【ゲーム考察】伝統芸能の【能】から見る隠れた名作「祇:Path of the Goddess」
やあ俺だ。
あなたは「隠れた名作ゲーム」と言われたら、何を思い浮かべるだろうか?
ゲーマーであれば、数多く挙げられることだろう。
その中に「大神」もあるんじゃないだろうか?
「大神」は2006年にPlayStation2で発売されたカプコンの和風ゲームだ。
その日本画のように美しいグラフィックと、華麗かつ独特なエフェクト。また日本書紀やアイヌの伝説などの神話をモチーフとしたストーリーは、壮大でありながら心あたたまるような群像劇でもあり、多くのゲームプレイヤーを虜にしたまさに神話的ソフトだ。
続編も決定しており、非常に待ち遠しい。
しかし、そんなあなたにもう一つおすすめしたい「隠れた名作」がある。
それが「祇(くにつかみ):Path of the Goddess」だ。
今回は「祇(くにつかみ)」の概要と、そこに隠された日本の伝統芸能である「能」を考察・解説していこうと思う。
「能って、なんか難しそう」
「ゲームと能って、関係あるの?」
と思っているあなたにこそ、この記事を読んでもらいたい。
結論を言おう。
実は「能」とは庶民のものであり、ゲーム中においては戦う手段であり、「役割」でもあったのだ。
どういうことかは以下の順番で解説する。
・祇(くにつかみ)のゲーム概要
・キャラクターが踊る理由
・能とは何か?
・仮面とはなんだったのか
・主人公・宗とは一体なんだったのか
最後まで読めば、「祇(くにつかみ)」というゲームの深さを知ることができると同時に、日本の伝統芸能が少しだけ近くなるはずだ。
ぜひ舞でも踊りながら読んで欲しい。
☑️ここからネタバレも含むので注意!
気になる人は、エンディングを見てからにした方がオススメ。
祇(くにつかみ)のゲーム概要
「祇(くにつかみ)」は、2024年にPlaystation4で発売された和風ゲーム。
販売元は「大神」と同じくカプコン。さすが俺たちのカプコンだ。
「大神」が神話をモチーフにした話であるのに対して、「祇(くにつかみ)」は土着(山)への信仰、伝統芸能、伝統文化にフィーチャーした作品。人間の営みに近づいた世界観が特徴の一つだ。
一方で、人間に近づくということは綺麗なものだけでなく、おぞましいものへの解像度も高くなる。
「祇(くにつかみ)」では化物・異哭(いこく)との戦いと、自己犠牲がメインテーマとなっているのも大きな魅力であり、そこが「大神」とは大きく異なる点だ。
主人公:宗(そう)は、「大幣(おおぬさ)」が刀に変じたものを使用し、異哭を斬り伏せる。
もう一人の主人公とも言える世代(よしろ)は、異哭に対しては無防備であるが、異哭の発生源たる穢れを祓うことができる。
基本的なゲームの進め方としては、プレイヤーは宗を操作し、村人に仮面の力(ジョブ)を分け与えて、村人と共に世代を護衛して穢れを祓うことになる。
キャラクターが踊る理由
宗や村人、世代にいたるまで。登場人物たちは何かにつけ踊る。
祓う時は世代が中心で踊り、村人たちはまるでオタ芸のような掛け声と共に踊るのだ。
一見するとコミカルでさえあるが、実はここには大きな意味がある。
村人、宗、世代の踊りは、それぞれ違うものである可能性があるんだ。
順番に見ていこう。
村人は「田楽」
まずは村人の踊り。
これはおそらく「田楽」だ。
そもそも踊る文化は、奈良時代に中国から渡来した「散楽(さんがく)」が源流だと言われている。
この散楽が南北朝時代から室町時代にかけて発展し、「猿楽」と「田楽」に派生したと言われている。
猿楽はまさしく「猿マネ」のように、物真似をするコミカルな芸である。
それに対して、田楽はコミカルながらも踊ることに重きをおいており、そこには荒ぶる神を鎮め五穀豊穣を祈願する意味合いがあった。
ゲーム中において村人は「山神の怒りにより、住む場所を追われた立場」である。
そう考えると村人が踊るのは、まさに田楽でなければならないとさえ言える。
宗は「神舞と能楽」
宗に関して言えば、その踊りは単なるジャンル分けに留まらない。
あえて言うならば「神舞」と「能楽」である。
宗はその刀を使った舞うような颯爽とした動きで、異哭を斬り伏せる。
この動きは「神舞」で間違いない。
神舞は男の神が、神の力を誇示しながら淀みなく踊ることであり、神威により敵を打ち倒す宗の戦闘スタイルからもそれが伺い知れる。
しかし宗の最大の特徴は、「仮面の力」を村人に分け与えられる点にある。
宗は村人の職業(ジョブ)を自由に切り替えて、戦いに備えることができる。
その際に村人の仮面が変わるのだが、これは宗のみが使える能力なのである。
そもそも「能」という言葉は、古くから「芝居」を指すものであった。
であるならば、宗の仮面を分け与える力は「演じさせる力」であり、宗こそが「能そのもの」なのである。
また、宗自身も「仮面をかぶっている」ことは、ゲーム中の真エンディングを解釈する上で欠かせない点だ。
それはまた後ほど解説しよう。
世代は「巫女舞」
世代の踊りは「巫女舞」である。
これは世代自身が、巫女であることからも疑いようがない。
また巫女舞は神事の「お神楽」に端を発する舞であり、その目的も「神事への奉納」である。
神舞が男神であったのに対し、巫女舞は女神もしくは巫女であるため、女性としての面が強い世代が踊ることも矛盾しない。
ここで勘の良いあなたは気づいたのではないだろうか?
目的は「神事への奉納」。
そう、「奉納」なのだ。
世代は穢れを祓っているのではない、ということになる。
これは「世代」という役割が辿る、哀しく残酷な最期を暗示している。
それも後ほど解説していこう。
能とは何か?
本題に入る前に、そもそも「能」とは何かを解説しておこう。
能という言葉自体は、古くから「演じる」という意味で日本に存在していた。
そこに中国から、曲芸や物真似を主としたコミカルな大道芸的な「散楽」という文化が入り、さらに音楽と演舞を加えた「猿楽能」と「田楽能」に発展する。
ここで室町時代最大の二人の天才が能を進化させた。
観阿弥・世阿弥の親子だ。
観阿弥はそれまでの物真似芸であった猿楽に、独特の動きの舞と語り(ナレーション)と音楽を導入し、新しい芸能として立ち上げた。
今でいうとミュージカルや音楽ライブに近かったのかもしれない。
当時の民衆はこの新しい芸能に熱狂した。
息子の世阿弥は、これをさらに発展させる。
能楽を演じる他のライバルたちの芸風すらも取り込み、歌と舞を極限にまで洗練させ続けたんだ。
そのこだわりは民衆だけではなく、室町幕府の将軍や朝廷の公家たちなどの権力者をも熱狂させ、世阿弥によって能楽は確固たる地位を得て大成したのである。
つまり、この親子は単なるモノマネ芸を感情を震わせる演舞に昇華させ、さらには踊りを神への祈りにすら変え、最終的に形をほぼそのまま保ちながら、現代の伝統芸能に上り詰めたのだ。
現代に生きる俺たちでも、このすさまじさは伝わるのではないだろうか。
仮面とはなんだったのか
さて、話をゲームの中に移そう。
能が「演じること」であるならば、やはり仮面とは「役」の概念の物質化であろう。
そして、宗がこの仮面を与える特殊能力があることは説明した通りだ。
そうだとしたら、一つ不可解な点が出てくる。
それは「村人は最初から仮面をかぶっている」ということだ。
そもそも宗が与える仮面は「特別な力=神威(神の力)」を宿した仮面である。
そのため、もっと大きな意味での「仮面」の意味として捉えるべきなのではないかと思う。
では全体を見渡してみるために、このゲーム中で重要な役目を果たすキャラクターにも目を向けてみよう。
敵キャラ、すなわち畏哭である。
彼らの容姿を観察してみると、顔に当たる部分には顔らしいものはあるが、イマイチはっきりとしないことが分かる。
このことから以下の二つの可能性が考えられる。
①顔がない=役割がない
②異哭という役割に、顔がない(顔がないように見える仮面)
解説していこう。
①役割がない
人間が山に対する敬いと畏れを忘れたことが、異哭が溢れ出す要因である。
つまり、人間に「畏れ」という「神としての役割」を与えられていた者達が、人間が畏れと敬愛を忘れることにより役割を奪われたと考えることができる。
この考えであれば、異哭は神性という仮面を剥ぎ取られた、堕ちた神の成れの果てである。
②「異哭」という仮面
一方で、「顔がないこと自体が仮面=役割」とも解釈できる。
つまり、異哭という役割を演じるために「顔がない風の仮面」をかぶっている可能性があるのではないか、という考えである。
この考え方は、異哭は異哭として純然たる悪役を演じることを定められていることになる。
ちょっと可哀想。
個人的には①の説が有力
俺としては①役割がない(役割を奪われた)のが当てはまると思う。
なぜか。
異哭は一部例外はあれど、共通しているのは「世代を狙って襲ってくる」ということである。
また世代は、宗と表裏一体のように描かれることも多く、その神性を行使することで宗を実体化させている。
言い換えれば、宗に役割を与えているのだ。
整理すると、
「宗は村人に役割を与えるが、世代は山の神たる宗に役割を与えている」
ことが分かってくる。
これは宗と世代は共に「役割を与える力」はあれど、「与える対象が違う」ことを示しているのである。
異哭とは何だったかを振り返ってみよう。
彼らは「畏れを失った存在」であり、いわば「忘れられた神」である。
ゆえに理性を失い「まつろわぬ神」になったわけだが、彼らが求めるものは何だろうか?
やはり「神という役割」ではないだろうか。
そのため「神へ役割を与える力」を持つ世代の元へ殺到するのは、自然なことのように思える。
そうであるとするならば、村人がそもそも仮面をかぶっているのは、彼らは「村人という役割」であるからではないだろうか。
つまり作中において、異哭も含めたキャラクターはすべからず「役割」を振られているのだ。
これは一見すれば統制が取れているようだが、実は因果を決定づけるような呪いのようなものである、と解釈できる。
ゆえに、1回目のエンディング、2回目の真エンディングにおいて、同じことがループしているような描写が見て取れるのである。
主人公・宗とは一体なんだったのか
宗は、公式サイトによれば
本作の主人公であり、山の巫女「世代」の護人。村人たちと協力し、自らも刀を取って巫女を護りぬく。
とある。
しかし結論からいえば、宗は人ではなく「神」である。
おそらく山の神そのものだろう。
一方で、彼女は人でもあった。
1回目のエンディングにおいて、宗の仮面が剥がれ落ち、中から美しい女性が顔を覗かせるシーンがある。
そこにあった顔は、世代に非常によく似ている。
またゲーム中のアートである「絵巻」からも、「世代」は個人名ではなく役割であり、神性の高い巫女が代々勤めてきていることが分かる。
考察するに、宗の役割を勤めているのは先代の「世代」ではないだろうか。
つまり宗と世代は双方が「神」としての一面を持つキャラクターなのだ。
これはゲームタイトルの「Path of the Goddess=神の通り道」であることからも矛盾しないように思う。
「能」の視点から見てみよう。
宗が颯爽と舞うのは男神としての「神舞」であり、宗が男装していることがそれを裏付けている。
世代が舞う「巫女舞」の意義は神への奉納、つまり「自身を供物として捧げることで、穢れを一身に受ける」ことであり、ストーリーの結末を考えると妥当な推察ではないだろうか。
そうであれば、「世代」とは「世の代(世界の身代わり)」のことであり、ゲーム冒頭のナレーション通り、彼女のお役目とはそもそも祓うことではなかったことが分かってくる。
また一周目のエンディングにおいて、世代はすべての穢れを一身に受け結晶化し、御神体のように扱われていることが分かる。
これは彼女自身が山神となったことを示唆しており、おそらく彼女が次の宗になるのであろう。
まるで人の業が詰め込まれたような、グロいシチューのようだ。
クレアおばさんも失神するに違いない。
しかし救いとなるのが、同様に一周目のエンディングのワンシーン。
宗らしき人物が少女を見守っている。
その少女は村人に駆け寄っていくが、後姿から世代のように見える。
重要なのは、この少女が仮面を捨てながら駆け寄っていくということにある。
この後に続く2週目の真エンディングにおいて、詳細は割愛するが「宗と世代」という犠牲の輪廻が打ち切られたように描写される。
またクリア後に解放される絵巻は異哭と人間が共存していく様が描かれており、そもそも役割によって縛り付けられていた運命が変わったことが推察できる。
陰と陽、神と人、繁栄と犠牲。
ゲーム中で描かれているのは「相反すること」であり、ゲーム中の舞台である山の名前が「禍福山」であることからもそれは間違いないだろう。
しかし真に大切なこととは調和である。まさしく「禍福はあざなえる縄の如し」であり、真エンディングでそれを達成したことが伺える。
そして、ここで初めて「祇」という「能」が大団円で終幕することになるのである。
名作と呼ぶに相応しい「祇」
「祇」を能楽の視点から見てきた。
能とは役割を与えて演じることであり、その舞は祈りであった。
しかし本来、自由であったはずの能楽は「役割」に縛られ始める。
そうして様々な悲しみが生まれる中でも、懸命に人々は舞い続けたのだ。
生きるため、護るため。
誰もが身近な人を護るために踊り続けた。そう、人ならざるものさえも。
その果てに、一人の特異点により暗い未来が反転し、呪縛から解放された。
このゲームは能楽の大成、その過程を見ているような気にさえなる。
すさまじい一本なのである。
……ちなみに余談ではあるのだが、能を大成させた世阿弥は別名がある。
その名前は「鬼夜叉」。
主人公である宗を彷彿とさせる気がするのは、俺だけだろうか?
ここまで読んでくださったあなたに、大きな感謝を。
ありがとうございました!次回の記事でお会いしましょう!

