります。批評や感想を「私はこう思う」という主語で語れば、それは自分の感覚の表現です。でも「これはダサい」「あれは変」という断定は、自分の感覚を普遍的な基準であるかのように偽ることになります。

ファッションについて語るとき、主語を意識してみてください。「これはダサい」ではなく「私はこれが好みではない」。たったこれだけで、言葉の持つ力は変わります。


好きな服を着ている人が、一番美しい

長く服に関わってきて、ひとつ確信していることがあります。

好きな服を着ている人が、一番美しい。

トレンドに乗っているかどうかは関係ありません。「似合う」かどうかも、絶対条件ではない。高いブランドかどうかも、関係ない。

「これが好きだから着ている」という確信を持って服を着ている人は、その確信そのものが「かっこよさ」になります。自分の選択を疑わず、堂々と着ている姿は、どんなファッション論も超えた説得力を持っています。

男性がスカートを堂々と履いている姿を、美しいと思ったことがあります。年齢を重ねた女性が「年相応」を無視した派手な服を着て、楽しそうに歩いている姿を、かっこいいと思ったことがあります。ファストファッションを自分らしく着こなしている人を、おしゃれだと思ったことがあります。

それらすべてに共通しているのは、「自分が選んだ服を、自分の意志で着ている」という姿勢です。

良い悪い、かっこいい格好悪い、かわいいかわいくない——そういった外からの評価軸ではなく、「自分がどうしたいか」という内側の軸で服を選んでいる人は、見ていて気持ちがいい。

ファッションの自由とは、その「内側の軸」を持てることだと思っています。


まとめ:どれも間違いではない

良い悪い、かっこいい格好悪い、かわいいかわいくない——これらはすべて、主観的な感覚です。

男性がスカートを履くことも、女性がパンツを履くことも、その人が「これを着たい」と思って選んでいるなら、それで完結しています。他の誰かが「変だ」「おかしい」と思ったとしても、その感覚も否定しません。ただ、その感覚を他人への「正解の押し付け」に使わないでほしい、ということです。

ファッションは多様です。その多様さを楽しめる社会の方が、ひとつの「正解」だけが許される社会より、豊かだと思っています。

あなたの「好き」が、誰かの「嫌い」でも構わない。あなたの「かわいい」が、誰かの「かわいくない」でも構わない。

どれも間違いではありません。それだけのことです。

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