アンパンマンであるとはどのようなことか
コウモリの主観はわからない。他人の主観もわからない。
確実に認識できるのは、「自分の意識」だけである。
したがって、他者や外部世界は、
実在しているとしても、それを直接確証することはできず、
私の意識に現れた表象にすぎない。
そう考える立場が、独我論である。
では、今この文章を読んでいるあなたに、ひとつ問いを投げたい。
「アンパンマンである」とは、どのようなことだろうか。
アンパンマンは、どこから来たのか
では、いま一度「アンパンマン」を思い浮かべてほしい。
丸い顔、赤い鼻、困っている人に顔をちぎって与えるヒーロー。
この像は、あなたの主観の中に確かに現れている。
だが、ひとつ確認したい。
あなたは、その存在をどこで知ったのだろうか。
生まれた瞬間から、アンパンマンを知っていた人はいない。
誰もが、ある日、誰かからこう教えられたはずだ。
「これはアンパンマンだよ」
親かもしれない。テレビかもしれない。絵本かもしれない。
いずれにせよ、アンパンマンという概念は、あなたの内側から自然発生したものではない。
それは、他者を通して与えられた言葉だった。
「アンコマン」ではダメな理由
仮に、あなたが心の中でアンパンマンを「アンコマン」と呼ぶことはできる。
それ自体は自由だ。誰にも検閲されない。
しかし、その呼び方で他者に向かってこう言ったらどうなるだろう。
「アンコマンが好きだ」
ほとんどの人は理解できない。
説明を求められ、訂正され、最終的にはこう言われる。
「それはアンパンマンだよ」
ここで重要なのは、
あなたの主観的イメージ(クオリア)が問題にされていないという点だ。
問題にされているのは、
その言葉が共同体で使われているかどうかである。
アンパンマンとは、
「そう呼ばれてきたもの」であり、
「そう使われてきたもの」なのだ。
私的言語は成立しない
もし言語も完全に独我なものであるならば、
「アンコマン」でも何の問題もないはずだ。
しかし現実には、
正しい使い方、誤った使い方が存在する。
そして、その基準は、あなたの内側にはない。
言葉が意味をもつのは、
それが他者とのやりとりの中で
共有され、訂正され、使い分けられているからである。
ウィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」とは、
このような共同体における実践なのだ。
言語を使えているという事実
独我論は「確実に存在するのは自分の意識だけだ」と言う。
だが、あなたは今、
アンパンマンという言葉を、他者と共有可能な仕方で使っている。
あなたが、最初から共同体の中で
言葉を学び、修正され、理解されてきた証拠である。
クオリアが同一であるかどうかは、誰にも証明できないが
言語を使えているという事実そのものが、他者の存在を前提にしている。
したがって、
言語を使用している= 共同体に属している= 独我論は成立しない
というのが、論理的に導出できる結論である。
※反証反論、ぜひぜひお待ちしております!
※本記事はキャラクターを思想的・批評的文脈で言及するものであり、特定の作品や権利者との公式な関係を示すものではありません。
