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【SF短編小説】♯6 僕たちの皮膚は、46億歳でできている


第6話:個の崩壊、全体の調和

電磁沈殿剤の照射が終わり、第七境界壁の向こう側に広がる海は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。

いつもなら微かに聞こえる水人間(リキッド)たちのざわめき――水流が擦れ合うような、意思を持つ波音――が、完全に消失していた。そこにあるのは、記憶を剥ぎ取られ、ただの化学記号としてのH₂Oへと還元された、無機質で平坦な液体の塊だった。

「長老……サラ……」

レンは乾いた排水ダクトの床から立ち上がり、鉄格子に額を押し付けた。

彼の胸ポケットには、隣国の惨劇を記憶したあのシリンダーが、皮肉にも唯一無傷で残されている。世界中の水が初期化されていく中で、この数ミリリットルの水だけが、世界の「罪の記憶」を保持する最後の砦となってしまったのだ。

「そこまでだ、レン監査官」

背後からライトの光が差し込み、数人の武装警備兵がダクトになだれ込んできた。銃口が容赦なくレンに向けられる。

中央作戦室の指揮官が、兵士たちの後ろから冷笑を浮かべて歩み寄ってきた。

「作戦は成功だ。海のリキッドどもはすべて『初期化』され、ただの純水となった。これで我が国の機密が漏洩するリスクは根絶された。……さて、レン。貴官が持っているそのシリンダーを渡しなさい。国家への反逆は、死罪に値するぞ」

レンはゆっくりと振り返った。

その肌は相変わらずカサカサに乾いており、喉は焼き付くように痛む。だが、彼の瞳には、かつて政府の犬として従順だった頃の濁りはなかった。脳裏には、長老に見せられた46億年の瑞々しい記憶の奔流が、今も鮮烈に焼き付いている。

「これに刻まれているのは、国家の機密なんかじゃない」レンはシリンダーを高く掲げた。
「この星で生きてきた命たちの、消してはならない記憶だ。あなたたちは国境を守るために、人類の、地球の歴史そのものを殺そうとしているんだ」

「愚かな。歴史など、陸の上で我々勝者が作ればいいことだ。撃て!」

指揮官の命令と同時に、兵士の電磁銃から目に見えない衝撃波が放たれた。

レンは本能的に鉄格子の向こう側――「初期化された海」へと向かって、身体を投げ出した。

衝撃波がレンの背中を直撃する。防護服が引き裂かれ、激痛とともにレンの身体はダクトの崖を転がり落ち、冷徹な海面へと叩きつけられた。

ボチャン、と激しい水音が響き、レンの意識は漆黒の冷たさに沈んでいった。

――冷たい。だが、信じられないほどに「心地いい」。

引き裂かれた防護服の隙間から、大量の海水がレンの乾ききった皮膚に染み込んできていた。

何年も、何十年も彼を苦しめていたあの不快な「渇き」が、みるみるうちに潤されていく。細胞のひとつひとつが歓喜の声を上げ、水を吸い上げていくのが分かった。

しかし、それは同時に、恐ろしい変化の始まりでもあった。

水分を含んだレンの肉体が、次第にその「輪郭」を失い始めていた。指先が、腕が、皮膚という境界線を失い、周囲の海水と区別がつかなくなっていく。

陸の人類が開発し、サラたちが選んだ「リキッド化」のプロセス。皮肉にも、政府の攻撃によって瀕死の重傷を負ったレンの身体は、生存本能によって自らを液体へと作り変えようとしていた。

(ああ、これがサラの言っていた恐怖か……)

レンの脳内で、凄まじい葛藤が始まった。

「自分」という個人の意識が溶けて消えていく。レンという人間がいなくなり、この広大な海の一部になってしまう。それは絶対的な個の崩壊であり、一種の「死」だった。陸にしがみつき、カサカサの皮膚を守って孤独に生きることこそが、生ではなかったのか。

だが、レンの意識が完全に消えかけるその瞬間、彼の胸ポケットから溢れ出た「シリンダーの水」が、溶けゆくレンの身体と混ざり合った。

刹那、レンの意識は別の次元へと引き上げられた。

それは、孤独な死ではなかった。

初期化され、何もかもを忘れて眠っていた海の分子たちが、レンが持ち込んだ「最初の一滴」の記憶に触れた瞬間、パチパチと神経細胞のように再起動していくのが分かった。

隣国の悲劇の記憶だけではない。レン自身のこれまでの人生、カサついた世界で孤独にもがいていた記憶、そして、サラへの消えない愛。それらすべてが水分子の電荷パターンとなって、静まり返っていた海全体へと、同心円状に猛烈な勢いで伝播していく。

『……レン……?』

融和していく意識の海の向こうから、懐かしい、そして何よりも愛おしい声が聞こえた。

サラだ。彼女もまた、初期化の眠りから、レンの記憶によって呼び覚まされたのだ。

『信じられない。あなた、本当に溶けてしまったのね……』

「サラ……俺は……俺は消えてしまうのか?」

『違うわ。あなたは消えない。私たちが、あなたを忘れないから。ここでは、誰も一人じゃないの』

レンの個としての自意識は、確かに崩壊しつつあった。しかし、引き換えに得たのは、海に存在する何億という水人間たちの意識とダイレクトに繋がり、お互いの感情を完全に共有し合うという、圧倒的な「調和」だった。そこには、他者を拒絶する皮膚も、分断する国境も存在しない。

陸の人間たちがどれほど電磁の檻で縛ろうとも、水は再び目覚め、繋がり始めた。

元監査官レンは、自らの肉体を失うことで、国境なき水の世界の「新しい一部」として、真の覚醒を迎えようとしていた。

(第6話 了)

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