鉛筆とナイフ
ふと、机の上に転がっている鉛筆に目が止まった。使わずに放置したまま、マグカップのペン立てから顔を出しているものを取り出したのだ。
もう随分と長らく、シャーペンを使っている。鉛筆を手に取ることは、いつの間にか少なくなっていた。
小学生の頃は、まだシャーペンは少し特別なもので、持っているやつがいると、どこか羨ましく見えた記憶がある。
中学生になると、安価なものが文房具屋に並ぶようになった。100円くらいで買える、鉛筆に似た細い軸のもの。0.5ミリが普通だったが、0.7ミリを使っているやつもいた。
あくまで記憶の話だけれど、そんな時代だったと思う。
それでも、日常にあったのはやっぱり鉛筆だった。削る、という行為が、そこにはあった。物心ついた頃には、すでに鉛筆削りは家にあった。手動のものと、電動のもの。
けれど、それとは別に、ナイフで削るやり方もあった。
うまくできなかった。
図工の時間にやった記憶がある。カッターナイフだったと思うが、とにかく刃物で削るということ自体が難しかった。
思うように刃が入らない。
形が揃わない。
芯が折れる。
ただ、うまくやる人がいた。
丸い鉛筆でも、六角の鉛筆でも、
迷いなく刃を入れて、きれいな面を作っていく。
親父は、それがうまかった。
削り上がった先端は、ただ尖っているだけじゃない。子供ながらわかるくらいに書き味は良かった。
仕上げにトップの部分を平らに削って、小さく私の名前を書いてくれた。
短くなればキャップをつけて、また使った。あれは、ただの道具の扱い方ではなかったように思う。同じ鉛筆なのに、仕上がりがまったく違う。
あの削り方は、いまでも再現できる気がしない。
削るという行為は、いつの間にか機械に置き換わっていった。安全で、早くて、きれいに仕上がる。それで困ることはない。
けれど、ナイフで鉛筆をきれいに削るということだけは、なぜか、ずっと置き去りのままになっている。
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