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なにしろプロレス好きなもので(追悼・西村修)/2025年2月28日(金) 生活者になりたい54

大ピンチ図鑑につき、早めに起きて作業のち出勤。

行きの電車で本を開くと、向かいに座っている性別が読みとれない若者と隣のおっちゃん、さらに自分の隣のお兄さんまでそれぞれ太めのハードカバーを読んでおり、何のかはわからないけどラッキーデー。しばらくすると電車が混み始め、若者が席を譲り、我々の前に来たのでそこだけ読書サークルみたいになった。

朝から今日就任した新社長の訓示などがあり、無骨な人ながら精一杯語りかける様子に決意のほどが見てとれた。それから黙々と仕事をしていると、プロレスラーの西村修さんの逝去を知る。まだ53歳、息子さんは小学校入ったくらいのはずで、とても胸が詰まった。

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小学3年生時分のとある土曜日。おじいちゃん先生ばかりの塾に通っていた自分は、授業終わりについていたテレビに目が釘付けになった。新日本プロレス・藤波辰爾のドラゴン殺法である。

決まり手のドラゴンスープレックスが架けた人間橋の美しさと説得力。子ども心にも意味不明だったドラゴンリングイン。っていうか何がドラゴンなん? と思いながらも痺れ上がるカッコよさがあった。

筋骨隆々の身体から繰り出されるボウアンドアロー、コブラツイスト、キーロックといった繋ぎ技の練習を、布団相手に始めるのに時間はかからなかった(今でも結構うまい)。ちなみに対戦相手だった越中詩郎の「詩郎」という名前のシブさに、一時期は子どもができたら詩郎にしようと思っていたのはここだけの話だ。

次いで全日本プロレスにも手を出し、外国人レスラーをやっつけ、若手をひねり潰すジャンボ鶴田の規格外のスケール感に驚いた自分は、ジャンピングニーからのオー!を家で繰り出す少年に成長する。

新日派の友人たちを尻目に、ひとり敢然と全日派に鞍替えするとともに、大阪府立体育館に通っては選手のテレホンカードを買い集めた。「お気をつけください!」でブッチャーやシークに追いかけ回され、ハンセン入場時にブルロープで手を打たれて泣き笑いしたのも忘れがたい。そしてトイレでジャイアント馬場の隣になってサイズに唖然としたことも。

ついにブレーキの壊れたダンプカーとなった藤本少年は、夜中にテレビ大阪でやっていたアメリカンプロレスにも手を出してしまう。ショーマンシップに乗っ取り、あっという間にジョバー(やられ役)が負ける試合の様式美がとても好きだった。

近所のTSUTAYAに通っては、槇原敬之やブルーハーツのCDとともにレッスルマニアやロイヤルランブルのビデオを借りあさり、アメプロの激動の時代と、四天王プロレスの90年代をすっかり習熟したのであった。受験戦争の憂さ晴らしをしてくれた、MTVとプロレスに感謝。

ただ、危険技が飛び交うプロレスは90年代でおなかいっぱいになってしまった。いつしか地味な業師、受けの天才が好きになっていた自分は、「無我」を旗印に藤波と活動を共にしていた西村修の言動にも注目していた。(マレンコ兄弟やカンナム・エクスプレスなんかも好きだった)

26歳で大腸ガンに罹患し、インドに行き自然療法やヨガを取り入れ、それ以来「宇宙の秩序と中庸化」「陰陽のバランス」といった不可思議な説法を繰り返す彼。半ば確信犯、半ば本気の絶妙な存在感はどうにも宇宙的で、病魔を克服して、歯を食いしばりインディアンデスロックやコブラツイストを繰り出す姿からは伝わるものがあった。詳しくはWikipediaに譲るが、「大阪府立体育館に、ガンジス川を見た気分です」は当時のノートに書き留められ、未だに家に残っている。

パワーありきのラリアットプロレスに中指を立て、クラシックな技のみで試合を組み立てていたことや、政治の世界に打って出て食育に尽力するかと思えば、死の間際に電流爆破に挑もうとするなど、終生オルタナティブでパンクな存在だった西村修。

自分ももう若くない。でも病に倒れるわけにはいかない。3月から黒タイツを穿いて「無我」と書いたガウンを羽織った気持ちでやっていくぞオー。

最後に彼の語り継がれるべき名言をひとつ。

今をいかに生きるか。今日を生きることが明日になる。イエスタディはヒストリー。トゥモローはミステリー。今日はギフト。命がある限り、私は今日を精一杯生きる。
(2004年9月3日。川田利明との三冠戦後のコメント)


大阪万博をきっかけに水都大阪をなす川のあちこちで噴水ショーやプロジェクションマッピングが行われる。天満橋のそれは10分ほどあって船から見ると迫力があった。ドリカムの「大阪LOVER」はもうお腹いっぱいなんだけど

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