イラン攻撃に際して | ドーハ空港で考えた「非武装」の世界
アメリカによるイラン攻撃が本格化してから、まもなく2週間が経とうとしています。
私は以前、仕事で中東に2年間駐在していました。その間、湾岸諸国や北アフリカを出張や旅行で訪れ、そしてイランにも1週間ほど滞在する機会に恵まれました。
中東駐在は、自ら希望したものでした。
決まってから半年間、嬉々として毎日アラビア語の授業に通い、政治、社会、宗教、歴史に関する本を読み漁りました。
しかし実際に暮らしてみると、その生活は決して楽なものではありませんでした。
日本とも、かつて留学していたアメリカやイギリスとも、まったく異なる文化圏。戸惑い、衝突し、時には怒りを覚えることもありました。
それでも、あの2年間はかけがえのない、特殊な輝きを持った時間でした。同僚やカウンターパートから学び、中東を離れた後もアラブ系やイラン系の友人に恵まれ、人生をより豊かにしてくれた経験だったと、心から思っています。
そして、イランの街の美しさと活気、人々の温かさ、可愛らしい子どもたち、歴史の重さ、絶品のイラン料理、すべてを愛おしい気持ちで思い出します。
だからこそ、今、深い、深い悲しみを感じています。
長く、あまりにも長く続く中東の混乱。終わりが見えないその現実に、言葉にならない痛みを覚えます。
偶然にも、今回の事態が本格化するほんの少し前前、私は乗り継ぎのためにドーハ・ハマド国際空港にいました。
私はこの空港が好きです。世界最大級のハブ空港の一つで、そこには本当に世界中から人が集まっています。
そのとき、ふと浮かんだ言葉がありました。
Disarmed(非武装)
空港では、誰もがセキュリティチェックを受け、危険物を持たない状態になります。つまり、そこは「武器が存在しない空間」なのです。
人種も、国籍も、宗教も、言語も、共通するものが何ひとつない人たち。そんな人々が、お互いを攻撃しないという前提で、同じ空間を歩いている。
なんてすごい状況なのだろう。そこは、聖域のように安全な場所でした。
もちろん、空港は一時的な場所です。人々はただ乗り継ぐだけで、利害関係もなく、数時間後にはそれぞれ別の目的地へ向かいます。
でも、そのとき私は思いました。
それは、地球も同じなのではないか、と。
人が地球に生きる時間は、せいぜい80年ほど。空港の乗り継ぎのように、早く旅立つする人もいれば、長く滞在する人もいる。
でも、宇宙の時間の中ではそれは誤差のような短さです。
以前、人類が地球外生命体と出会えない理由の一つとして、「生命の時間スケールが宇宙では短すぎる」という説を聞いたことがあります。
文明は生まれ、数千年のうちに消える。宇宙の時間軸では、あまりにも一瞬すぎて、出会うタイミングが合わないのだと。
そう考えると、人間の一生と、空港での数時間の乗り継ぎは、ほとんど同じようなものに思えてくるのです。
そんな短い時間に、たまたま同じタイミングで地球に生まれた私たちは、本当に互いを傷つけ合う必要があるのだろうか。血を流すことは、本当に避けられないことなのだろうか。
心地よいアラビア語の構内アナウンスを聞きながら、私はそんなことをぼんやり考えていました。
私は中東政治の専門家ではありません。
でも、イランで出会った人々の人懐っこい笑顔、駐在先でできた友人たち、そして今、邦人保護のため必死に奔走している大使館の元同僚。おそらく今、避難のためのチャーター機に乗っているであろう友人の顔。
その一人ひとりが、頭に浮かびます。
だから私は、考え続けたいと思います。
この短い「乗り継ぎ時間」を、人類はどう過ごすべきなのか、を。
