見出し画像

【短編小説】メ・ロン!



 六月の信州は、風がまだ水の匂いをしている。
 特急を降り、一時間に二本しか来ないバスに三十分揺られて、生家の最寄りの停留所に立ったとき、私が最初にしたのは深呼吸ではなく、あくびだった。空気が良すぎて、体が油断したのだと思う。東京では、あくびの前にまず周囲を確認する癖がついている。
 バス停から家までの道は、記憶より短くなっていた。道が縮んだのではなく、私の歩幅が伸びたのだ。分かってはいるのだが、田舎道というものは、帰るたびに勝手に模様替えをして人を待っているような顔をする。田植えの済んだ田は水鏡になって、逆さの山を一枚ずつ収めていた。
 停留所には昔、祖父が軽トラで迎えに来た。夏の夕方、荷台から見る田んぼは全部こちらへ流れてきて、私はそれを両手で受け止めるふりをした。今日は誰も来ない。歩いた。歩けば十五分の道である。
 祖父の温室は、家の裏の畑の隅にある。温室といっても硝子張りの立派なものではなく、パイプにビニールを張った、間口三間ほどの小屋だ。私たちが「ハウス」と呼ぶたび、祖父は「温室」と言い直させた。横文字はいかん、というのがその理由で、そのくせ育てているのはメロンなのだった。この矛盾を指摘した者は、祖母を最後に一人もいない。
 入口のビニールをめくると、緑の匂いがむっと押し寄せた。
 畝はあらかた片付けられて、奥にひと株だけ、支柱に絡んだ蔓が残っている。腰の高さに、青い実がひとつ。表面にうっすらと網目の入りかけたそれは、吊り紐に支えられて、静かにぶら下がっていた。
 入口の柱には、手のひらほどの小さな黒板が針金で留めてある。チョークの文字で「水 控」。命令なのか覚え書きなのか、二文字では判別がつかない。ただ、書いた人がもういないのに、指示だけが現役だった。
 実に、そっと触れてみた。ひんやりと硬く、まだ青いのに、掌にはもう重さの気配があった。祖父が最後に選んだ一玉である。摘果の非情をくぐって残った、今年の、たった一人。
「おう、来たか」
 振り返ると、じょうろを提げた老人が立っていた。勝田さん。祖父の麻雀仲間で、御年八十一。祖父が五月に倒れてからのひと月、この最後の一株に水をやり続けてくれた人である。
「めろんちゃん、いくつになった」
「まだ三十四です」
「そうか。ドラさんの四十九日も済んだか」
 会話が微妙に噛み合っていないが、こういうものだと知っている。田舎の挨拶は点を打つだけでいい。線は季節が勝手に引いてくれる。
 ドラさんというのは祖父のことだ。名は辰雄。辰年生まれの辰雄で、辰は竜、竜はドラゴン、ドラゴンは縮めてドラ。ついでに言えばドラとは麻雀で、持っているだけで手が高くなる牌のことでもある。居るだけで場が高くつく男、という意味も込められていたらしいと、これは葬式の席で勝田さんに聞いた。
 家に上がると、茶の間は祖父が出て行ったときのままだった。座椅子の脇に老眼鏡。テレビの録画リストには麻雀番組が三十件。仏壇には祖母の写真の隣に真新しい祖父の写真が並んで、二人とも、こちらの段取りの悪さを面白がっているような顔をしていた。
 台所の冷蔵庫には、麦茶のポットと、食べかけの海苔の佃煮と、賞味期限を三週間過ぎた油揚げが入っていた。八十六歳の一人暮らしの冷蔵庫としては、むしろ優秀な部類だろう。麦茶は流しに空け、佃煮は迷った末に持ち帰ることにして、油揚げには手を合わせてから捨てた。
 母は温室を畳むと決めていた。母は隣の市に住んでいて、解体の業者は再来週の月曜に入る。私はそれまでの休みを取り、あの一玉の収穫を見届けることにした。会社には「実家の整理」と言ってある。嘘ではない。整理する物のなかに、メロンが一玉あるだけだ。
 仕事道具は持ってきた。私の職業は校閲である。出版社の校閲部に、契約社員として八年いる。ゲラ――印刷前の試し刷り――に赤字を入れ、事実を確かめ、疑わしい箇所には鉛筆で問いを立てる。誤りだと断言できないものを、断言せずに指摘する技術。それを疑問出しという。語尾は必ず「カ?」と片仮名の疑問形にするのが流儀だ。断定は赤ペンの仕事で、鉛筆はただ問う。八年やって、私は問うほうばかり上達した。
 戸籍名は、五十嵐めろん。ペンネームでも通り名でもない、正真正銘の本名だ。祖父が生まれた日に勝手に役所へ届けてしまい、両親が抗議したときにはもう受理済みだったという。原稿の中にこの手の名前が出てくれば、私は迷わず鉛筆を握り、「読み仮名要確認カ?」と余白に書き込む。自分の名前にだけは、その鉛筆を向けられたことがない。向けたところで、直しようがないからだ。
 その日の夕方、農具棚を整理していて、肥料の袋の陰から大学ノートの束が出てきた。表紙に太い字で「栽培日誌」。全部で十二冊。一番古い一冊の、一頁目にはこうあった。
「四月×日 播種。今年も配牌が来た。」


 祖父が「ロン」と叫ぶのを初めて聞いたのは、小学二年の春休みだった。
 種蒔きを手伝った数日後の朝、温室から声がした。行ってみると、育苗箱の前で祖父が仁王立ちしている。土の表面に、緑の小さな双葉がいくつも首をもたげていた。
「ロン!」
 もう一度、祖父は叫んだ。台所から祖母が出てきて、また始まった、と言った。
「芽が出たらロンだ」と祖父は言った。「メのロンで、メロンだ」
「自分で蒔いた種なんだから、ツモじゃないの」
 生意気盛りの私がそう返すと、祖父はじょうろを持ったまま、存外真剣に考え込んだ。それから言った。
「いや、ロンだ。芽は、向こうから出てくる」
 意味はいまだに分からない。分からないまま、二十六年が経った。
 ちなみに祖父のメロンは、直売所では「辰雄さんのメロン」で通っていたが、雀荘界隈でだけ「メ・ロン」と呼ばれていた。中黒ひとつで、果物が上がり牌になる。
 この理屈で名付けられたのは、メロンだけではなかった。
 私が生まれた日、祖父は病院からの電話を風呂屋の二階で受けた。孫が生まれた、と聞いた瞬間、その場で「ロン」と叫んだらしい。それが勝負中の発声だったのか、ただの喜びの発声だったのか、証言する者はもう誰もいない。ただ、翌朝、祖父は誰にも相談せず役所へ走り、生まれたばかりの孫に「めろん」という名を届け出た。芽が出るように、瑠璃のように美しく、良い音を立てて生きるように――「芽瑠音」と当て字を組んで、読みだけを「めろん」にした。両親が抗議した頃には、もう受理された後だった。
 数年後、祖父は温室で新しい品種の苗を植えた。芽が出た朝、いつものように「ロン」と叫び、「メのロンで、メロンだ」と名付けた。孫につけた名前と同じ響きを、今度は果物にも重ねたのである。祖父にとって、孫と果物はきっと同じ理屈の上に並んでいた。育てるもの、名づけるもの、上がるもの。私だけが、その並びの中で、ずっと居心地の悪い顔をしてきた。
 出荷の朝の祖父も覚えている。軽トラの荷台に籠を積み、一玉ずつ新聞紙にくるみながら、小声で何か言っていた。何を言っているのか聞いたら、「行ってこい、と言うとる」と答えた。メロンに行き先の指図をする人を、私は他に知らない。あの新聞紙のくるみ方は、たぶん祝儀袋の折り方にいちばん近かった。
 祖母は、麻雀を「音のうるさい神経衰弱」と呼んで、生涯一度も卓に着かなかった人である。そのくせ祖父の「ロン」には毎回律儀に呆れてみせた。呆れるのも相槌のうちだったのだと、二人ともいなくなった茶の間で、今さら気がつく。
 日誌は、そういう家の声で書かれていた。一日一行か二行。癖のある、右肩上がりの字。
「五月×日 交配。花婿多忙。」
 メロンの受粉は朝のうちに、雄花を摘んで雌花に押し当てる。花婿とはつまり雄花のことで、一輪で何軒も掛け持ちさせられる。私も小学三年の朝、花婿の係をやらされたことがある。祖父は雄花を私に持たせて、「仲人を頼む」と言った。仲人の意味を知らない八歳は、それでも役目の重さだけは感じ取って、震える手で花と花を引き合わせた。あの緊張は、初めてゲラに赤字を入れた日のそれと、たぶん同じ種類のものだ。
「五月×日 摘果。三姉妹より一人を選ぶ。非情。」
 ひと株に実は一玉。残りは小さいうちに落とす。選ばれた一玉に、株のすべてを注ぎ込むためだ。
「五月×日 誘引。蔓、反抗期。」
「六月×日 梅雨入り。天も長考。」
「六月×日 ネット発生。器量よし。」
 いちばん古い年には、こんな一行もあった。
「七月×日 初収獲。キヌの誕生日に間に合う。ハネ満。」
 キヌは祖母の名だ。ハネ満は麻雀の大きな上がりで、確か満貫の一・五倍。誕生日に間に合わせた初物が、祖父の点数表ではその位置だったらしい。祖母がそれを何点で受け取ったのかは、書いていない。
 頁を繰りながら、私は職業病と闘っていた。祖父は「収穫」を一貫して「収獲」と書くのである。禾偏ではなく、獣偏の獲。校閲者としては鉛筆を握り、余白に「収穫カ?」と書き入れたいところだ。うずうずと三冊分ほど耐えたあたりで、ふと思った。獲物の獲。雀卓で他人の捨て牌から上がりを拾う、あの手つき。もしかすると、わざとかもしれない。
 わざとかもしれない、と思わせたら書き手の勝ちだ。校閲は疑うのが仕事だが、疑いきれないものに出会うと、案外あっさり降参する。私は鉛筆を置いた。
 ついでに白状すれば、私はメロン農家の孫のくせに、まともなメロンをほとんど食べたことがない。出荷できる玉は出荷される。食卓に上がるのは、網の乱れた規格外だけだった。祖父はそれを「役なし」と呼んだ。役なしでも食えば同じ味だ、というのが口癖で、実際おなじ味だったと思う。ただ、切るたびに祖母が「もったいない」と言い、祖父が「うまいのに、もったいないもないもんだ」と返す。その応酬まで含めての味だった。
 十二冊のうちの何冊目かには、私も出てくる。
「三月×日 めろん、上京。東京は場が荒れとるで、無理に鳴くな。」
 鳴くというのは麻雀で、他人の捨て牌をもらって手を早く進めることだ。形は早く整うが、そのぶん手の内が相手に見え、上がっても点は安くなる。当時の私は意味も分からず、そもそもこの日誌の存在すら知らなかった。知らないところで一行、置かれていた。
 祖母は三年前に死んだ。日誌のその年の頁は、他の年より行間が広い。書いてあることは変わらない。水をやった、蔓を整えた。それだけの記述が、妙に間遠に並んでいる。そして、その夏の終わりに一行。
「八月×日 流局。」
 その年、メロンは一玉も穫れなかったのだと、あとで勝田さんに聞いた。看病で、温室どころではなかったらしい。流局とは、誰も上がらないまま一局が終わることをいう。負けた、とは書かないところが、祖父だった。


 メロンの世話は、朝が勝負である。
 六時前の畑には、まだ昨夜の涼しさが残っている。温室のビニールを開けると、外の風がひと筋、実の間を通り抜けていった。植物にも、深呼吸のような瞬間があるらしい。葉が一斉に、ほんの少し向きを変える。私はその一瞬のために、毎朝少し早起きするようになっていた。
 といっても、仕上げの時期の世話とは、要するに「やりすぎない」ことだった。水は絞る。甘みを乗せるためだ。勝田さん曰く、「喉が渇くと、実は慌てて甘くなる」。植物の焦りを利用するようで少し気が引けるが、締め切りがないと書けない人なら、私もゲラの向こうで大勢見てきた。生き物はだいたい、追い込まれてから本気を出す。
 水を控えめにやり、葉の色を見て、実をそっと回す。日の当たり方が偏らないように向きを変えてやる作業で、玉直しという。器量は日の当て方ひとつ、と日誌にもあった。
 実は専用の紐で梁から吊ってある。蔓だけでは自分の重さを支えきれないからで、つまりこのメロンは、生まれてからずっと、誰かに吊られて育ってきた。ぶら下がっているというより、預けている、という姿勢に見える。
 勝田さんは二日に一度、様子を見に来た。来ても、たいして喋らない。実を撫で、葉を裏返し、私の水のやり方に一度だけ「多い」と言った。多い、の一語で、翌日から私の手つきは変わった。
 それから、畝の際に伸びた雑草をむしる。むしりながら、頭の中で「トル」と唱えている自分に気づいて、少し笑った。トルは校正記号で、不要な文字を削除せよ、の意。雑草にまで職業を持ち込むようでは重症だが、鉛筆と違ってこちらは爪が黒くなる。
 午後は温室の隅にパイプ椅子を出して、ゲラを読んだ。東京の男女がすれ違ったり戻ったりする恋愛小説である。ビニール越しの光は紙にやわらかくて、正直、会社の蛍光灯より目に良い。校閲部の机は窓から遠いのだ。原稿は日焼けを嫌うから、私たちはたいてい建物の内側の、天気の分からない席に座っている。八年間、私は紙の上の季節ばかり読んできた。ゲラの中では桜が咲き、台風が来て、雪が積もる。実物より先に、活字で夏に会う年もあった。今年は逆だ。実物の六月の真ん中に座って、紙の中の五月を疑っている。五月の章で、主人公が「露地物のメロンを頬張った」ので、余白に鉛筆を走らせた。「露地物、時期尚早カ?」。メロン農家の孫が校閲に就くと、こういう箇所で作家の運が尽きる。
 疑問出しの「カ?」には、作法がある。断定しない。詰問しない。直すかどうかの決定権は、最後まで書き手の側に置く。新人の頃、先輩に言われた。赤字は直させる字、鉛筆は考えてもらう字。余白に「時期尚早カ?」と書きながら、ふと考える。水を絞るのは赤字だろうか、鉛筆だろうか。玉直しは――と、そこまでで雷が鳴った。
 夕立は横殴りで来て、十分で通り過ぎた。その間、ビニールの内側は太鼓の胴になり、私とメロンは同じ音の中にいた。雨が上がると、温室じゅうの緑が一段濃くなった気がした。気のせいだと思うが、確かめる術はない。
 夕立の翌日、自転車で直売所まで買い出しに行った。レジのおばさんは私の顔を見るなり「辰雄さんとこの」と言い、私が名乗る前に会計を終え、袋にトマトを二つ余分に入れた。断る隙も、礼を言い切る隙もなかった。
「今年のメロンは」とおばさんは言った。「出るの」
「一玉だけ」
「そう。一玉ね」
 おばさんは頷いて、それ以上聞かなかった。
 ある朝、実の表面の網目が、また少し増えていた。
「勝田さん、ネットって、どうしてできるんですか」
 水やりに来ていた勝田さんは、じょうろを置いて実を撫でた。
「実が育つのに、皮が追いつかんのよ。それで皮がひび割れる。割れたところを、実が自分でふさぐ。その痕がこれだ」
「痕、ですか」
「瘡蓋みたいなもんだな。きれいに割れて、きれいに治ったやつほど、網が細かい。それが上物として高く売れる」
 私はしばらく、青い実を見ていた。傷の痕が、そのまま値打ちになる果物。世の中にそんな仕組みがあるとは知らなかった。
「知らなかった」
「知らんでも食える」
 勝田さんはじょうろを提げて帰っていった。八十一歳の背中は、話の切り上げ方がうまい。
 夕方、母から電話があった。業者は月曜に来る、温室のパイプは買い取ってもらえるらしい、と事務的な報告が続き、最後に、そっちはどう、と聞かれた。
「順調。ネットが増えてる」
「ネットって、あんた仕事の話?」
「メロンの話」
 母は、ふうん、と言った。ふうん、には二十種類くらいの意味があるが、今のは「元気ならいい」の活用形だった。
 電話を切ってから、会社のメールを開いた。契約更新の面談日程を三つ挙げよ、という総務からの文面が、一週間前から受信箱の一番上にある。返信の下書きは書いてある。日程も三つ選んである。送信していないだけだ。
 九年目の契約か、それとも――の続きは、下書きのどこにも書いていない。書いていないものは、校閲のしようがない。
 温室の天井で、ビニールが風に鳴った。私はスマホを伏せて、じょうろに水を汲みに行った。絞ると言ったって、ゼロにするわけではないのだ。


 商店街の外れに、「ポン」という店がある。
 元は喫茶店で、今は雀荘。看板に雀荘とは書いておらず、ただ「ポン」とだけある。店内の壁には、喫茶店時代のメニュー札がまだ残っている。クリームソーダ三百五十円。誰も注文しないし、誰も剥がさない。値札だけが営業を続けている店を、私は初めて見た。
 四人目のメンバーが腰の手術で入院中だというので、私が座らされた。
 勝田さんは、卓ではカンちゃんと呼ばれていた。カンチャン待ちばかりで上がるからだという。他のメンバーは、床屋を息子に譲ったハクさんと、元郵便局長のナンさん。白と南。牌の名前が、卓に二枚も着いている。
「ドラさんはな」とハクさんが牌を混ぜながら言った。「雀荘では、ろん、って小さい声で言うんだ。蚊の鳴くような声で」
「温室では大声なのに」
「逆じゃろ普通、って何度も言うたがな」とナンさん。「勝負事で威張るな、芽には威張ってよし、っちゅう理屈らしい」
 理屈になっていない気がするが、祖父の理屈はだいたいそうだった。
「そういえば」とハクさんが牌を積みながら言った。「めろんちゃんの名前も、ドラさんがつけたんじゃったな」
「そうです」
「気に入っとらんのか、その顔は」
「三十四年、一度も気に入ったことがないです」
 三人は声を合わせて笑った。他人の不満を、ここまで気持ちよく笑ってもらえる場所を、私は他に知らない。
 半荘はゆっくり進んだ。老人たちは長考が多く、その間に商店街の噂話が挟まる。私はスマホの麻雀アプリで鍛えた打牌の速さを持て余し、この卓では考える時間も持ち点のうちらしいと悟った。
 南場に入ったあたりで、ハクさんが誰にともなく言った。
「温室、どうなるんかね」
 私は牌を持ったまま、少しの間、答えを探した。探しているうちに、ナンさんが「ポン」と言った。話は流れ、局は進んだ。
 私にも一度だけ、上がりの手が来た。よりによってカンチャン待ちで、ハクさんの捨てた八筒が、その隙間にぴたりと嵌まった。
「……ロン、です」
 声が、思ったより小さくなった。三人が顔を見合わせて笑った。
「ドラさんの孫じゃ」
 点数を数える段になって、私は思わず指を折った。校閲でも結局、最後にものを言うのは指と勘だ。老人たちの点数計算も同じだった。誰も暗算表など見ない。長年の指が、勝手に上がり分を弾き出す。
 半荘の結果は、勝田さんの一人勝ちだった。私は上がり一回のまま三着で、ハクさんが「初卓にしては上出来」と言い、ナンさんが「次は木曜」と言った。
 帰り道は夕暮れで、アーケードの切れ目から田んぼの匂いが流れ込んでいた。ポケットの中でスマホが一度震えたが、取り出さずに歩いた。水は、絞っている最中である。


 梅雨の中休みが終わって、雨になった。
 温室のビニールを、雨粒が絶え間なく叩く。中にいると、大きな楽器の内側に座っているようだった。私はパイプ椅子でゲラの最終丁を読み終え、鉛筆を置いた。東京の男女は、すれ違ったまま終わった。作家がそう書いたのだから、そういう恋なのだろう。校了。私にできるのは、二人のすれ違いに誤字がないことを保証するところまでだ。
 それから、日誌の最後の一冊を開いた。
 最後の頁の、最後の一行。
「五月×日 テンパイ。」
 メロンがあと少しで仕上がる、という意味だと思う。祖父が倒れたのは、その翌日だった。あと一枚。それきり、余白が続いている。
 最後に祖父と話したのは、四月の終わりの電話だった。用件は特になく、東京は花が終わった頃かとか、佃煮はまだ食えるのかとか、そんな話をして、切り際に一言だけ、「今年の配牌はいい」と言った。私は生返事をした。
 私はしばらくその余白を眺めてから、鉛筆を取った。校閲者は原稿に書き足してはならない。二十代の頃に叩き込まれた掟で、破ったことは一度もない。ただしこれは原稿ではなく日誌であり、私は校閲者ではなく孫である。
「六月×日 水を絞る。実、動じず。」
 翌日も書いた。
「六月×日 ゲラ校了。メロン未了。」
「六月×日 雨。天、長考に入る。」
 校了したゲラは、翌朝、簡易郵便局から速達で送った。窓口の青年はナンさんの後任の、そのまた後任くらいの年恰好で、宛先の出版社名を見て、本を作る会社ですか、と聞いた。作るというか、間違いを減らす側です、と答えると、青年は少し考えて、うちと同じですね、と言った。誤配を減らす側なので、と。局を出てから、あの返しは今日いちばんの上がり手だったな、と思った。
 書いてみると、一行に入るものは案外少ない。その少なさが、書くより先に手を軽くしてくれる。
 雨の上がった午後、勝田さんが来て、収穫の見極めを教えてくれた。
「実と蔓の境を見ろ。熟れてくると、そこに自分からひびが入る。離層いうてな。実のほうから、離れる支度を始めるんだ」
「自分から、ですか」
「もぐんじゃない。受け取るんだ」
 温室を出しなに、勝田さんは振り向いて、パイプの骨組みをぐるりと見上げた。何か言うかと思ったが、何も言わずに、じょうろを軒下へ戻して帰った。八十一歳の背中は、話を始めない技術も持っている。
 母からまた電話があった。日曜のうちに家の戸締まりを確かめておいて、という用件のあとで、母は少し黙り、それで、と言った。
「メロン、どうなの」
「あさって穫る」
「……おじいちゃんの、最後のやつだもんね」
「最後っていうか」私は言った。「最後の上がり」
「何それ」
「麻雀の話」
 母は、あんたも言うようになったわね、と笑って切った。何を言うようになったのかは、聞きそびれた。
 夜、布団の中で、返信の下書きをもう一度読んだ。三つ選んだ面談の日程は、どれも収穫より後の日付だった。そのことに初めて気がついて、少し笑い、送信ボタンを押した。押してから、スマホを枕元に伏せた。
 収穫の前の晩、寝る前に懐中電灯を持って温室へ行った。夜のメロンは、昼より大きく見える。光の輪の中に網目が浮かび、実はただ静かに、明日の側へ傾いていた。
 電灯を消して、しばらく暗闇に座っていた。目が慣れると、ビニールの向こうに星がひとつふたつ、透けて見えた。虫の音が遠くで重なり、近くでは実の重みで蔓がわずかに軋む音がする。祖父はこの音を、何百晩も一人で聞いてきたのだろう。夜のメロン畑は、思っていたよりずっと騒がしい。静かなのは私のほうだった。
 私は水をやらなかった。やらないことが世話である期間の、これが最後の夜だった。
 鞄に荷物を詰めた。ゲラは速達で東京へ送る。日誌十二冊は、まだ農具棚の上にある。持って帰るのか、ここへ置くのか、決めていない。ただ一つだけ決めたことがある。あの日誌には、もう鉛筆を入れない。「収穫」を「収獲」と書く癖も、行の乱れも、このまま残す。直さないことも、校閲のうちだ。鞄には、ちょうど十二冊分の隙間が空いているのだが、それとこれとは別の話である。


 その朝は、よく晴れた。
 戸を開けると、風がまっすぐ顔にきた。夜のうちに空気が入れ替わったような、青くて薄い風だった。梅雨の重い匂いはどこかへ片付けられて、空気だけ半歩先に夏へ踏み出していた。庭の紫陽花が、昨日までの湿った紫をやめて、朝日の中で少し乾いた色をしていた。
 朝食の前に、麦茶だけ飲んで畑へ出た。露がまだ畝の草に残っていて、サンダルの先が冷たい。
 温室に入ると、匂いが変わっていた。緑の匂いの底に、甘いものが一筋、確かに通っている。実と蔓の境には、細い環のようなひびが入っていた。約束どおり、支度は向こうで済んでいた。
 入口の黒板の「水 控」を、指の腹で消した。チョークの粉が、指に残った。
 軸をT字に残して、ナイフを入れる。
 両手に受けたメロンは、思ったよりずっと重かった。網目は端から端まで行き渡り、朝の光の中で、治った傷のすべてが銀色に光っていた。
「ロン!」
 思いのほか、大きな声が出た。天井のビニールがばたりと鳴って、外で勝田さんの声がした。
「上がったか」
「上がりました」
 外は、朝の風がまだ吹いていた。腕の中の一玉は、まだ蔓の水を覚えている重さをしていた。





いいなと思ったら応援しよう!