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第1回 諏訪を旅して夢想したこと    ~三つの軸でたどる、五千年の諏訪~

諏訪を歩いていると、不思議な感覚に包まれる。

縄文の土偶と黒曜石。諏訪大社の御柱。建御名方神の神話。前方後円墳。
そして古代東山道。

普通なら、それぞれ別々の時代の出来事として学ぶ。しかし、諏訪では、
それらが一本の線でつながっているように感じられるのである。

もちろん、これは歴史学の定説ではない。旅をしながら私が抱いた、
一つの「夢想」である。

私の頭の中には、三つの軸が浮かんだ。

一つ目は生活

縄文時代、人々は黒曜石を採掘し、山の恵みを受けながら暮らしていた。
和田峠や霧ヶ峰から産出する黒曜石は、日本各地へ運ばれていく。
当時の諏訪は、山が生活と交易の中心だったのではないか。

やがて弥生時代になると、人々は稲作を始める。
生活の重心は、山から諏訪湖周辺の平地へ移っていく。
さらに古墳時代には、農業を基盤とする社会が形成され、有力者が現れる。

狩猟採集から農耕へ。

諏訪の暮らしは、大きく姿を変えていった。

二つ目は信仰である。

縄文人は、山や岩や水に宿る力を畏れ、
生命の循環を祈っていたのではないか。

尖石周辺から出土した「縄文のビーナス」や「仮面の女神」は、
その世界観を今に伝えているように思える。

やがて時代が下ると、諏訪にはミシャクジの祭祀が伝わる。
そしてさらに建御名方神を主神とする諏訪信仰が成立する。

ここで面白いのは、古い信仰が消えてしまったようには見えないことだ。

建御名方神を祀りながらも、土地の神々への祭祀は残り、
御柱祭のような独特の祭礼も受け継がれてきた。

置き換わったのではなく、積み重なった。

そんな印象を受ける。

三つ目は政治と交通である。

縄文時代には黒曜石交易が広域交流を支えた。

古墳時代には前方後円墳が築かれ、
大和との交流を思わせる三彩なども出土している。

律令国家になると東山道が整備され、
諏訪は信濃の重要な交通の結節点となった。

近年注目される榎垣外遺跡も、
古代の政治的中心だった可能性が議論されている。

これらを眺めていると、諏訪は決して歴史の脇役ではなく、
それぞれの時代に応じた役割を果たし続けてきた地域だった、
のではないかと思えてくる。

そして、もう一つ気になることがある。

日本各地では、大和王権との激しい対立が語られる地域もある。
東北では蝦夷との長い戦いが続いた。

しかし諏訪では、神話に建御名方神と建御雷神の戦いは描かれるものの、
歴史を通して見ると、古い信仰と新しい信仰、大和文化と土地の文化が、
互いを完全には否定せずに共存してきたようにも見える。

もちろん、その裏には対立もあっただろう。

だが最終的には、「新しいものを受け入れながら、古いものも残す」
という諏訪らしい姿が形づくられたのではないだろうか。

だから私は、諏訪を歩くと、
単に縄文遺跡や神社を巡っている気持ちにはならない。

五千年という長い時間の中で、人々が暮らしを変え、信仰を育み、
政治の仕組みを築きながら、
それでも土地の記憶を失わずに受け継いできた。
その営みを、一歩ごとに踏みしめているような気持ちになるのである。

これは、あくまでも旅の途中で生まれた一つの夢想にすぎない。

しかし、だからこそ、また諏訪を訪ねたくなる。

次に歩くときには、この夢想が少しだけ歴史に近づくのか、
それとも新しい謎を運んできてくれるのか。

そんなことを考えながら、私は再び諏訪への道を思い描いている。

なお、旅人としての感覚で、
第2回 黒曜石が結んだ縄文ネットワーク
第3回 ミシャグジは縄文から続くのか
第4回 諏訪はなぜ大和と融和できたのか
第5回 榎垣外遺跡は「諏訪国」の中心だったのか
とシリーズにする予定。

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