風は立ち、吹き、そして問いだけが残った
食器の洗い物をしながら、ふと聞こえてきた朝ドラのセリフ。
「おはようございます」。
今、放送されている「ばけばけ」。
時代は明治中期だ。
その一言に、なぜか小さな違和感が残った。
――この時代、人は本当にこう挨拶していただろうか。
考え始めると、止まらなくなった。
「おはよう」という言葉は、
いつから、どんな気分で使われるようになったのか。
そして今日は立春。
暦の上では、春が立つ日だ。
春が立つのか。
立つ春なのか。
立たせているのは、暦なのか。
調べていくうちに、古い言い回しに行き当たる。
春立ちぬ。
「春たてぬ」ではない。
「春たちぬ」――完了の助動詞「ぬ」。
人が春を呼び込むのではない。
気づいた時には、もう立ってしまっている。
そこに、自然への畏敬がある。
不思議なことに、
夏立ちぬ、秋立ちぬ、冬立ちぬ
と言えなくはないのに、使われるのはほとんど春だけだ。
待たれていた季節だからだろう。
世界が反転する瞬間だったからだろう。
ここで、ふと思い出す。
堀辰雄の『風立ちぬ』。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
1930年代、戦争へと向かう不穏な時代。
彼は戦争を直接描かなかった。
代わりに、病と愛と、生の有限性を書いた。
堀辰雄の「風」は、
抗えない時代の流れであり、運命そのものだった。
だが、私たちが「風立ちぬ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
もしかするとこちらかもしれない。
松田聖子さんの「風立ちぬ」。
「風立ちぬ 今は秋 今日から私は 心の旅人
さよなら さよなら 。。。。
一人で生きていけそうな ♪」
ここで吹く風は、重くない。
別れはあるけれど、主体は「私」だ。
風は運命ではなく、背中を押す演出になっている。
同じ言葉なのに、ずいぶん軽くなった。
そして、もうひとつ。
ボブ・ディランの「Blowin’ in the Wind」。
答えは、風の中にある。
誰の手にも渡らないまま、吹き続けている。
春は立ち、
風は立ち、
やがて風に吹かれるようになった。
言葉は残る。
でも、その言葉が背負う重さは、時代ごとに変わる。
朝の「おはようございます」も、きっと同じだ。
かつては「生き延びた」挨拶で、
今は「今日を始める」合図。
風は、今も吹いている。
ただ、答えの形が変わっただけだ。
