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【小説】飽和

noteでBL 第21弾 参加作品/ジャンル:現代・人間ドラマ

「ぼく、明日から学校来れないんだ」
 砂場の砂をいじりながら廉は言う。
「え?」
「来れなくなっちゃった。家のお手伝いをしなきゃいけなくて」
 修一郎は「なんで」と聞かなかった。その時点で、修一郎は廉が何を言っているのか理解していた。
 修一郎には、廉にまつわる奇妙な噂がいくつもしっかり届いていた。修一郎は廉と唯一の「ともだち」だったから、おせっかいなクラスメイトや保護者たちが、丁寧にその噂話を修一郎のもとにお届けしてくれていたのだ。
「そうかよ」
 修一郎は言った。
「好きにしろ」
 修一郎はそう言って、ちらりと廉の様子を伺った。廉はにこにこと笑って、何を考えているのか相変わらずよくわからない。
「残念」
「何が?」
「だって、もう会えないから。ちょっとは寂しがってくれるかなって」
「え?」
 予想外の言葉に修一郎は眉間に皺を寄せた。
「なんで会えないんだよ。最近建ったあそこに住むんだろ。近いじゃん。会いにいくよ」

       *

 江藤修一郎はいつも緊張している。その建物の異様なまでの白さや、奇妙な迫力を感じる装飾、そしてそこに住まう人たちの纏う雰囲気に緊張している。その緊張感は、年を経るごとに強くなっていくのを理解していた。なぜだろう、最初ここを訪れた小学生のときには、そんなことは少しも感じていなかったというのに。
 だから修一郎は手にぶらさけたコンビニの袋を強く握りしめて、自分がこの世界と繋がっていることを確かめる。その中には工場で作られたおにぎりや安いスナック菓子が入っており、それが確かに彼を勇気づける。
 ここに来るのは一ヶ月振りだった。ふとそれに気付き、彼は今日入っていた友人とのフットサルの予定を急遽キャンセルしてここに向かったのだ。そこまで間隔が空いていたとは思いもよらなかった。気付かないうちに、足を遠ざけていたのかもしれない。
 門を潜って中に入ると、一人の男性がいた。彼は乳白色の服に身を包んで、何か掃除をしている様子だった。男性は修一郎に気がつくと、にっこりと微笑んで、どうぞ、というように手で中を示す。恭しい扱いに、普段そんなものを受けることはない修一郎はますます複雑な心境だった。
 広いエントランス、それから草木の茂る広場を抜け、奥の建物に向かう。礼祈堂と呼ばれるその建物は、ぴったりと扉が閉じられて、まるで修一郎を拒絶しているかのようだ。それでも修一郎は、ノックもせずにそのドアに手をかける。ノックにあまり意味がないことを、修一郎は知っていた。
 強く引き、その重い扉を開けた。
 広い空間、大きな臙脂色のラグが敷かれ、部屋の中は開放されたガラスのない窓穴からの採光でぼんやりと明るかった。そこに、一人じっと座っている青年。
 篠原廉がそこにいた。
 廉は後ろ姿で、形の良い後頭部を黒い髪が覆っている。彼は俯いて、つむじが少し上にあがっている。
 修一郎は黙って、それを見つめた。握りしめたコンビニの袋がかさりと音を立てたけれど、その青年は気づくこともなく、ただ静かに座っている。窓から注ぐ光に空気中の塵が照らされて、きらきらと輝いている。
 修一郎は幼馴染の姿を見つめながら、彼は何を祈っているのだろうと思った。彼は一日のほとんどをここで過ごし、彼自身ではない誰かのために祈りを捧げている。
 彼の姿を見ていると、幼い頃には重なっていたはずの心が、徐々にズレてしまっていて、今はもうほとんど重なっていない、そんな気がしてくる。
 廉が祈りを捧げる壁には、何かの絵画が掲げられている。それは確か、小学生だった頃に廉が描いたものだ。
 燃え盛るような赤、光の黄色、渦巻くようなそれらのうねり。
 彼は何かに取り憑かれたように筆を採り、三日ほど眠りもせずにそれを描き上げた。それをこの施設の人間はありがたがって祭り上げ、聖なるものとして掲げている。
 確かに廉からあの絵を見せられた当初(修一郎は完成したあの絵を見た最初の人間だった)、そこに何かの凄みみたいなものを修一郎は感じた。そこには普通の小学生の絵にはない何かがあったかもしれなかった。だけれど、今あそこに仰々しく額縁に収まった絵は、もうその凄みを失い、ただの子供じみた落書きにしか見えなかった。
 廉が、ようやく頭をあげた。
「廉」
 修一郎が呼びかけると、蓮は振り返って修一郎を見た。
「ああ、修ちゃん。久しぶり」
 廉は嬉しそうに表情を綻ばせた。そんな廉の顔に、修一郎は色濃い疲労を見て取って、一種の苛立ちを覚えた。だから彼は歩き出し、わざとその絵と廉の間に立った。その絵を、廉の視線から隠すために。そして彼の視界からそれを消し去って、コンビニの袋を軽く持ち上げる。
「腹減ってるだろ、飯食おうぜ」
 修一郎はビニール袋から割引になっていたおにぎりを取り出して廉の元へ放った。廉はそれを両手で受け取って、もぞもぞと慣れていない手つきで封を開ける。当たり前にここは食事などをするべき場所ではなかったはずだが、この施設の伝師である廉とその尊き友人であれば、それくらいの無法は許されるだろう。
 修一郎は廉の正面に座って、自分は焼きそばパンの袋を開けた。さすがにポテトチップスを食べるのは気が引かれたのだ。
 修一郎はおにぎりを食べる廉を見た。廉は修一郎と同じ年齢のはずなのに、その動きはまるで小学生みたいに見えた。廉が開けた封の隙間から海苔が落ちて、彼の着ている白い服に落ちた。知ったことかと修一郎は思った。廉はそれを食べ、
「おいしいね」
 と嬉しそうに言う。
「粒、ついてる」
 修一郎はそう言って、廉の口元に手を伸ばした。廉はそれを拒絶することもなく、されるがままに修一郎に口角を拭わせる。
 修一郎は指先についた白米をしばらくじっと見つめ、それからそれを指先で捏ね回した。それはあっという間に黒くて汚い何かになった。
 意を決して修一郎は言う。
「俺さ、大学行くことにしたよ」
 一年遅れだけど、と付け足す。ちらと視線をあげると、廉はもごもごとおにぎりを食べていて何も言わない。
「なんとか言えよ」
「いいんじゃない」
 口元のご飯を飲み込んで廉は言った。廉は近くに置いてあったガラスのコップを手に取って、
「それがいいよ」
 そう言いながら中の水を飲み干した。
 その当たり前のような口調に、修一郎の語気が強くなる。
「そんな簡単に言うな」
「怒ったね」
 言われて、修一郎は自分の振る舞いを理解する。だけどそれを認めることができず、一言、
「うるせえよ」
 とだけ付け足した。それから、
「――だから、もうあんま来れない」
 修一郎はそう言っても、廉の顔を見ることができなかった。廉がどんな顔をしているのか知りたくなかった。期待している表情を、きっとしていない自覚があったのだろう。
「そっかぁ」
 コップのふちに指を這わせている廉にそう言われて、どうしてだよ、と修一郎は思った。お前はこんなところにいて、閉じ込められて誰のためだかわからない何かに祈って、だけど誰もお前に本当に感謝なんてしていないんだ。
 修一郎は顔を上げた。礼祈堂と呼ばれるその場所は、綺麗に塗り固められた壁、そして廉の描いた絵。奇妙に澄んだ空気はあるけれど、実際には地元の土建屋が建てた安い代物でしかなくて、ありがたみなんて毛ほどもないものだと修一郎は思っていた。
 それなのに、こいつはここに縛られている。
 ――こいつをここから救い出したい。
 そう、思っているのに。
 修一郎は、ここに集まる人たちが言う廉の『力』を信じていなかった。そんなものが、廉にあるとは思っていなかった。見たことも感じたこともない。廉は幼稚園でも小学校でもただ気の弱い同級生で、それでしかなかったはずだった。
 そしてそれがここに関係のない色んな人にいかさまだと言われていることも知っている。
 修一郎は思っている。
 ――こいつは何もできないんだ。できるわけがない。

 修一郎の記憶に残っているのは、小学校の低学年、いつも一人で遊んでいる廉の姿だ。廉はかわいらしい見た目をして、実際に愛嬌だってあったのに、なぜか周囲に人がいないということが多かった。いじめられているとかそういう物騒な話でもないし、別にすごくエキセントリックな言動をしていたというわけでもない。
「あいつって、なんか近寄りがたかったよ」
 二人の同級生だった橋本は振り返る。
「あとあとそういうことになって、なんか納得したっつーか、答え合わせ? みたいな感じ。別に何か変だったとかじゃないんだけど」
 そう言われても、修一郎にはそれが思い込みだとしか思えない。別にあいつはずっと何も変じゃない、特別じゃない、普通の、ただの一人の同級生だ。
 だから廉が学校に来なくなって、――つまり施設から出てこなくなっても、修一郎は交流をやめる気はなかった。でも、廉とそれなりに仲の良かった同級生たちは、ぱったり廉の話をしなくなった。当たり前かもしれない、いきなり何か特別な『力』を持っていると言われ、急に建設された施設にこもった同級生のことなど、忘れてしまいたいに決まっている。
 だからその状況でなお廉の元に通い続けた修一郎は、それが半ば意地になっているだけだろうということには、修一郎本人も気づいていた。それはきっと、廉自身に向けた感情とは無関係な、ただのプライドみたいなものに過ぎない。あるいは、急にぬいぐるみを奪われた逆恨みか。
 だから修一郎は、それ以外の自分を動かす強い衝動――廉への感情には気づいていなかった。自分の中にそういうものがあるだなんて、思ってもいなかった。
 少し前に、修一郎は警察に勤めている兄に「もうあそこには行くな」と言われた。それが、ここ最近足が遠ざかっていた理由の一つだった。
 修一郎はそれを言われて、なんでそんなことを言うんだと兄には訊けなかった。今更そんなことを言い出すのには、何か理由があるに違いなかった。だが寡黙な兄にそれを尋ねてもただ首を振るだけだっただろうし、何よりも「それ以上訊くな、言う通りにしろ」というただならぬ気配を感じた。
 そして外にいるから聞こえてくる、団体についてのよからぬ噂。
 人が集まれば、さまざまな思惑が集まる。街の外れにあるこの施設に対し、周囲の人がどういう噂を立てているかも知っている。ここの人たちが何か買い物などで街に来た時に、人々が向ける遠慮のない視線も知っている。
 誰かが何かをしようとしているのかもしれない。近い将来に何かが起きるのかもしれない。この施設を、この団体を巡って、大きな何かが起きるのかもしれない。
 そしてそれを渦中にいる廉はきっと知らない。でも、何かあったとき、一番に犠牲になるのは廉なのだろう。
 何にせよ、廉はこの団体の『顔』なのだ。
 ――だとして、自分にできることなんて何もない。
 そう修一郎は思っていた。
 修一郎は、だからこそ今日ここに来た。ちょうど、自分が大学進学を決意したのもあった。ここに来るのは本当に最後になるだろうと修一郎は漠然と思っていた。
「なあ、廉――」
 それを何とかうまく伝えようとして廉を見ると、彼はじっと自分の絵を静かに見つめていた。その目を見て、修一郎は廉が本当はすべてを知っているのかもしれないと思った。ここで起きていること、ここにまつわる噂、修一郎自身の考えていること、思っていること――それをすべて、本当は知っているのかもしれない。
 言葉を失って修一郎が黙っていると、
「ちょっと、外に出ようよ」
 廉はそう言って立ち上がる。修一郎は急にはっとした気持ちで廉を見た。廉はいつものようににこやかに修一郎を見つめている。
「……そうだな」
 修一郎はそう言って立ち上がり、二人はそのまま建物を出た。
 とはいえ、廉はこの施設の外に出ることを許されていない。だから、二人が行けるのは施設の中の広場くらいだった。たまたまそこには誰もいなくて、修一郎と廉は二人きりでその場を散歩した。
 小さな広場だったから、あっという間に一周してしまう。そのまま、二周・三周と中を回った。途中、廉が立ち止まって門から外を見つめていた。その目の中の輝きを見て修一郎は、やはり廉も外に出たいのではないかと思った。
 こんなところにいたいわけがない。
 あんな風に生きていきたいわけがない。
 だから修一郎は歩きながら話して聞かせた。最近自分がしているバイトの話、今世間で流行っているスイーツの話、東京に新しくできた高いビルの話。それがとても魅力的に思えるように、甘い砂糖をいっぱいにまぶして、彼はそれを廉に話した。廉はそれを楽しそうに聞いていたが、うんうんと頷くばかりで、修一郎の思うような反応は返ってこなかった。
 ――いいなあ、僕も行きたいよ。
 ――修ちゃんと一緒に行きたい。
 廉は、そう言ってくれない。
 安易に彼を連れ出したいと言えるほど、事態は簡単なものではなくなっていることを、修一郎はよくわかっていた。それに伴って何が自分に起きるのかを修一郎は理解していたし、だからこそ、自分から廉を誘うことができなかった。
 やがて話す話題もなくなって、廉は礼祈堂に戻ると言った。修一郎はただ頷いて、二人でそこへと歩いていく。
 中に入って、誰に言われるでもなく置いていた荷物を修一郎は持った。ごく自然に、別れの時間になっていた。
 それでも修一郎は考えていた。
 大学へ行く。だから、もう勉強を始めないといけない。本当にそうするなら、それが正しいことなら、もう自分はここには来られない。
 切り捨てなければならない日が来ているんだ、と思う。それが今必要なことで、そうすることで俺は大人になっていくんだろうと修一郎は思った。
 ――大人になる?
 ――じゃあ、廉はどうなる? ここに置いていかれた廉はどうなる?
 焦燥みたいなものが一気に膨らんで、何かの決断を促す。けれど自分の中の、『だとしてももう俺には何もできない』という諦めに抗えず、修一郎は扉へと向かって歩いていく。修一郎の中の諦めの心が育っていく。このまま終わりになるんだろうと思えてくる。
 終わりだ。
 これで終わりだ。
「じゃあ、な」
 修一郎は言った。きっとこれが、最後の言葉になるだろうと思って。そして廉は言った。
「また来てね」
 言われて、返事もできず修一郎は歩き出す。廉がその細い手で重たい扉を開け、修一郎は外へ出る。外は夕焼けが深まって、ほとんど夜になっていた。涼しい風が修一郎の頬を撫でて、彼は今の言葉を頭の中で繰り返した。
 ――また来てね。
 ――『また』。
 もう、そんなものはないのに。
 気がつけば涙が溢れそうになって、滲んだ視界で修一郎は自分の気持ちを理解した。溢れ出しそうな涙を抑えることもなく、修一郎は振り返った。廉はドアに手をかけて閉め始めていて、修一郎はそのドアを手で強く押さえ、それから廉の手を掴んだ。
「待てよ」
 そう言って修一郎は思う。
 ――やっぱり俺は、こいつを諦められない。
 そう思ったけれど、修一郎の手にはうまく力が入らない。
 彼は思った――本当に俺は、これからこれを抱え切れるのか? 俺だけで、俺だけでこの先戦っていけるのか?
 修一郎の手は、静かにぶるぶると震えていた。それを見た廉は言う。
「修ちゃん、入って」
 いつになく強い口調だった。その口調に驚いて修一郎が顔を上げると、廉があの絵を背景に立っていた。修一郎はその絵を、廉の顔越しに見た。
 あの、真っ赤な絵。それを背負った、廉の顔。
 ――あれは、あんな絵だったか?
 あんなに、何か恐ろしい絵だったか?
 奇妙な感情に囚われている修一郎に、
「修ちゃん」
 廉が言う。
「な、何」
「修ちゃんは信じていないでしょう?」
「何を」
「僕に力があるってこと」
「信じてない」
「即答だ」
 むしろ廉は嬉しそうだった。
「修ちゃん。ずっとそういてね。ずっと僕の力なんて信じたり、僕のこと特別視したりしないで」
「するわけない」
 廉は声をあげて笑った。
「そうだよ、この世界で何が起きても、それは僕の力なんかじゃない。誰かの病気が急に治っても、どこかの株価がいきなりあがっても、誰かがとんでもなく不幸になっても、それは僕の力なんかじゃない」
 修一郎にはそれは当たり前のことだった。当たり前のように当たり前のことを言う廉を見て、修一郎は思わず彼を抱きしめた。
 腕の中に、細く暖かな廉の体温を感じて、一人じゃないんだと修一郎は思う。大丈夫だ、俺は一人じゃない。こいつが一緒だ。
 修一郎はやはり、廉の力なんて信じていなかった。信じていないから、一緒にいようと思ったのだ。
「廉、――ここを出るぞ」
 ――一緒に出て行こう。
 そう言った。
 廉はとても嬉しそうに笑って、
「本当に大丈夫?」
 そう言った。それから子供のように、
「あふれちゃうかもしれない」
 と言った。
「何が?」
「なんだろう、何かが」
 廉は修一郎の背中に手を伸ばす。背中に手を添えたけれど、震える手はまだ修一郎を抱きしめない。
「いいじゃん、あふれちゃえば」
 修一郎は思った。何かがあふれてしまうのだとすれば、俺の中のものはもうあふれてしまっているのだ。今更、絶対に元に戻せないくらいに。
「大変なことになるかもよ?」
「いいんじゃない、なっちゃえば」
 修一郎は廉の後頭部、黒い髪の毛に指を差し込んで言う。
「最高だ、やっぱり、修ちゃんは最高。大好き」
 言って、廉も秀一郎を強く抱きしめる。

       *

 旅立つ準備を整えながら廉は言った。
 ――修ちゃんは勘違いしてるんだ。
 ――別に僕は、誰かに強制されてここにいるんじゃないんだよ。
 ――僕は自分で選んでここにいる。
 ――だってじゃないと、大変なことになっちゃうからね。
 ――でも、僕は救いじゃない。
 ――誰のことも救ってあげるつもりなんて、本当はないんだ。
「そうかよ」
「やっぱり全然信じてない」
 廉は笑った。修一郎もそれを見て笑う。
「信じてほしいのか?」
「全然」
 修一郎はそれを聞いて楽しそうに笑った。話しているうちに準備は終わった。とはいえ、廉にはほとんど私物もない。ただ、目立つ服を着替えなければならなかった。修一郎はフットサルの予定をキャンセルしてここに来ていたので、ジャージを持っていた。廉はそれに着替える。自分の、ぶかぶかのジャージを来た廉に『力』があるだなんて、やっぱり修一郎には思えなかった。
 ドアを開け、外の様子を伺う。すでに夜になって、もちろん広場には誰もいない。だけれど、入り口を誰かが見張っていないだろうか。どうにか他に逃げ出す手段はないだろうか。考えていると、廉が室内に残っていた。
「どうした? 行こう」
「――うん」
 言いながら、廉は室内をじっと見返している。
 名残惜しいのだろう、そう思って修一郎は先に外へと出た。
 廉はじっと、部屋の隅に置かれたコップを見つめている。
 乾いていたそのコップに、まるで汗をかいたように雫が浮かんで、そのうちにとくとくと水が溜まり始めた。それは少しずつ水嵩を増し、コップのふちまで水面がたどり着くと、表面張力に耐えきれずにつぷんとあふれた。あふれ出る水が、部屋の隅から室内を濡らしていく。
 廉はそれを見届けると、振り返って扉に向き直り、修一郎の待つ外へ出て、歩き始めていた彼の背中を追いかけた。

(終)



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