第4回 諏訪は「周辺」だったのか――律令国家と諏訪
第3回では、諏訪に残る「信仰」について考えてみました。
「ミシャクジ」とは何だったのか。縄文以来の自然観や生命観は、
後世の諏訪の信仰に何らかの形で残ったのだろうか。
もちろん、まだ答えはありません。今回は、もう一つの大きな問題です。
「政治」です。
諏訪と、中央に成立していった大和の国家は、
どのような関係にあったのでしょうか。
建御名方神は、なぜ諏訪へ来たのか
諏訪を調べていると、どうしても『古事記』の国譲り神話に行き着きます。大国主神に国譲りを迫った天照大御神側に対して、
最後まで抵抗したのが建御名方神。
そして建御名方神は敗れ、諏訪へ逃れてきます。
諏訪に追い詰められた建御名方神は、
「この地から出ない」
という趣旨の誓いを立てる。
これだけを読むと、
諏訪は大和側に対抗する勢力の土地だったようにも思えます。
しかし、ここで私は一つの疑問を持ちました。
そもそも、建御名方神が諏訪へ逃げ込んだ頃、
諏訪は大和にとってどのような場所だったのでしょうか。
実は、それを直接説明してくれる史料は、ほとんどありません。
「大和と対立した土地」だったのだろうか
もし諏訪が大和に対抗する強力な勢力の本拠地だったとすれば、
そこへ敗れた建御名方神が逃げ込むという神話は、
それなりに理解できます。しかし、逆に考えることもできます。
建御名方神が諏訪に来た時点で、
諏訪が大和と激しく対立する土地だったという証拠はあるのでしょうか。
私はまだ見つけられていません。
むしろ、後世の諏訪を見ていると、少し違った姿が浮かんできます。
諏訪に現れる「中央とのつながり」
諏訪地域では、
古墳文化の受容は畿内などより遅かったと考えられています。
しかし、やがて諏訪湖周辺には古墳が築かれ、
特に6世紀になると古墳群が形成されていきます。
前方後円墳もあります。馬具を副葬した古墳もあります。
轡、杏葉、雲珠、鐙、辻金具……。
そこには、馬を背景に力を持った有力者の存在が想像されます。
これは少なくとも、
古代の諏訪が外部の文化から孤立していたわけではない
ことを示しているように思います。
ただし、
古墳がある
↓すなわち、
大和政権が諏訪を直接支配していた。
ということにはなりません。
そこは慎重に考えなければなりません。
東山道は諏訪を通らない
律令国家が整備した東山道を調べてみると、
もう一つ気になることがあります。
信濃国は東山道の一国として国家に組み込まれました。
東山道は中央と信濃、さらに東国・東北方面を結ぶ重要な幹線道路でした。ところが、地図を眺めてみると、
東山道の本道は諏訪を通っていません。

信濃国府も、当初は上田に置かれ、その後、松本へ移ったとされています。
国家の政治・行政の中心軸から見ると、諏訪は少し外れた場所にあります。

最初は、これを見て、
「やはり諏訪は、信濃の中心から外れた地域だったのではないか」
と思いました。
ところが、調べていくと、どうもそれだけではないようです。
諏訪から上田へ――和田峠という道
ここで、私は長野県考古学会員の小平さんに電話でお話を伺う機会がありました。
そこで非常に興味深いお話を聞きました。
小平さんは、
「信濃国府が上田から松本へ移されるまでの時期、
諏訪から上田へ向かう人の移動があったと考えており、
そのルートとして和田峠を想定されている。」
とのことでした。
つまり、
諏訪
↓
和田峠
↓
佐久方面
↓
上田
という流れです。
これは、私が地図を眺めながら考えていたこととは、
少し違った意味を持ってきます。
国家の道路と、人が歩く道は同じではない
ここが面白いところです。
律令国家が整備した東山道の本道は、諏訪を通らない。
しかし、
諏訪と上田の間には、人の移動があった可能性がある。
諏訪は、国家の幹線道路から外れていた。
しかし、それは、「交通から外れていた」ことを意味しません。
「諏訪はデッドエンド」ではなかった?
ここで、少し考え方を変える必要がありそうです。
諏訪盆地は山に囲まれています。現在の地図を見れば、
甲府にも松本にも、佐久・上田方面にも道があります。
しかし古代の交通を考える場合、
現代の道路をそのまま当てはめることはできません。
それでも、諏訪から東へ向かうなら、
和田峠を越えて佐久、さらに上田へ
というルートは、地形的にも理解しやすい。
そして、ここには縄文時代以来の歴史があります。
縄文の道と律令国家
和田峠周辺は、黒曜石の産地として知られています。
縄文時代、人々はこの黒曜石を求め、あるいは運ぶために、
山を越え、広い範囲を移動していました。
つまり、
縄文時代
黒曜石
↓
山を越える人々
↓
諏訪・佐久・関東方面
という広域的なネットワークが存在していた。
もちろん、縄文時代の道と律令時代の道を同一視することはできません。
しかし、
「山だから交通できない」
とは限らない。
むしろ、山を生活空間としていた人々にとって、峠は重要な交通路だった可能性があります。
国府が上田から松本へ移る
ここで、もう一つ気になることがあります。
信濃の政治的中心が、上田から松本へ移っていくことです。
もし小平さんの見方のように、国府が上田にあった時期に、
諏訪―和田峠―上田
という人の移動があったのだとすれば、
諏訪は、国家の幹線道路の上にはなくても、
信濃国の政治的中心であった上田とつながっていたことになります。
そして国府が松本へ移った後は、
諏訪―塩尻―松本
という方向の意味が、次第に変わっていったのかもしれません。
ここはまだ私自身の推測です。
諏訪は「周辺」だったのか
ここまで考えてくると、最初の問いに戻ります。
諏訪は、律令国家の中心だったのか。
おそらく、そうではありません。
では、周辺だったのか。
これも、単純には言えない。
国家の公式な幹線からは外れている。
けれど、
諏訪―和田峠―佐久―上田
という人の移動があり、
諏訪は信濃の政治的中心とつながっていた可能性がある。
つまり、
国家の中心軸からは少し外れている。
しかし、決して孤立してはいない。
そんな場所だったのではないでしょうか。
では、大和との関係は?
古墳文化も受け入れた。
馬の文化も発展した。
東国との交通もあった。
そして律令国家の「信濃国」の中にも組み込まれていく。
一方で、諏訪独自の信仰は残った。
これを、「戦った」あるいは「完全に融和した」
という二つだけで説明するのは難しいように思います。
もしかすると、
中央の国家に組み込まれながらも、地域としての独自性を保っていた。
それが古代諏訪の姿だったのかもしれません。
もちろん、これもまだ私の夢想です。
そして、10世紀へ
ここまで調べて、さらに気になることが出てきました。
諏訪や上伊那の古代集落を調べていると、
10世紀に大きな変化が起きているように見えるのです。

集落が消えたように見える。人々は、どこへ行ったのか。
これは、単に「諏訪と大和の政治関係」を考えるだけでは解けない問題かもしれません。
そこで次回は、
「10世紀、諏訪と伊那で何が起きたのか」
を考えてみたいと思います。
タイトルについて
当初、私は第4回のタイトルを
「諏訪はなぜ大和と融和できたのか」と設定していました。
しかし、調べれば調べるほど、
その問いが正しいのかわからなくなってきました。
諏訪は中央から遠かった。しかし、孤立していたわけではない。
「周辺」とは、
いったい何を意味するのでしょうか?
自問自答です。
