【モキュメンタリー形式】 The sketch 《創作大賞2026 エンタメ原作部門》
《あらすじ》
心臓発作で亡くなった老人が手にしていた若い女性のスケッチ。遺された一枚のスケッチが過去と現在の人々の痛みや想いをつないでゆく、インタビューモキュメンタリー形式ヒューマンドラマ。
主要登場人物
一ノ瀬武 … 元東久留米警察署警部補
渡会宏一 … 心臓発作で亡くなった老人
高梨美鹿 … 専門学生
大城咲希 … 旅館の仲居
三谷恵子 … 渡会宏一の娘
安田啓蔵 … 復員兵の日本画家
尾崎ふみ … 啓蔵の娘
尾崎聡介 … ふみの息子
《本文》
1.ある老人の死
2024年10月
東京都東久留米警察署管内
一ノ瀬武(元東久留米警察署刑事課警部補)
「市内の路上で高齢の男性が倒れているという通報があったのは、2024年10月15日の朝8時頃でした。救急隊が病院に搬送しましたが、間もなく死亡が確認され、死因は心不全、近くに住んでいた独居の方でした。
路上での最期ということで念のため警察で検証を行いましたが、自然死を覆す証拠は何もなく、唯一変わった点に見えたのが、この亡くなった渡会宏一さんの所持品の中に、着物を着た若い女性が描かれた一枚のスケッチがあったということです」
三谷恵子(渡会宏一の長女)
「刑事さんに父の所持品を返してもらった時に初めてそのスケッチを見ました。そんなものがあったなんて兄弟もみんな知りませんでね。描かれていた女性にも全く見覚えがなくて。
既に亡くなっていた母には申し訳ないんですが、スケッチに描かれた女性は母よりもずっと美人でした。生前の父は真面目で寡黙な人間で、まさかとは思いましたが愛人でもいたのだろうかと。
それでなんだか気になってしまって、遺品整理の時にそれらしい存在を匂わせるものがないか探してみたんです。結果的に不倫の証拠はありませんでしたが、書斎の引き出しの中に、立川市にある美術専門学校の学園祭パンフレットが入っていました。
父が倒れたのは、その学園祭の日だったんです。そして学生たちの油絵なんかを載せたパンフレットの中に一つだけ、中学生ぐらいの男の子を描いたスケッチがありました。色彩豊かな作品の中にポツンとあったスケッチだったのもあって、印象には残りましたね。
高齢の父と若い世代の方の接点として思い出したのが、小金井市にある創志園という児童養護施設です。父は従業員50名ぐらいの金属加工会社を経営していたんですけど、引退後そちらでボランティアをしていました。さすがに80歳を過ぎてからはあまり顔を出していなかったようでしたけど、もしかしたら父に学園祭のパンフレットを送ったのはその施設ではないかと思い、連絡を入れてみました」
高野満(児童養護施設創志園・所長)
「渡会さんには確かに当園からパンフレットをご自宅に送付しました。年齢的にもお越しいただけるかどうか分かりませんでしたが、渡会さんがボランティアに来て下さっていた最後の時期、気にかけていらした子がいましてね。当時その子は12歳でしたが、現在はここを出て立川市の美術専門学校に通っています。
彼女、高梨美鹿さんは自動車の事故で下半身不随となり車椅子、ご家族を失い、扶養できる親族もいなかったため、病院で手術、リハビリ後、こちらに入所して生活をしていました。当時から絵を描いていることの多い物静かな子でしたが、才能を生かせる進路を選んでくれたことは嬉しかったですね」
後藤美和子(多摩美術専門学校・絵画科主任講師)
「高梨美鹿さんは現在当校の二年生になります。
スケッチ、デッサンというのはやはり画力の基礎となるもので、高梨さんのタッチは非常に精密で力強い。まるで、目の前にあるものの重さや感触まで丸ごと絵の中に閉じ込めてしまおうとするような、そういう強い執念のようなものを私は感じました。
元々絵が好きで、絵の具を用いたものも描いていたそうですが、ご家族を失った事故後、どうしても色を着けるのが怖くなってしまったと。色を塗り、絵が完成してしまったら、それが自分の前から消えていってしまうのではないか、また辛い別れをしなければならなくなってしまうのではないか、そんな気がしてしまうと話してくれました。
そうした事情は入学の時点で把握していましたし、これはデリケートな問題なので、彼女がスケッチ以外の絵も描けるようになるまで我々としては待とうと。それがなければ美術大学のほうに行ってもおかしくなかったのかも知れませんが、美大は入試に色彩課題がありますからね。ペン画というのも世にはあったりはしますが、何かが変わるきっかけになってくれないかと思い、私が高梨さんのスケッチをパンフレットに載せてみることと、施設とその関係者への送付を提案しました」
三谷恵子
「美術学校の後藤先生に間に入ってもらい、高梨美鹿さんと会わせていただきました。父のこともちゃんと覚えていてくれましたよ。
高梨さんは施設にいる間、時間のあるときはほとんどスケッチを描いて過ごしていたこと。父は絵に色を入れないのかとは一言も聞かず、いつも上手だねと言って褒めていたそうです。
ただ、父が最期に持っていたスケッチも見てもらいましたが、それについては高梨さんも何も知らないとのことでした。状況から考えて、父は女性のスケッチを携えて高梨さんに会いに行こうとしたようですが、その矢先に倒れてしまった。
このスケッチに描かれた女性は誰で、90にもなる老体を押してまで父は高梨さんに何を伝えようとしたのか。娘としてどうしても知りたいと思いましてね。高梨さんも、分かるのであれば自分も知りたいと言ってくれて。
でも、人探しなんてしたことのない人間にとっては雲を掴むような話でしょう? 今の時代ならネットを使って探すなんてこともできてしまうんでしょうけど、いかんせんどんな事情かすらわかりませんでしたからね。それでどうしようかと思って、ダメ元で父の最期の現場検証をして下さった一ノ瀬さんに相談してみたんです。そうしたら、私でよければできる範囲で調べてみますよっておっしゃってくれて。間もなく定年で、有給有り余っている身ですから、と。あまりにあっけらかんと言われるものだから、私、思わず聞いてしまいました。えっ、そんなに暇なんですか?って。なかなか面白い刑事さんですよね」
一ノ瀬武
「事件ではないのでもちろん正式な捜査というわけではありませんが、時間ができる身なのは事実でしたからね。それに全く何の手がかりもない話、という訳でもなさそうでした。
まず、渡会さんが持っていたスケッチの女性は着物姿で、三谷さんらご家族も誰も知らないとなると、かなりの昔に親交があった方であろうこと。
そして渡会さんは戦時中、長野県の飯田に疎開していた時期があること。映画女優などにそれらしい顔はなく、浮気の形跡もない。経営されていた会社関係の中に似た人はいなかったようなので、可能性としてはそのあたりが高いのではないか。
さらに高梨さんと後藤先生の見立てでは、スケッチを描いたのはかなり絵の実力を持った人物だろうということでした。
これらの要素を合わせれば、何かが分かるかも知れないと思いました。まぁ、本音を言ってしまうとたまたま妻の田舎がそちらの方面だったので、行きがてら調べてみようか、といった気持ちもありましたが。
長年刑事という仕事をして、多くの被疑者や被害者、その家族を見てきた身から思うのは、人間はいずれどこかに向かわなければいけないということです。何らかの取り返しのつかない罪を犯してしまったとして、人間らしい心がある者であればその罪を悔います。もちろん罪の意識が極めて薄い人物も危険ですが、なので警察は、罪としっかり向き合って償わせるためにもきちんと犯人を捕まえねばなりません。そうしないと、その者は前にも後にもどこにも進めません。
そして犯人が捕まらないままでは、被害者や遺族の時間もそこでピタリと止まってしまいます。犯人を捕らえ、裁きの場に連れていったとしても、被害者が戻らないケースもありますし、傷が癒えるわけでもないかも知れません。元の場所に戻ってしまうこともあるかも知れない。ですが、何かが動き出すきっかけや一つの区切りにはなり得ます。
今回のケースは事件ではありませんが、他の誰も存在を知らないスケッチを持ち、高梨さんに会いに行こうとして叶えられなかった渡会さん。事故以来スケッチしか描けなくなってしまった高梨さん。引退間近の刑事に何か力になれることがあるのなら、やってみようと思ったのです」
2016年6月26日新聞朝刊紙面より
25日午後、埼玉県秩父市の県道で乗用車同士の衝突事故が発生。同県入間市在住の滝川昌容疑者(35)が運転する車が車線を無視し、時速105kmで対向車に衝突、この車は崖下に転落した。
滝川容疑者は現場から逃走を図ったが、およそ3時間後に自宅近辺で発見され、身柄を拘束、逮捕された。なお、容疑者の血中からはドラッグの成分が検出されたと警察は同日夜に発表した。
追突された車に乗っていたのは、東京都武蔵野市在住の会社員・高梨さん一家四人。運転をしていた道哉さん(46)、妻の靖子さん(44)、長男の祐介さん(15)の死亡が確認され、長女(11)は下半身に障害の残る重症だが命に別状はないとのこと。
番組では高梨美鹿さんにもインタビューを申し入れたが、カメラの前への出演は見合わせたいとの意向だった。
2.捜索
2025年1月
長野県飯田市
佐竹誠司(飯田郷土資料館・館長)
「戦時中の学童疎開には主に2つありました。親戚縁者を頼って都市部からやってくる縁故疎開と集団疎開です。飯田市では東京の世田谷区の集団児童およそ3000人を受け入れ、竜丘地区にある開善寺などを宿舎にあてました。また児童の他にも、劇作家の岸田國士ら著名人の疎開もありました」
一ノ瀬武
「休暇に入り、飯田市を訪れました。といっても、戦時中のことを知る人はすでにかなりのご高齢かお亡くなりになっており、飯田市自体も9万人を超える人口の街ですので、残念ながら進展は芳しくありませんでした。東京からやってきた人間が、スケッチに描かれた謎の女性を探し回っているというのも目立ちますしね。市内の老人施設や囲碁クラブなどにも出向いて協力をお願いしてみましたが、めぼしい情報は何もありませんでした。手がかりなく一週間ほどが経ち、東京に戻らねばというところで、女性の捜索に大きな進展をもたらす女神に出会うことになったのです」
大城咲希(旅館竜景宿・仲居)
「女神…はさすがに大袈裟ですよね。旅館の一仲居ですし。それに、私がこのスケッチに描かれた女性探しに関わることになったのは、一ノ瀬さんの一言がきっかけでした。
チェックアウトの時、一ノ瀬さんこうおっしゃったんです。お世話になりました、耳お大事になさって下さい、と。私、左耳の聴力がほとんどないんです。2年前、故郷の飯田に戻ってから家族以外には誰にも気付かれなかったんですけど、思わず驚いて、えっ、どうしてわかったんですか?と聞いてしまいました。そうしたら、一ノ瀬さんはベテランの刑事さんで、事故や暴力などで聴力を失ってしまった人を長年見てきたので、って。なるほど、分かる人には分かるんだな、と思いました。
何か事件なのかと思って、飯田にはお仕事でいらしていたんですか、と聞きました。その時、個人的な捜索なんですがこの女性を探しています、とスケッチのコピーを見せてもらいました。
戦時中、飯田に疎開されていた方が持っていたものであること、おそらくその頃描かれたものではないかということ。なんていうか、上手く言えないんですけど、スケッチの女性の表情が、凛としているんだけどとても深い悲しみを映しているように見えたんです。戦時中なら多くの方が大変だったでしょうけど、あぁ、私みたいにいろいろあった人なのかな、って思っちゃったんですね。この女性のことを知ってみたい、と。
飯田に滞在中、捜索にほとんど進展はなかったとのことだったので、私でよければお手伝いしましょうかと申し出ました」
一ノ瀬武
「その場で単にお手伝いしますと言われただけだったら私も躊躇したでしょうが、その時大城さんは二次疎開の可能性を指摘されたんです。
終戦前は空襲が激しくなり、飯田に疎開してきた児童たちをさらに山のほうにある村などに移した二次疎開があったと、大城さんはお祖父様などから聞いたそうです。恥ずかしながら、正直その可能性は全く考えていませんでした。
ただ、その線を追うなら捜索の範囲を飯田市の外にも広げなければなりません。そうなると私一人の手には余ってしまう。大城さんの地元の友人や知人に、近隣市町村の老人福祉や在宅診療などに携わっている方が複数いて、その方面にスケッチのコピーを回してはどうか、という提案をして下さいました。この時点で確かに進展はなかったので、大城さんの申し出にありがたく甘えることにしてしまいました。
私は一度東京に戻ってそれからおよそひと月後、もしかしたらスケッチの女性を覚えている人が見つかったかも知れないと大城さんから連絡をもらい、再び飯田を訪れました」
大城咲希
「スケッチの女性によく似た人を知っていると言って下さったのは、飯田市から天竜川を挟んだ喬木村に住む男性の方でした。
電話でそう一ノ瀬さんに伝えたら声を弾ませて、大城さん、警察に入って下さればよかったのに、とおっしゃっていましたね。そうかぁ、それなら聴力を失ったりしなかったのかな、なんて少し思ってしまいました。
私の左耳が聴こえないのは、亡くなった夫の暴力が原因なんです。元々はお酒が入ったときに声が荒くなったり、疲れたときにイライラした態度を見せるぐらいだったんですけど、コロナ禍の頃から私と娘に手をあげるようになり、段々とエスカレートしていって。自宅待機が増えて、仕事とかどうなってしまうんだろうといったストレスも相当あったんだとは思いますが。
故人をあまり悪くは言いたくありませんが、弱い人だったということになるのだろうと思います。私のほうから離れればよかったんでしょうけど、小さな子供がいてコロナ禍の中ではなかなか身動きがとれませんでした。
その夫は結局コロナで亡くなって。こんな言い方が不謹慎なのはもちろん分かっているんですけど、正直に言うと地獄が終わってほっとしました。コロナ禍の外出制限から始まったDVを、コロナが連れ去って終わらせた形になったんです。夫は病院で私と娘の名前を呼んでいたそうですけどね。
女性のスケッチを見たときにもう一つ思ったことがありました。それは、夫が亡くなったとき7歳だった娘が、その後絵を全く描かなくなってしまったということでした。娘は物心がついてから少ししてコロナ禍が始まり、父親に殴られたり罵られたり、それを7歳までに経験してしまったんです。元々は楽しそうに絵を描く子だったんですけど、脳裏に浮かんでしまうんだと思います。子供じゃなくても思い出したくないですよね、そんな光景。
今回、この話をするのは躊躇いがありました。でもあの頃、私たちと似たような経験をした方がいるのではないかと思い、お話ししました」
【2021年5月24日】
内閣府は2020年度のDV相談件数が190030件となり
2019年度の119276件からおよそ1.6倍の増加となっ
たと発表した。
支援センターへの相談だけでも20年度は137333件で
前年から約18000件の増加となった。
3.素性
2025年2月末
有末公造(喬木村在住者)
「いやぁ、東京の刑事さんに話を聞かせてもらいたいと言われて、ちょっと驚きましたけどね。
スケッチの女の人は安田ふみさんという方で、もう家は残っとらんですけど、ここの五軒隣に住まわれていました。終戦時、私は11でしたけど、安田さんは確か私より6つか7つ上だったかと思います。
しゃんとした方だったという記憶がありますね。当時私ら元気盛りの男児でしたから、その辺で遊んでると、危ないから気ぃつけぇ!なんてちょこちょこ言われておりましたよ。その度に影で、けっ、美人なのに可愛げねぇな、なんて皆で言ったりしてまして。もうカビが生えるぐらい昔のことですから、どうかお許しいただきたいところですね。
安田さんのお父様が啓蔵さんと言いましてね。そこまで詳しくは分かりませんが、戦前に有名な絵画展で入賞したこともあったような画家さんだったんですよ。従軍の絵師やったんかなぁ。それで戦地行かれて。
渡会さんいう方はその間に東京から疎開で喬木村にやってきて、学年は私より1つか2つ下やったですかね。これは私の母が言っていたんですが、なんでも東京の空襲で家族を全員亡くしてしまったようで、戦後も行き場所がないからしばらく安田さんのとこで預かることになった子やと。それで何度か遊びに誘ったりもしたんですが、あまり皆とワイワイ喋るタイプではなかったですね。
で、安田さんのお父さんの啓蔵さんも無事に復員してきたんですが、それから二年もしないうちに啓蔵さん亡くなってしまったんですよ。警察の車が何台か来とったんでよう覚えてます。なんでも精神を病んでしまっておられたようでね。
そんでしばらくしてから安田さんとお母様がウチに挨拶に来られて。喬木村を離れて松本のほうに移ることになった、と。安田さんが預かっていた渡会さんは中学に入ると同時に東京の施設に行くことになったと話していましたね。
あのスケッチは、私が最後に会った安田さんの姿そのまんまの絵でした。おそらく戦後、復員してきてから啓蔵さんが描いたんでしょうが、悲惨な戦地を見て、精神を病みながらどんな気持ちで娘さんの絵を描いたんやろうかと、今回思いましたよ」
尾崎聡介(安田啓蔵の孫・ふみの長男)
「祖父が描いたあんなスケッチを長いこと東京におられた方がずっと持っていてくれたなんて夢にも思いませんでした。あの絵を見たとき、若かったころの母が生き返ってきたような、そんな気持ちになりましたね。
祖父が他界した後、祖母と母はこの松本に移ってきて、母はしばらく工場で働いとったらしいです。そこで父と出会い結婚をして、私らが生まれたと。去年(2024年)がちょうど母の十三回忌でした。
息子が言うのもなんですけど、気骨のしっかりした人やったと思いますよ。それこそ絵に描いたような真面目さというか、曲がったことが大嫌いな人でね。あれは私が小学校2年か3年のときやったかな。クラスの女の子を少しからかって泣かせてしまったことがありましてね。流石に悪いことしたなと思って、たぶん表情が暗かったんでしょう、母に学校でなんかあったんか、と聞かれて。その時もう日が暮れそうやったんですが、事情を聞いた母は、今からその子の家に行ってちゃんと謝ってこい、それが済むまで帰ってくるなと私をピシャッと追い出したんです。もう暗いし怖いし、私ベソかきながら謝りに行きましてね。後々聞いたらやっぱり夜道は危ないんで、こっそり後ろからついてきてくれてたみたいですけども。今の時代やったらそんなやり方考えられないかも知れませんが、まぁそんな母のおかげでなんとかここまで道を外れずにやってこれたと思っとります。
祖父の死について、母はあまり言いたがらなかったですね。なので主に祖母から聞いた話になりますが、人物も風景も描く画家だったそうなんですけども、戦争から戻ってからはまともに絵が描けんかったそうです。今ならPTSDということになるんですかね。私も戦後生まれなんで想像するしかないですが、毎日毎日、敵も味方も人が血流してモノのようにゴロゴロ死んでいく光景を見て、夜は眠れず、眠れたと思ったら魘されて、食も細り最期は枯れ枝のような体やったと。
渡会さんにお目にかかったことはありませんでしたが、戦後身寄りのない男の子をしばらく預かっていたということは聞いていました。祖母と母と渡会さんは、苦しんで弱っていく祖父の姿を間近で見ていたんですね。若かりし日の母を描いたあのスケッチは、祖父の必死の抗いやったのかも知れません。復員してから祖父は一枚も絵を発表せずに亡くなりました。母を描いたスケッチが戦後唯一の祖父の絵です。愛娘の姿であれば、辛かった戦地の残像に飲み込まれず、なんとか描けたのかも知れませんね。
祖父がこの絵を描いている間、母はどんな気持ちでモデルをしていたんだろうかと思いました。戦争を呪い、祖父の回復を願っていたでしょうかね。この祖父の最後の戦いを、若かった母はどんな心境で見つめていたのだろう、と。そしてその光景に立ち会って、ずっとスケッチを持っていて下さっていた渡会さんも、空襲でご家族を失っている。一度お会いして、お話をうかがってみたかったですね」
三谷恵子
「ここまで調べて下さった一ノ瀬さんと、ご協力いただいた大城さんには心から感謝しています。父本人からもね、戦争で身寄りをなくして一から機械工学を学んで独立して、という話は聞いていましたけど、私ら子供が生まれる前の父を覚えていて下さっている方がいて。知ることができてよかったです。
安田ふみさん、結婚されてからのお名前は尾崎ふみさんですけど、喬木村のそちらでお世話になっていた時というのは、やはり父とふみさんにとって辛い時期だったんでしょう。戦争で大切な人たちを失い、終戦後も苦しみ続ける方を見て。だから身内にも話さなかったのではないですかね。ふみさんのお母様を除けば、多感な年頃の時期の、父とふみさんの二人だけで共有した時間ですし。もし、私が父と同じ年でその場にいたら、どうにかしたくてもどうにもできない、自分の無力さをきっと感じてしまったでしょうね」
一ノ瀬武
「刑事という職業柄、念のため当時の資料などを残っていただけ調べてみましたが、安田啓蔵さんの死に不審な点はなかったようです。その過程で、戦時中同じ部隊にいた文筆家の方が啓蔵さんの死に触れて書いた寄稿文を、当時の文芸誌に見つけました。そこには、戦争が終わった後も戦争と戦い続けた安田啓蔵という方のことを、この国はどうか忘れないでほしい、といった内容が書かれていました。
ただ、一つはっきりとしなかったのは、と言っても当事者たちはもういないので完全にはっきりとわかることはないでしょうが、あの安田ふみさんのスケッチを、渡会さんはいつのタイミングから手元に置いていたのか、ということです。
客観的に考えれば、あのスケッチは画家安田啓蔵の遺作であり、描かれているのは実の娘です。世に出すにせよ出さないにせよ、またそこに辛い思い出があったにせよ、家族が所有するというのが自然ではないでしょうか。尾崎ふみさんの長男、聡介さんもスケッチの存在を知りませんでした。ということは、聡介さんが物心つくころにはすでに絵はふみさんのもとを離れていたか、所持していたとしても家族の目に触れない場所に保管されていた、ということになります。
それについて渡会さんの娘、三谷恵子さんにご意見をうかがったところ、結婚か出産などのタイミングで尾崎ふみさんは絵を手放し、渡会さんに贈ったのではないか、とのことでした。
啓蔵さん亡き後、母子だけでふみさんも苦労をされたはずです。それから結婚をし、家庭を持つことになった。自分は先に進んでいく。辛い思い出の証拠を渡会さんに押し付けたのではなく、戦争という巨大な敵と戦い続けた啓蔵さんの姿を忘れることなく、渡会さんにも先の人生を進んで行って欲しい、という想いだったのではないか。
なぜそう思うか。それは渡会さんが、生前このようなことを言っていたからだと」
渡会宏一(文)
人生の中には、捨てるべきものも手放すべきものもある。
しかし、捨てるべきものを手放してはならず、手放すべきものを捨ててはならない。
捨てるとはその後の行方を気にかけないことであり、手放すとは離れながらもその末を想うことである。
記憶には、一時残るものと長く宿るものがある。己の中に宿ったものは、無闇に捨てるものではなく、手放すものだ。
一ノ瀬武
「その見立てのとおりであるとするなら、高梨さんに会いに行こうとして亡くなった日、渡会さんはあのスケッチを手放そうとしたのではないか。
学園祭のパンフレットを見て、高梨さんが今でもスケッチしか描かず、家族を奪った事故の記憶と闘っているのではないかと思った。空襲で家族を失った自分と、絵を描けなくなってしまった安田啓蔵さんの姿が少し重なったのかも知れませんね。渡会さんが養護施設でボランティアをしていた頃、高梨さんはまだ中学生になるかならないか、戦後安田さんの家に身を寄せていた渡会さんと同じぐらいでしたが、現在は専門学校に通う年齢です。
ここからは私の推測なのですが、渡会さんは高梨さんに、尾崎ふみさんのスケッチにまつわるエピソードを話した上で、道半ばで亡くなった啓蔵さんに代わり、いつか色を入れて絵を完成させてもらえないかという製作依頼をしに行こうとしたのではないかと考えました。
決して無理強いをできることではありませんが、安田啓蔵さんが遺したふみさんのスケッチを、絵として完成させるのなら高梨さんにお願いしたいと。
とにかく絵を完成させることが安田啓蔵さんへの供養になると考えていたのなら、もっと以前に、渡会さん自身が今ほど高齢になる前、少なくとも年齢を理由に養護施設のボランティアを離れた頃ぐらいまでには何かしらのアクションを起こしたはずで、高梨さんにこだわる必要もない。
今回のタイミングでスケッチを携え、高梨さんに会いに行こうとしたのだとすると、やはり渡会さんは心のどこかでずっと高梨さんのことを気にかけていて、かつてふみさんが渡会さんに絵を手放したように、安田啓蔵さんのスケッチを自分が手放せるとしたら、それは高梨さんしかいないと思ったのではないか。そして、自分の中に宿った記憶を手放しても、決して失くなったり見失ったりはしないと伝えようとした。もし高梨さんに断られたりした場合、また具体的に絵をその後どうするつもりだったのかまでは分かりかねますがね。推測の域を出ない話ではありますが、ここまでに得た情報からはそのように思えます」
三谷恵子
「一ノ瀬さんと一緒に、再び高梨さんとお会いしましてね。2025年の4月、桜が咲き終わったころでした。いろいろと分かったことを伝えて。何十年も前にもそんな方がいたんですね、と。
高梨さん自身に起きた事故のことも話して下さいました。猛スピードで衝突された車が崖から落ちていく時、お父さんが最後まで必死にブレーキを踏んで、助手席のお母さんが心配して美鹿さんを振り返って、隣にいたお兄さんが自分を庇って抱き止めてくれたそうです。流れた血の色、骨の色、肉の色、その記憶をはっきりと覚えている。自分が3人の命を吸い取ってしまったのではないか。そんなことはないと頭では分かっていても、どうしてもそう思ってしまう。
学園祭のパンフレットに載っていたのは、お兄さんを描いたスケッチだったそうです。絵を描きたい。絵を完成させたいけれど、そうしたら命を持った絵はどこかに羽ばたいて行ってしまって、また大切な何かを自分は失ってしまうのではないか。そんなふうにずっと思っていました、とおっしゃっていましたね。華奢な可愛らしい女の子が、一人で随分と苦しんできてしまったんだな、と思いました。
とはいえ、急にそんなこと言われて重荷になってしまってもね。父がそう思っていた、のではないかというだけの話ですし。私ら家族からすればね、それが遺志だったというなら叶えてやりたいという気もしますけど、父が亡くなったのは天命で、このスケッチにまつわる話も、それは他人の人生の話であって、高梨さんやご家族の話ではありません。そんなことにまで関わることなどできないというのならもちろんそれでいいのよ、と。ところがここから、思わぬ方向に進んでいくことになりましてね。その口火を切ったのが、他でもない一ノ瀬さんだったんですけども」
尾崎聡介
「私も概ね三谷さんと同じ気持ちでしたね。私は今回出てきた絵を描いた画家の家族ではありますけど、お話したとおり、そんなものがあることは知りませんでしたし、おそらく母が渡会さんに譲ったであろうものですしね。渡会さんが亡くなったことで、あのスケッチに関わる当事者は皆いなくなってしまったわけですから、シビアな言い方かも知れませんけど、それはもうそこで終わってしまっても構わない物語だったのではないかと思いました。ひょっとしたら、渡会さん自身もそう思っていたかも知れない。少なくとも辛い目に遭った高梨さんに、無理に頼み込んでまで続けるようなことではない。
なので高梨さんには、誰の遺志がどうであれ、母が描かれたスケッチをいらないとおっしゃるのであれば家族である私にそのまま送って下さい、もし高梨さんの今後に何か役立ちそうなのであれば、お手元に置いといて下さい、とお伝えしました。
ところが、そう簡単には終わらなかったというのがね、私自身も年寄りの部類になりましたけど、やっぱり生きている人間が思い描くものっていうのは、すごいものやなと思いましたよ」
4.個展
一ノ瀬武
「高梨さんのお話を聴いていて、つい自分の身にあったことを思い出してしまいました。
私たちの娘が3歳のとき、隣町の川沿いに咲いている桜並木が綺麗でお花見に行ったんです。車で向かったんですが、その途中で娘は寝てしまって現地に着いても起きなかった。それで私は、日々の育児に疲れ気味だった妻に、自分が娘を見ているから少し子供と離れて一人でプラプラしてきたらどうかと言ったんです。妻は、じゃあそうする、と。
ところが、妻が戻ってくる前に娘の目が覚めましてね。起きたら母親がいなかったので、ママは?とちょっとパニックになってしまって。当時は携帯電話もまだあまり普及していない頃でしたので、娘はずっと不安そうにしていました。そこに妻が車に戻ってきて、娘はママ、どこ行ってたの!と烈火の如く怒って。気を遣ったつもりが、逆に大変な思いをさせてしまったという、そんな思い出です。子育ても家のことも、苦労を多くかけてしまったと思います。
妻は2023年に急性骨髄性白血病で亡くなりました。残念ながら治療の効果はなく、発症からわずか3か月でした。私は管内で発生した事件の捜査を抱えていて、妻の最期の時、その場におらず見届けませんでした。取り返しなどつきませんが、何度もすまないと謝りました。いまだに遺影の妻の顔をまともに見られないときもあったりします。傷害犯や強盗犯と対峙するのは平気なのに、妻の写真を見るほうが辛いっていうのも、酷い話ですよね。
まぁ、これは私がいい歳をして作ってしまった傷、宿してしまったものというだけです。それだけの話だったんですが、自分にもそんなことがあったので、渡会さんや高梨さんのことが今回気になったというのもあるんです、ということをその時にお話しました。
そしてもう一人、同じように尾崎ふみさんのスケッチに興味を持って、長野での調査に多大な協力をしてくれた人がいること。できればその人にも三谷さんと高梨さんからお礼を伝えてあげてほしい、とお願いしました」
大城咲希
「たまたま5月の連休中に家族で東京に行こうという話があったので、その時に高梨さんと三谷さんにお会いしました。まぁ、私が勝手に尾崎ふみさんのスケッチに興味を持ったというだけの話だったので、お礼を言われるようなことでもなかったと思うんですが。
私と娘の身に起こったこともお話しました。夫を選んだのは私なので、それは当然私の責任なんですけど、娘の…まだあんなに小さかった娘の心に計り知れないダメージを負わせてしまったと考えると、どれだけ悔やんでも悔やみ切れないということ。
夫が亡くなったと病院から連絡が来た日、娘は何の感情も表に出さず、何も言わず、早々に横になって、緊張の糸が切れたのかひたすらに眠っていました。その寝顔の、左耳近くに残った痣を見て、私は涙が止まりませんでした。
その後も夜中に飛び起きることがあって。ぶたれる夢を見た、と汗をぐっしょりかいていました。コロナ禍があけ、そういった状態が続いていましたから、飯田の実家に戻ることにしました。表情に乏しかった娘は、新たな環境に慣れるにしたがって見た目には笑顔も増えてきましたが、唐突にやかんがピューッと吹く音がしたりすると、驚いて怯えてしまい、パニックになるようなことがあります」
【日常的な虐待を受けた場合の脳萎縮について】
身体的虐待 前頭前野(感情・思考のコントロール)
心理的虐待 聴覚野(コミュニケーション能力)
DVの目撃 視覚野
ネグレクト 脳梁(左右の脳をつなぐ)
日常的に虐待を受ける、または目撃する等の環境に置かれた場合、これらの部位の脳萎縮が見られることが多いとされる。
また、情報伝達に関わるシナプスについても影響が指摘される。虐待環境では、暴力を受ける側は常に緊張状態にあり、脳は危険信号を発し続けている。そうした状態が一定以上継続すると、シナプスの働きはオーバーヒートを起こし、回線がショートしてしまうことが常態化する。
シナプスは情報の伝達と同時に情報の刈り込みも行っており、正常なシナプスを手入れされた芝生とするならば、長い虐待環境に晒された者のシナプスは伸び放題の雑木林のようなものになってしまうと言及する専門家もいる。
いずれにしてもこの観点からは、虐待は純然たる暴力であるだけでなく、被虐待者のその後の人生をマイナスな方向に傾かせる可能性が高い行為であると言える。
大城咲希
「それから一週間ぐらいして、高梨さんから連絡をもらいました。尾崎ふみさんと、そして私の娘の絵を描いてみたい、とのことでした。
父親の闘いを最後まで見届けたふみさん、自分より全然小さい体で辛い記憶と闘い続けている娘の絵ならば、それを想って最後まで描き切ることができるかも知れない。そんな気がします、と。
私は、でしたらまだコロナ禍が始まる前、娘が一番よく笑っていて絵を描いていた頃の姿を描いていただきたい、とお願いしました。もしかしたら、それを見て娘が、この時と同じように笑ってもいいんだと思ってくれるかも知れない。そして本音を言えば、私がそういう娘を見たかった。
高梨さんには娘が4歳だったときの動画を送りました。過去に戻ることなどできませんが、10歳になった…まだ10歳の娘が、また屈託なく笑ってくれはしないかと、そんなふうに思っていました」
2025年10月
尾崎聡介宅
一ノ瀬武
「私と高梨さん、三谷さんの三人で松本の尾崎聡介さん宅を訪れました。さすがに東京よりひんやりとしていましたが、空気も陽射しも心地よい小春日和でした。
高梨さんは描き上げた二枚の絵を持って、三谷さんが彼女の車椅子を押して。高梨さんは、自分で進めますと言っていましたが、三谷さんが、私に押させて、あなたは絵をしっかり持っていて、と。高梨さんは、はいと頷いて誰かに車椅子を押してもらうのは久しぶりです、と言っていましたね。
尾崎さんのお宅では、聡介さんと大城さん母子が待っていてくれました。大城さんの娘さんは、やはり緊張した面持ちでしたね」
大城咲希
「色が入ると、尾崎ふみさんの目鼻立ちの良さがさらに伝わってきました。藤色の着物に、豊かな黒髪で。そして、鋭く見つめながらもどこか寂しげな目が印象的でした。この目が、戦争の記憶に病みながらも筆を走らせていた父親の姿を見つめていたのかと思うと、胸に迫るものがありました。
尾崎聡介さんは、私らが生まれる前の母にこうして会えるなんて、なんだかとても不思議な気がします、でもこの生真面目な、苦労や悲しさを真正面から受け止めてしまうような表情は、間違いなく私の母の顔です。こんなにきれいに描いてもらってありがとうございます、とおっしゃっていました」
尾崎聡介
「もうとっくに亡くなっているのに、今まさに生きた母に見られているような感覚になりましたね、あの絵を見たとき。やっぱり悪いことはできんな、思いました。本当に折れない人でしたからね。若い時からそうやったんやな、と。そうしないといけなかった、のかも知れませんけどね。
高梨さんには感謝しています。私が生きている内にはもう会うことがないと思っていた母に会わせてくれてね。
大城さんの娘さんの絵も大変素晴らしかったですよ。可愛らしい服を着て、生きているのが楽しい、嬉しいと言っているようにニコッと笑った女の子の絵でした。自分が描かれたその絵を大城さんの娘さん、しばらくジッと見てね、それから涙をポロポロと溢して、うわああん、うわああん、と大きな声で泣き出したんです。自分の中にある悪いものを全部洗い出すというか、そんな泣き方でしたね。その姿を見て、大城さんも顔を覆って泣いていました。高梨さんが娘さんに、ごめんね、辛かったら見なくてもいいよ、と声をかけると、娘さん、高梨さんにワッと抱きついてね。高梨さんもしっかりと抱き止めて、描かせてくれてありがとう、と肩を震わせていました。そんな二人の背中を三谷さんが擦って、みんなよく頑張ってきたんだねぇ、とおっしゃった。なんと言いますか、お母さんみたいになっていましたね。でも、三谷さんのお気持ちは分かります。この歳になってくると、やっぱり若い人たちには笑って前を向いていてほしいと思ってしまいますから。
その時に母の絵をふっと見たらね、優しそうに笑っていたんですよ。そんなん私の気のせいでしょと言われてしまえばそれまでなんですけど、それでもええんです。何十年かぶりに見た母の笑顔でした。
人生ってのは、本当に不思議ですね。辛くて苦しくて、でもこんな宝石のように輝いた瞬間もあって、だから私らなんとかやっていけるんでしょうかね。本当に、本当に不思議なもんですよ」
5.エピローグ
2026年3月
一ノ瀬武
「あと一週間ほどで正式に退官というところで、署のほうから私宛に荷物が届いたから取りに来てくれと連絡があったので、なにかと思いながら出向きました。
大きさは50cm✕60cmぐらいでしょうか。送り主は高梨さん。私の亡くなった妻を描いた絵でした。以前、妻のことを話したときに、財布に入れていた写真もお見せしたのですが、それを覚えていて描いてくれたそうです。
私は絵の良し悪しや芸術のことなどはさっぱり分からない人間ですが、体温というのでしょうか、生きて温かみのある体温のようなものが伝わってくる絵でした。
そして、妻が生きていた頃の光景を思い出しました。娘が小学校3年ぐらいの時に、パパの仕事は悪いことするどうしようもない人とそうでない人を見分けること?と聞かれたことがあって。子供って、はっきり言いますよね。
その時、私の代わりに妻が、最初から手がつけられないぐらいどうしようもない人はいないのよ、どういう人になるか、どういう魂にするか、考えて選ぶのは自分だ、ってあなたが生まれる前にパパが言ったから、ママはこの人と結婚しようと思ったの、と娘に答えてくれていました。
その娘も独立をして、私以外にはもう誰もいない家です。渡会さんと同じですね。高梨さんに描いてもらった絵を、玄関から廊下を進んで正面に見えるリビングの壁に掛けました。それだけなんですが、ちゃんと妻の目を見て、ただいまという言葉が…そういった言葉が、自然と口からまた出るようになりました」
キャンパスに描かれた四枚の人物画
左から順に、尾崎ふみ、大城花菜(仮名)、一ノ瀬智子、高梨祐介
文
ようやく、優しかった兄の絵を描き上げることができました。ずっと描いてあげられなくてごめんねと言いました。
過去から現在へ。現在から過去へ。今を生きている私と皆様へ。私の中に宿り、ここまで連れてきてくれて、これからも見失わずにいてくれる人たちへ。
心からの感謝を伝えます。
2026年4月
高梨美鹿
*内閣府のデータと脳萎縮についての記述は、実際
のものを使わせていただきました
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