「私は不安だ」と思ったとき、アートマンのことを考える
「私は不安です」
診療の場で、ごく自然に聞く言葉です。
私自身も、日常では似たような言葉を使います。
「今日は疲れた」
「イライラしている」
「自信がない」
でも、ときどき思うのです。
本当に、“私”と“不安”は同じものなのでしょうか。
少しだけ言い方を変えてみます。
「私は不安です」
ではなく、
「私は、いま不安を感じています」
たったそれだけです。
でも後者には、不安を感じている「私」が残っています。
不安はそこにある。
けれど、不安が私のすべてではありません。
古代インドの思想には、「アートマン」という言葉があります。
簡単に訳すことのできない言葉ですが、「自己」「真我」などと表現されます。
思想史的にはアートマンはウパニシャッドやインド哲学で長く論じられてきた概念で、アーユルヴェーダだけに固有の言葉ではありません。アーユルヴェーダの古典にも、身体、心、感覚、意識を含めて人間を考える思想的な背景があります。
私が面白いと思うのは、
「変化しているもの」と、
「それを経験している私」
を考え分けてみる視点です。
身体は変わります。
気分も変わります。
仕事も変わります。
人間関係も変わります。
今日の自信は、明日にはなくなっているかもしれません。
逆に、絶望的に思えた夜の翌朝、ほんの少し気分が軽くなっていることもあります。
なのに私たちは、その瞬間に感じているものを、
「これが私だ」
と思ってしまいます。
仕事で失敗すると、
「私はダメな人間だ」
と思います。
眠れない日が続けば、
「私は弱くなった」
と思います。
不安が続けば、
「私は不安な人間だ」
と思います。
けれど、失敗は出来事です。
疲労は身体の状態です。
不安は感情です。
どれも大切なものですが、それだけで人間一人を説明することはできません。
アートマンという言葉を現代医学の用語に置き換えることはできません。
それでも、
「自分に起きていること」と「自分そのもの」を少し分けてみる
という発想には、心療内科の診療にも通じるものを感じます。
そして、もう一つの言葉が「ブラフマン」です。
ブラフマンは、インド哲学では世界や存在の根底にある究極的な実在として論じられてきました。
特にアドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、アートマンとブラフマンは究極的には別々ではない、と考えます。
ただし、インド哲学すべてがこの立場を取るわけではありません。
哲学として考えると難しい話です。
でも私は、この思想を日常に引き寄せるとき、
「自分は、思っているほど孤立した存在ではない」
というメッセージとして読むことがあります。
人は一人で生きているようで、一人では生きていません。
今日食べたものを作った人がいます。
電車を動かしている人がいます。
心配してくれる人がいます。
名前も知らない誰かが作った道路を歩きます。
植物が作った酸素を吸っています。
私たちは、自分一人の力だけで存在しているわけではありません。
不安が強くなると、世界はとても狭くなります。
頭の中が、
「どうしよう」
「失敗したらどうしよう」
「このままだったらどうしよう」
でいっぱいになります。
世界全体が、「私の問題」だけになってしまうのです。
そんなとき、
空を見る。
木を見る。
誰かと話す。
自分の呼吸に気づく。
「私は今、不安を感じている」と言葉にする。
それだけで、不安がゼロになるわけではありません。
でも、
不安しか存在しなかった世界に、もう一度ほかのものが戻ってくる
ことがあります。
現代のマインドフルネス研究でも、思考や感情への気づきや、自己中心的な視点を超える心理過程が研究されています。
また、マインドフルネス瞑想には不安や抑うつなどを小~中等度改善する可能性があります。
とはいえ、これはアートマンやブラフマンそのものに治療効果があることを意味しません。
思想を医学にしてはいけません。
医学を思想だけで置き換えてもいけません。
それでも、ときには医学だけでは答えの出ない問いがあります。
「病気になった私は、以前の私と同じなのか」
「仕事ができなくなった自分には価値がないのか」
「他人から評価されなければ、自分には意味がないのか」
そういう問いに出会ったとき、何千年も前の人たちもまた、
「私は何者なのか」
と考えていたことを思い出します。
「私は不安だ」
と思ったとき。
ほんの少しだけ、
「いま、私の中に不安があります」
と言い換えてみてください。
不安はあなたの一部かもしれません。
でも、あなたのすべてではありません。
アートマンやブラフマンの哲学的な意味、アーユルヴェーダとの正確な関係、心療内科の視点から見たマインドフルネスとの違いについては、ブログで参考文献とともに詳しく解説しています。
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