その「まあ、いっか」、冷たくなったんじゃなくて、心に"余白"が戻ってきた合図でした。
その「まあ、いっか」、冷たくなったんじゃなくて、心に"余白"が戻ってきた合図でした。
「あれ、今、僕、流せてる……?」
少し前から、そんな瞬間が、ふいに訪れるようになりました。
前なら、確実に引きずっていたはずの、ちょっとした注意。それを、なぜか「まあ、いっか」と受け流せている自分がいる。
——うれしい、はずなんです。
でも正直に言うと、ほんの少しだけ、こわくもなりました。
「流せるようになった」って、もしかして僕、冷たい人間になっちゃったのかな、って。
きっかけは、自分のしょうもないミスでした
つい先日のことです。
他部署の人から、注意されました。共有されていた資料をちゃんと理解しないまま、地雷みたいな質問をしてしまって、ちょっと強めに言われて。
昔の僕なら、もうアウトです。「やらかした」「あきれられたに違いない」って、その人の表情と声を、何日も心の中で再生し続けていたはずなんです。
でも今回は、なぜか。
「まあ、こういうこともあるよな」と、すっと流せてしまった。
昔の僕は、いつも頭の中が、周りの目でいっぱいでした。嫌われたくない、ちゃんとした人だと思われたい。——その一心だったから、たったひとつの注意が、何倍にも重くなっていたんですよね。
それが今回は、その重りが、ふっと軽かった。だからこそ、自分でも戸惑ったんです。
「流せる」のは、冷たくなったからじゃなかった
でも、しばらくして、気づきました。
これはたぶん、逆なんだ、って。
流せるのは、心が冷えたからじゃない。むしろ、心に、ほんの少しだけ"余白"が戻ってきたからなんです。
余白がないときって、ひとつ言われただけで、心がいっぱいになって、あふれてしまう。でも、ちょっとでも余白があると、「まあ、こんなもんだよな」って、いったん横に置いておける。
正直、その余白はまだ満タンには程遠いです。揺れる日も、まだまだあります。
それでも、あの一拍の隙間。あれがあるだけで、世界の見え方は、ずいぶん変わるんですよね。
その余白を、「ひとり言」と「ノート」がくれた
じゃあ、その余白って、どうやって戻ってきたのか。
僕がやってきたのは、ふたつだけです。
ひとつは、ひとり言。 夜、ひとりで歩きながら、頭の中のもやもやを、ぜんぶ声に出してみる。
もうひとつは、ノート。 口から出てきた言葉を、そのまま書き出してみる。
たったこれだけ。でも続けているうちに、だんだん「人にどう見られるか」より、「自分が納得できるか」で、物事を選べるようになっていきました。
少しずつ、自分の輪郭が、戻ってきた感じ。
だから今の「流せる」は、冷たさじゃなくて——たぶん、ちょっとだけ、息がしやすくなった、ということなんだと思います。
最後に、ひとつだけ。
最近のあなたに、「まあ、いっか」って、ふっと力を抜けた瞬間はありましたか。
それは、冷めたからですか。それとも、少しだけ、余白が戻ってきたからでしょうか。
——よかったら、コメントで聞かせてください。
ここで触れた「ひとり言」と「ノート」の習慣を、もっとくわしく一冊にまとめました。『「もう期待に応えない」と決めたら、息がしやすくなった』という本です。
必要なのは、ノートとペン、それから、ひとりごとを言える夜の時間くらい。あとは「自分を大切にしていい」っていう、小さな許可だけ。
読み終えるころには、たとえば——「なんで自分はこんなに疲れるんだろう」の答えが腑に落ちていたり。気の進まない誘いを、罪悪感なく断れていたり。誰かの不機嫌を、自分のせいだと背負い込まなくなっていたり。
そんな毎日に、そっと近づけたら。もし気になったら、のぞいてみてください。
