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78歳、白山奥宮への道――楽しい登山ではなく、祈りの山旅だった

白山登山の記録をネットで読むと、「素晴らしい景色だった」、
「思ったより楽に登れた」、「花が美しかった」という記事が多い。

もちろん、それは本当のことだと思う。
しかし、私の白山は少し違った。

目的は登山そのものではなかった。
白山奥宮へ参拝し、御朱印をいただくこと。
それが今回の登山の目的だった。

私は70歳の時に浅間大社奥宮の礼拝を目的に富士山へ登った。

富士山山頂での御朱印

その時、「もうこれで大きな山は終わりかな」と思っていた。
ところが、その後、三大霊山という言葉が気になった。

富士山。
白山。
立山。

富士山には登った。
立山は長野側、富山側の両方から室堂まで訪れている。
そして残る白山。

「白山奥宮へ自分の足で行ってみたい」
その思いが、78歳になって背中を押した。

ただし、私は本格的な登山者ではない。
普段の運動といえば植物園を歩く程度。
登山のための十分なトレーニングを積んできたわけではない。

ネットで見る白山登山記とは、前提条件がかなり違っていたと思う。
砂防新道ルートの登りでは心肺的にはそれほど問題を感じなかった。
しかし、室堂に到着し、スパッツを脱ごうとした時、足のいたるところがつりそうになった。

水分補給には気を付けていた。
しかし、汗で失われた塩分などの電解質補給が不足していたのだと思う。
しばらく休むと症状は落ち着いた。

その時、「山では水だけでは足りないことがある」と実感した。
翌朝、白山奥宮へ向かった。
そこに立ち、御朱印をいただいた時、
ようやく「ここまで来た」という実感が湧いた。

この御朱印は、単なる記念品ではない。

白山奥宮の御朱印

長い登り。
疲れた足。
途中で感じた不安。
それらを含めた、自分自身の登頂の証だった。

そして苦しかったのは、むしろ下山だった。

特に観光新道。

ネットの記事では「展望が素晴らしい道」と紹介されることが多い。
確かに景色は素晴らしかった。
しかし、私にとっては、景色を楽しむ余裕よりも、
「次の一歩をどこに置くか」
「足を踏み外さないか」
「転倒しないか」

という緊張感のほうが大きかった。
ガレ場では、一歩一歩が慎重になる。
登りは体力との勝負。
下りは脚力と判断力との勝負。

特に、
膝を曲げた状態から体重を支えながら足を伸ばす力が限界に近づいた。

下山で大腿四頭筋が悲鳴を上げる、という意味を身をもって理解した。
だから、私の白山登山は「楽しかった登山記」とは少し違う。

でも、だからこそ価値があったと思う。
78歳で、登山経験も十分ではない自分が、白山という霊山に向き合った。

速く登ることでもない。
若い人と同じように歩くことでもない。
自分の足で、自分のペースで、目的地にたどり着く。

それが今回の白山だった。
もう大きな登山はこれで終わりかもしれない。

しかし、富士山、白山という二つの霊山を自分の足で訪れることができた。

これからは、山頂を目指す旅ではなく、山がなぜ信仰の対象になったのか、そこに暮らした人々は何を感じてきたのか。

そんなことを考えながら、里の神社や遺跡を巡る旅を楽しみたい。
白山奥宮の御朱印は、その新しい旅への区切りでもある。

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