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書くことの臨界点を科学する

なんだか難しいタイトルになってしまいましたが、
読んでいただけたら幸いです。

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク
部分と全体
「言葉についての討論」という章の話です。

ハイゼンベルクは、
量子力学の創始、特に行列力学の創始に対して
1932年ノーベル物理学賞を受賞してます。

量子力学を簡単に言うと

電子は常に波の中で揺れている、と言われます。
測定した瞬間に、ひとつの値をとる。

でもそれは、
その瞬間に初めて生まれたというより、
その関係の中で、ひとつの姿に定まった、という感じに近いです。

簡単にしすぎて怒られそうですが...

この章の中に、
言葉は、厳密には定義できない。
とあります。

どんな意味があって表現されているのか、
読む人、聴く人の感情、知識、タイミングで変わります。

じゃあ、無意味なのでしょうか?

もし本当に無意味なら、
「意味はない」という言葉も意味を持たないはずです。

それでもワタシたちは、
noteを書こうとする時に
何を書こうとしているかを知っている。

定義はできない。
しかし、分かっている。

ここに、言葉の臨界点があります。

量子力学では、観測される前の状態は確定していません。

ひとつではない。
重なっている。

しかし、存在していないわけではないです。

観測された瞬間に、
ひとつの姿をとる。

それは永遠の真理ではなくて、
その条件下で、いったん安定した姿。
完璧な状態は、原理的に存在しないです。

書くことも、きっと同じです。
完璧な記事なんて、たぶんないです。

どんな文章も、
読む人が変われば意味が変わる。
時間が変われば、色も変わる。

それでも原稿は、
投稿前から存在している。

まだ確定していないだけで、
そこにある。

投稿という観測によって、
ひとつの意味をとる。

しかしそれもまた、固定されない。

幸福も同じだと思います。

幸福を言葉で定義しようとすると、
そこから外れたものを“不幸”と呼びたくなってしまう。

成功か。
安定か。
充実か。

どれも少し違う。

無い人は不幸ですか?
「幸福はない」とは、言い切れない気がします。

意味は確定しない。
完璧も存在しない。

それでも、言葉も幸福も、
ないとは言えない。

言葉で固定しようとすると、
どこかがこぼれてしまう。

定義はできない。
でも、ある。

だからワタシは、
わからない部分を含んだまま語っていたい。

幸福を単純化せず、
矛盾を抱えたまま書いていきたい。

その臨界点の上に立ち続けることを、
ワタシはゆる幸福論と呼びたい。

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