第2話:信仰を遠ざける人の、内なる風景。
信仰を持つことに、抵抗を示す人がいる。
何かを信じていると語ると、
「危ない」「重たい」「ちょっと怖い」と言われることがある。
どうしてだろう。
信じることは、そんなに“いけないこと”なのだろうか。
そう思っていた時期が、私にもある。
たとえば、過去に宗教を強く押しつけられた経験がある人は、
「信仰=支配されるもの」として心に傷を負っている。
あるいは、誰かを信じた結果、
裏切られたり、期待を踏みにじられたりした人は、
もう二度と「信じる」という行為そのものを
自分の人生から排除しようとする。
信じないことは、
自分を守るための知恵なのかもしれない。
それに、今の社会は、
「合理的であること」「依存しないこと」「自分の頭で考えること」を
過剰に美徳化している。
だから、何かにすがること、
自分では解決できないことに「祈る」ことは、
どこか“恥ずかしいこと”のように扱われてしまう。
弱く見られたくない。
正しくあろうとするほど、
人は「信じること」を手放していくのかもしれない。
でも、本当にそうだろうか。
信じるという行為は、
何もかも手放して依存することではない。
むしろ、自分の無力さを受け入れることであり、
「それでも、生きていこう」と思えるだけの
かすかな支えを心のどこかに持つことだ。
それは、ひとりでは持ちきれない痛みや問いを、
誰かと一緒に引き受けるような、
とても静かな営みだと思う。
信仰を否定する人の心の中にも、
実は、信じたかった思いや、
信じるという行為への憧れが
うずくまっているのかもしれない。
私たちはそれを、
「信じない」という選択の奥に見つけることもできる。
信じることも、信じないことも、
どちらも、心のかたちなのだと思う。
締めのことば
あなたが「信じていない」その奥にも、
小さな祈りが、ひっそりと眠っているかもしれません。
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