推し文化——その構造と福音

 「好き」が情緒にもとづく感覚的なものであるなら、「推し」は特定の行為によって定義される。好きには個別性が無限に存在するのに対し、推しには一定のパターンが見られる。喩えるならアリの行列だろう。働きアリは自由に振る舞っているように見えて、実際は一糸乱れぬ行動をとっており、不思議なことにその行列は決して崩れない。そうした働きアリの特異性は、彼らの行動パターンと構造を読み解くことで導き出される。ならば推しという行為においても同様の手法をとることで、観察者はその本質に肉薄できるのではないか。
 現代日本では推しが文化現象として語られる機会が増え、少なくない論者が現在を推しの時代と表現する。オタク文化を愛好する行為もいまでは推しという言葉で説明されることも多い。だが、その現象は本当に目新しいものなのか。例えば、ゼロ年代に盛り上がった「萌え」文化も、類似する行動様式をともなっていたことを思い出して貰いたい。近代を論じるためには、中世との関係に着目する必要がある。同じように、推しの前段階である萌えを参照することは、相互の相違や類似点を見出しながら、推しの特徴を浮き彫りにしてくれるはずだ。
 推し文化はしばしば擬似宗教的であると指摘される。だが、同様の宗教性は萌え文化も備えていた。優れた対象を神と呼び、ファン同士の対立もあり、祭壇もこしらえていた。旺盛な消費がなかったわけではない。
 しかし両者には決定的な違いがあって、それは「沼」の有無である。象徴的な例が、スマホゲームにおけるガチャや、アイドルとの接触(直接的、間接的に交流すること)や認知(個体認識して承認を貰うこと)を目的としたイベントへの身の丈に合わない消費だ。
 これらは愛を金で買おうとする行為、みずからの愛を金で証明しようとする行為といえるだろう。萌え文化が中心だった時代には、愛はゲームプレイやアニメ鑑賞の副産物であり、消費行動はその愛を強化するための手段でしかなかった。ところが時代が推しへと切り替わっていくと、コンテンツと愛情表現の主従関係が逆転し、人々の愛情を優先的にマネタイズする新たな現象が起きた。接触イベントの参加権を得るためにコンテンツを大量買いするのは普通だし、ライブツアーを渡り歩くことも常態化している。推しの時代を特徴づける「沼」は、消費社会において文化が資本主義の力に屈した事実を雄弁に示すものだ。逆にいうと「沼」が不在のカルチャーは、たとえそこで推しという言葉が用いられていたとしても、萌えの呼び方が変わったくらいの違いしかなく、牧歌的である。つまり時代の転換点において、推しという行為の中では、萌えの行動様式を継いだ正常進化と、異質な突然変異の二種類に分岐したのだ。
 ここでは主に「突然変異」によって出現した推しを、女性アイドル界隈に絞って考察したいと思う。突然変異的な推しビジネスの特徴は搾取的である点だ。その意味で萌えとの連続を持った世界とは一線を画している。しかし興味深いことだが、突然変異的な推しの構造の中で、多くの人々は自分が不幸であると思っていない。「沼」に沈む状況にありながら、節度の欠如を問題視することもない。搾取されていることを理解しており、多額の金を貢ぐことで推しがより大きなステージで活躍でき、良質なコンテンツが届けられると悦ばしく思ってすらいる。
 以上のようなマインドセットが、擬似宗教に見られるカルト的な要素であることは言を俟たないだろう。客観的に見れば、明らかに節度を超えて(欺されて)いるのに、本人はそう思っていない。ここで注目すべきは、推しにすべてを捧げる熱狂と、自己を搾取の対象として淡々と受け入れる二重性である。そうした二重性を持つ主体のことを、東浩紀は「解離的人間」と呼んだ。分析の対象になったのは美少女ゲームというポルノコンテンツの消費だが、そこで展開された議論をまとめると左記のようになる。
 東は、美少女ゲームのプレイヤーが複数のヒロインと純愛を育む問題、その浮気性を無自覚に受け入れている矛盾について指摘し、人が人間という主体と欲求に従順な動物に解離していると説いた。同じようにアイドルを推すファンたちも、自分が「沼」にはまっていると感じていながら、熱狂から覚めることはない。それどころか、搾取で困っているのにその痛みを忘れ、さらなる「沼」に埋没する人すらいる。こうした解離的人間は、東が論じたような動物的欲求と無意識の受容が共存する特異な存在だ。彼らは推しという行為の中に、自己を省みる葛藤を見つけられない。美少女ゲームユーザーが萌えたヒロインのグッズや同人誌を購入する程度にとどまったのに対し、推し文化はファンを養分として取り込むビジネスモデルを洗練させ、搾取の度合いを高めた。販売されるグッズも射幸性を増し、その実態は動物よりたちが悪い(動物の食欲には限界があるが、人間の所有欲、承認欲求には際限がないから)。
 萌え文化が「沼」をともなう突然変異的な推し文化へと進化した背景についてさらに考察を進めたい。興味深いことに、そこではポルノ的要素の有無が非常に大きな役割を果たしている。美少女ゲームではヒロインとのセックスが描かれ、アニメキャラクターもアダルト同人誌の題材となることが多い。このように、萌え文化は「可愛い」という情緒を核としながら、対象となるキャラクターとの擬似的なセックスを通じて性的な満足と承認を同時に提供する。その一方、推し文化においては、アイドルとセックスすることはほぼ不可能であり、性的満足というブレーキが存在せず、蓄積された欲望は推しへの「お布施」といった行動に置き換えられる。
 萌え文化の正常進化に位置づけられる推しは、こうした風景とは無縁だ。彼らは貪欲な消費をもたらす「沼」から距離を置き、節度を保っている。その理由は、そもそも推しの定義が異なることも大きい。
 小児性愛を描いたウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』を参照しよう。この作品では、主人公にとってヒロインは純粋な気持ちで愛でる無邪気な子供である一方、擬似的な恋愛対象でもあった。こうした両義的な態度は、正常進化的な推しと突然変異的な推しの違いに対応しているだろう。前述したように、萌え文化はポルノが牽引したが、それと同じくらい「可愛さ」が存在感を発揮し、特に幼いキャラクターを我が子を愛でるような消費へと導いた。勿論、推し文化にもアイドルを子供のように愛で、我が子を贔屓するような視点に立った正常進化的な推しも存在する。そこでは疑似恋愛は必要なく、セックスの代替物として大量消費する意味もない。
 もっとも『ロリータ』の主人公がそうであったように、疑似恋愛と贔屓は必ずしも排他的ではなく、混在しがちだと見るのが妥当だろう。ともに青春を過ごしたかったと切実に願うアイドルがいれば、子供や妹にしか見えないアイドルもいる。その意味でひとりのファンの内面においても、二種類の推しが共存しうることは確かだろう。だが一度疑似恋愛的な感情に目覚め、だれかを愛したい、愛されたいという強い衝動に駆り立てられた途端、人々はいとも容易く「沼」に足を踏み入れてしまうのだ。

 ここまで推しの構造的分析を論じてきたが、当然ひとつの疑問が湧くだろう。推し活に勤しむ人々はなぜ「沼」にはまらねばならなかったのか。構造的にはセックスの代替物を求めているとしたが、ここからはその根本的動機を掘り下げることで、現代社会に根を下ろした人間の宗教性を顕在化させていきたい。
 宗教とは本来、人間が生きる世界に意味を付与する体系だが、擬似宗教はその発展に用いる道具を消費社会に求めている。数々の論者が検討したように、消費社会の擬似宗教は、伝統的な宗教の後退(≒神の死)と進歩史観の衰退(≒無神論という名の宗教の瓦解)を背景としている。こうした状況を哲学の世界では大きな物語の機能不全、またはポストモダンの到来と呼んでいた。
 現代人の多くは宗教的教養や哲学的思索から離れ、般若心経や論語、カント哲学といった伝統的な知識体系に触れることがない。それを肯定し、あるいは批判する文学にも関心を寄せない。そのかわりに、主にサブカルチャーが意味や価値を提供する。すでにこの時点で擬似宗教的だが、本物の擬似宗教は消費者により実践的な「答え」を示し、彼らを行動に走らせる。どうすれば幸せに生きられるか。愛とは何であり、どこに注ぐべきか。孤独から抜け出し、居場所を得る方法は何か。かつては宗教や哲学が担った生の意味づけ、価値の確かさを、消費行動を通じて提供する。推し活も同様であり、そこで消費者は何らかの「答え」を享受するため、ライブなりイベントに赴く。現代において擬似宗教が、またその亜種である推し文化が、強い存在感を放つ理由である。
 日本において推し文化が隆盛をきわめた背景には、多神教や偶像を崇拝するような文化的土壌があると見て間違いない。しかしそうした伝統が機能するのは日常レベルにおいてであり、非日常的な出来事に直面した途端、簡単に空虚さがあらわになる。過去には教養がその空虚を補っていた。だが現代人は教養を通し、生きる意味や生き方を見いだすことができなくなっている。頼りになるべき擬似宗教も現世利益を説くものが大半で、本質的解決にはつながらない。結果として、生まれ、生きて、死んで、終わりという殺伐とした世界が現実となり、家族や友人よりも金銭に信頼が寄せられている。
 そうした空虚な人間のあり方の類型を哲学的に表現するならば、実存未満の存在となるだろう。近代文明と格闘した哲学者たちは、人生を主体的に切り拓き、結果に責任を持つあり方を実存と呼んだ。彼らは、実存の確立を通じて人々は本当の意味で人間(脱近代的主体)になることができると説いた。しかしそのハードルは想像以上に高く、現代社会の多くの人々は推し文化に限らず、何らかの擬似宗教に依拠することでしか、生きる意味や目的、生のあり方を得ることができずにいる(無数に出版される自己啓発書を思い起こしてほしい)。
 実際のところ、現代社会では、主体的に生きること自体が難しいのだ。主体的とは他者や世間に左右されず、自発的に行動して目的を叶えようとする態度のことだが、見慣れた言葉でいうと、意識が高くポジティブな存在となる。これを聞き、「自分とは違う」と思う人も少なくないだろう。実存を確立させるべく、主体的に生きる人間自体が少数派なのだ。フリードリヒ・ニーチェが「超人」の概念で示したように、実存を確立するには伝統や既存の価値観を乗り越える努力が必要だ。しかしその努力を実らすのはニーチェがいうほど簡単なことではなかった。
 ポストモダンの思想家たちも、近代的な主体への懐疑からニーチェの議論を引き継ぎ、この世界に「異なる現実」を探求した。近代的な主体とは異なる視点から真実を掘り起こし、伝統に縛られない生き方(≒希望)を提案した。無論、そこには実存を確立させるというミッションもある程度含まれる。受け身ばかりでは生きられない。意識を高く持つ必要はないが、何らかの主体性を持たなくては人は幸福から遠ざかってしまう。
 そして前述したように、そのような人間は一握りだろうという疑念や絶望から擬似宗教は立ち現れる。現代社会には大きく分けて三つのタイプの人間がいる。一つ目は伝統を忠実に継承し、哲学的懐疑とは無縁に生きる人々。二つ目は資本主義の自由を活用し、実存を確立していく人々。三つ目は資本主義による自由を享受しきれず、伝統とも切断され、宙ぶらりんの状態でさまよう人々。ここで注目したいのは三つ目の人間だ。彼らこそが擬似宗教のもたらす「答え」に対して敏感に反応し、いとも簡単にすべてを捧げてしまう人である。
 実存を確立した人間は、みずからの欲求を適切に解放し、欲求不満に苦しむことが少ない。実存を手にした人間の推し活は健全なのだ。しかし前述した三つ目のタイプの人間は、資本主義社会の中で実存を確立することに失敗しており、つねに欲求不満を抱え、そのコントロールを失いながら搾取の入口に立たされている。こうした見方は一種の弱者論だろう。人を「沼」に引きずり込む推し文化において、強者から金を搾りとることを搾取とは呼ばない。弱者の金を搾りとるから搾取になるのだ。
 では実存未満の弱者は、金を対価に推し文化に何を求めているのか。生のあり方をめぐるいくつもの「答え」であることは提示したが、究極的には「自分が何者であるか」を知り、「推しが何者であるか」を実感するためだろう。推しは接触イベントやライブを通じて自分を認知し、生身の自分をさらけ出しながら承認してくれる。そうした推しの承認は、ファンをそのまま鑑賞者から「物語の主人公」に昇格させる。これは実存の疑似体験にほかならない。推し文化はまた、愛をだれに、どのように注ぐべきかも教えてくれる。コンテンツを大量購入し、接触イベントに参加し、推しを全力で推せばよいのだ。そうすれば人々は、表向き主体性のある行動に突き動かされ、その責任やリスクを背負うことで実存の確立を擬似体験できる。しかし、こうした実存はかりそめのものだ。推し活から得られる充足感は、身の丈に合わない消費によって成り立っており、持続可能なものではない。少なからぬファンが実存の擬似体験に参加する理由は、喫煙の継続とよく似ている。ひと言でいえば依存だ。「沼」はその自覚された依存を加速させてしまう。禁欲的な伝統的宗教と是々非々で付き合い、神の死という空虚を生き、欲望をコントロールして節度ある消費行動をとれない人々ほど「沼」は底なしとなる。推しに向ける愛情をめぐって過剰な消費がなされるのは、ひとえに、貪欲であるほど強まる実存とのトレードオフがあったからなのだ。

 推し文化において人々が、それが「沼」だとわかっていながらはまらねばならなかった理由を概ね説明できたように思う。彼らは実存を確立できていない社会的弱者であり、推しとの交流を通じてかりそめの実存を得る。その実存をつねに安定させるためには、「沼」にはまり続けなくてはならない。これは、他の擬似宗教がとっている手法より巧妙だといえるだろう。擬似宗教は信徒を「意味」に目覚めさせ、幸福になる手段を提供するが、推し活にのめり込む人々の幸福は「答え」と同時に瞬時に与えられてしまうものだからだ。この即効性が推しという行為の特徴である。問題は効果が切れる前に次のお布施をしなければならない点だろう。先ほど述べたとおり、これは薬物依存に似ている。けれど、依存をともなう即物的な行動が、無味乾燥なものであるかといえば、決してそうではない。推し文化は神聖さと親密さという豊穣な感情をともに提供するからだ。
 推し文化における「神聖さ」とは打算を超えた純粋な愛や尊さを象徴しているもの、「親密さ」とは推しとの日常的な接触を生活の一部として受けとる感覚を指すものとして理解して貰いたい。この二つが共存することで、推し文化は単純な消費行動を超えた心理的充足を提供する。「会いに行けるアイドル」というコンセプトは、この両者を統合するかたちで成功を収めた代表例といえる。推しの語りかけが届くメッセージアプリなどのコンテンツは、その方法論を発展させたものだろう。神聖さと親密さが共存することでファンたちは、推しを美しく尊い存在として感じながら、日常をともに過ごす相手として捉え始める。まさに赤の他人が他人に見えなくなるような変化が起き、推しを自分にとってかけがえのない存在と認識するようになるのだ。
 有力な見方として、ポストモダンの主体の最大の懸念は孤独だった。しかし孤独を感じている人々は推し活をしながら、推しから家族的な親密さを得る。この心理的変化は、推しがファンにとって家族のような存在になることを促進し、「沼」に抜き差しならないほど浸かる原因となる。それでも推しはセックスという全人的な承認を供給しないかわりに、それ以外の多くを与えうる存在と見なしてよい。
 推し文化には搾取という問題がありつつも、素晴らしいものでもある。現実社会で満たされない人々を誘惑し、認め、癒してくれる。いかに浪費を促し、経済的に苦境に立たせる存在だとしても、ファンは推しから多くのものを得ている。それは金銭でトレードされたものだが、彼らはプライスレスな価値を受けとっていることだろう。だが推しがもたらす価値がどんなに高くても、搾取や依存は消え失せず、そこから目を逸らすことはやはりできない。依存と欺瞞に満ちた「沼」との関係をどう変化させればいいのか。推し文化の周縁にそのための装置が控えていたことを、以下丁寧に示していこう。
 その装置とは、ファン同士のコミュニティ、共同体である。萌え文化がそうだったように、推し文化も万単位のファンがいることが珍しくない。だがここで展開したい議論は、彼らとつながることでこの上ない一体感を得られる、という話とはいささか異なる。
 萌え文化においても、孤独なゲームプレイをきっかけにコミックマーケットなどのイベントを通じて友人や恋人を作ったりする側面がある。推し文化にも同様の流れがあることは確かだ。しかし注目してほしいのは、萌えや推しといった行為には、つねに「ここではないどこか」に向かう扉が開かれているという点だ。
 萌えの時代や推しの時代に関して、多くの作家や読者が魅了されたテーマを挙げてみよう。萌えの時代において隆盛をきわめたのはループものだ。そこでは悲劇を抜け出す可能世界を主人公に提供し、彼らに幸せを掴みとらせた。推しの時代になると、今度は異世界転生ものが流行していき、これまた不遇な現実世界とは異なる充実した異世界を描いていった。両者の主人公にとって共通するのは、可能世界や異世界が癒しの場として機能していることだ。推しを通じて人々がつながるコミュニティも、現実世界に諦念を抱く人々に、価値ある異世界を提供する可能性を秘めている。「沼」の真っ只中にいたとしても、絶望と諦めしかない現実よりはるかにましに感じられる「ここではないどこか」を。それがポストモダンの思想家が論じた「異なる現実」に対応するものであることは明白だ。
 現代とは過酷な時代だ。生き残れる者、残れない者を峻別し、前者にとって住みよい世界を作ろうとしている。そこには、後者は淘汰されても仕方がないという悪意が眠っており、萌え文化や推し文化は「ここではないどこか」を提供することでこうした悪意への抵抗という位置づけを得る。とりわけ淘汰の対象になりかねない推し文化の弱者にとってコミュニティは抵抗の場となりうる。いい換えるなら、それは一種の相対化だ。搾取や依存に彩られた推し文化に違う光をあてること。人間は意外にも単純で、推しからの認知を求める一方、仲間であるファンに認知されることにも喜びを感じてしまう。しかもその度合いにさほど大きな乖離はない。コミュニティに属することによって人々は、推しの認知を得るために大金をつぎ込まなくても孤独を癒すことが十分可能になるのだ。
 こうした議論を踏まえると「沼」との関係もおのずと変わってくるだろう。仲間たちとの交流で孤独を癒せるなら、無尽蔵に消費を続ける必要はなくなる。勿論、他者へのアピールとして浪費する行為も横行するが、その程度でコミュニティの力は減じない。ファン同士のコミュニティは推し文化に埋め込まれた福音なのだ。推し活に疲れを覚え始めたような人は、コミュニティに寄りかかって休息をとるべきである。幸いなことに、ソーシャルメディアの中にはそうした余白が溢れている。

 推し文化の中にいながら、その文化を相対化し、「沼」との距離をコントロールできるようになるのは、主体性を一時的に取り戻した証といえるだろう。近代的な主体や超人になったことを意味するわけではない。相変わらず人として弱いままだ。しかし「沼」と距離をとることによって節度をわきまえたのなら、人は推し文化のよい部分だけを享受し、やがて実存の確立に力を発揮できるかもしれない。
 例えば、推しの訪問した場所を聖地巡礼し、その様子をソーシャルメディアでレポートする行為は、「他人に認められたい」という気持ちを適度に発散させる手段となる。使う金額も常識的だ。ファンはその効用を無意識のうちに理解しながら推し活を続けている。コミュニティの力に無自覚でありながらも、その力を必要としているのが現代人の特性にほかならない。
 唐突に聞こえるかもしれないが、こうしたコミュニティの力学を支配しているのが「神」であるという視点を最後に示唆しておきたい。「神」とは、推し文化においてアイドル本人であるように見えながらも、実際は超越的にこの世界を支配する存在だ。具体的な事例とともに詳しく見ていこう。
 哲学的議論の中に手紙は届くのか問題がある。論じたのはジャック・ラカンという哲学者で、彼の議論を簡略化すると、手紙、すなわちメッセージとは、相手に届くことがなくても象徴的に届くというものだ。人間のコミュニケーションにおいて、言葉が完全に意図通りに伝わることはほとんどない。その行為は失敗する。だが思わぬかたちで、メッセージは必ず届いてしまう。
 こうした秩序を体現しているのが、アイドルのメッセージアプリを利用するファンの行動である。そのアプリを通じて推しは、ほぼ毎日みずからの言葉、写真、電話や動画を送ってくれる。メッセージを受けとったファンは、その働きかけに対し、ソーシャルメディア上でタグを付けて返信する。素直に受けとめればその行為の意味は「ひょっとしたらタグをたどって推し(という神)が見てくれるかもしれない」という期待の現れだ。
 常識的にはその返信がアイドルに届くことは起こらないが、ファンはそれを気にしていない。ラカンが述べたように「思わぬかたちで」届くことに期待しているのだ。そしてラカンの考えが正しければ、アイドルという神に向けた手紙は決して届かないが、届かないという現実を通じて届き、それがファンを満足させる。こうした秩序のことを哲学では象徴的秩序、ないし否定神学と呼んでいる。メッセージアプリは一方通行で、ファンが作りあげる返信のネットワークには神、すなわちアイドルは介在していない。だがその不在こそが、ネットワークを確かなものとしているというのが、ラカンの導く論理である。
 しかし、ジャック・デリダのアクロバティックな議論を受け入れると、この秩序が少し異なる方向に変わる。彼の考えをメッセージアプリにおける実践とそのコミュニティに適用すると、返信はラカンのいうように「思わぬかたちで」アイドルに届くかもしれないが、そのメッセージはまったく想定外の相手にも届いてしまう。具体的にいうとその手紙は、アイドルという神に届かないかわりに、タグをたどるべつのファンたちに届き、読まれる。そしてその返信に「いいね」を押し合うことで、ファンがソーシャルメディア上で絡み合うのとは異なった、緩くて独自性の高いコミュニティが形成されることになる。
 メッセージアプリを通じたファン同士のつながりは、アイドルコミュニティにおいて非常にプリミティブで意味深い実践だ。なぜなら、そこでファンの発信するメッセージは低コストな推しへの応援や共感となっており、推しにつきまとう搾取と無縁な行為であるからだ。そしてコミュニティの力学を支配しているのが「神」であるという見解の根拠は、まさにここにある。デリダははっきりと述べていないが、彼の論じたネットワークは「神」の見えざる手の中にあり、本来の宛先とは異なるメッセージが人々に肯定的な価値(=贈与)を届ける。ここには、前述した資本主義の暴力性に対する抵抗にくわえ、互酬性に満ちた純粋な贈与に近い機能を見いだすことができるだろう。
 重要なのは、コミュニティを支配する「神」は信じるべき対象ではなく、無自覚のうちに支えてくれる存在であるということだ。アイドルという人間の神を推しながら、実際は本物の「神」に救われている。推し活がもっとも弱く、声なき存在の救済になりうるとしたら、まさにこの境地において立ち現われると見なしてよいだろう。意地悪な人々は「それも新たな依存ではないか」と批判するだろうが、社会的動物である人間にとって相互承認は本能に埋め込まれた「業」と呼ぶほかない。
 結論として、こうした「神」がどのような存在なのか、信じる価値があるのか​​どうかは問わずにおこう。だが、現実に救済の担い手であることを踏まえるなら、その真偽の行方は明らかではないか。強調しておきたいのは、人はただその目に見えない力に身を委ねればよいということだ。搾取を内包した擬似宗教の中に本物の宗教が宿っているという意外性に驚けばよい。信仰がなくても「神」は静かに機能する。個々の人々がどう生きればいいかはアイドルも教えてくれないが、人間の行動というダイナミズムの中で「神」は導きを与えうる。コミュニティは脆く、いつしか崩れていく運命だ。しかし人々は崩壊に抗い、またべつの場所へと招かれる。そうした行動を司る絶対的な原理が「神」の授けた福音の正体である。

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