第29走者 川谷大治:遊びについて
岩永先生の「パーマン変身セットの思い出」に触発されて、私の“遊び”にまつわる思い出が覚醒されましたので、最初に私の小学生のころの遊びを2つ紹介して、次に遊びがどんなからくりで行われているのかを分析してみたいと思います。
Ⅰ.小学生の頃の2つの遊びについて
確か小学1年生の頃だったと記憶しています。12月の冬休みに、集まった4人の友だちの一人が「塩水はしょっぱくて飲めない」と言い出したことにS坊が「飲める」と主張して、それならみんなで塩水を飲もうとなって、塩水を作って、それぞれ湯飲みに分けて飲みだした。言い出しっぺのS坊は2杯、3杯と飲み続け、「まだいける」と止めなかった。ところが、突然、台所の流しの方に走り、塩水を鯨の潮吹きのように吐き出したのです。残り3人は唖然と立ち尽くしてしまったのは言うまでもありません。この遊びは「塩水飲みは危険」という教訓を残して終わりました。
もう一つの遊びは、小学5、6年の頃に男の子たちの間で流行った遊びです。最大人数は5、6人で行われます。じゃんけんで勝った者が軟式テニスボールを屋根の上に投げ、そのボールをキャッチする人の名を呼びます。指名された人は屋根の下で落ちてくるボールをキャッチしないといけません。キャッチしたら、ボールを屋根の上に投げてキャッチする人の名前を呼ぶ。これを繰り返していくと、ボールが屋根瓦の角に当たった弾みで、どこから落ちてくるのか予測ができないことが起きます。とんでもない場所から落ちてくるときもあって、取り損ねた人は、罰として家の壁に大の字に手と足を広げて立ちます。彼から数メートル離れて、彼にボールを投げつけ、彼は静止したままボールを受けるのです。怖くなって体を動かしてはいけません。足とか手ならまだしも、顔に当たるとふにゃふにゃボールでも痛いのでどうしても顔を背けてしまう。もしちょっとでもボールを避けようと動いたら、罰として再び、みんなのボールを受けなければならない。この拷問に近い罰に堪えると、今度は屋根にボールを投げる権利を持つのです。他の地域でもやっていたかどうか知らないのですが、この遊びを私たちは「磔(はりつけ)」と呼んで、ほかに遊ぶことがないときなどにやったものです。
どちらも誰かに教わって始めた遊びではありません。グループの空気がそうした遊びを作ったというのが真相です。上記の2つの遊びから導かれることは、遊びとは、単に楽しいだけのものではない。缶蹴りやかくれんぼでは「鬼」は悲惨な目にあうこともあります。それなのにみんな遊びたがるのですね。なぜでしょうか。喜びが悲しみよりも多いからです。遊びは時には命の危険もあり、スリルを楽しみ、より本能的でサド・マゾヒスティックなものなのです。遊びの中では人間はかなり意地悪になります。また、遊びとはいえ、現実生活の約束事(敗者は罰を受けなければならない)を盛り込んでいます。そして、遊びのルールは、メンバー構成によって変えられることがあります。たとえば、人数が足りなくて、低学年の子どもを加えるときには「磔」の罰は免除といった具合に手加減するのです。生命の危険性を判断して遊びとして採用するかどうかは子どもたち自らの判断に任せられています。その判断は大人に負けないほどの的確さをもっていたと思います。
Ⅱ.遊びについて
それではこれから遊びのダイナミズムについて考えてみましょう。ポイントは2つ。1つは、10歳前後で遊びの内容ががらりと変わること、2つは遊びは現実と空想の二つの世界を足場にして行われるということです。
1.イマギナチオについて
その準備のために、拙著『スピノザの精神分析』(遠見書房、2024)からイマギナチオについて説明しましょう。
エリック・カール著『パパ、お月さまをとって!』(1986)は、夜空に浮かぶ月が子どもには手に届く距離にあると知覚される可笑しさを、物語にした絵本である。月は地球から約38万km離れているにもかかわらず一茶も「名月を取ってくれろと泣く子かな」と詠んだ。子どもは月に手が届くと信じている。スピノザによると「個々の知覚はすでに信念である」(第四部定理一備考)。なぜなのか。「誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真であるというだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない」(第四部定理一)だけではなく、「(それは)我々の表象する事物の現在する存在を排除するより強力な他の表象が現れない限り消失しない」(第四部定理一備考)からである。月に手は届かない事実を知っても、この知覚的信念は消えない。それ故に、「お月さまを取って」という子どもの願いをエリックも一茶も否定するどころか共有し作品に仕立てる。
なぜ子どもの願いは否定されずに共有されるのでしょうか。スピノザは『神学・政治論』で預言者の言葉を人々がなぜ信ずるのかという問いから、人間本性として私たちには「共有信念」があることを明らかにしました。たとえばあなたが出来心で万引きをして逮捕されても、あなたは自分の非行をごまかそうとはしてもあなたを裁く「法」を放棄するように訴えるようなことは決してしないと思います。預言者の言葉も「お月さまを取って」と泣く子どもも絶対的な確実性はないにもかかわらず、そのことを疑おうとしない態度が私たち人間にあるというのです。それをスピノザは「共有信念」と呼びました。
その始まりが、リレーエッセイの第1走者『思いつきについて』でも紹介しましたスピノザの第一種の認識「イマギナチオ(表象知)」です。夜空に浮かぶ月に手が届くと信じる幼児の例に戻って説明しましょう。
月Aを幼児Bは見た。月Aの光が幼児Bの網膜に届いて、網膜は刺激を受けて(変状)、Bは手の届く位置にAが存在すると認識(A´)する。このとき幼児の身体の変状は月Aの本性と幼児の身体の観念Bの本性が含まれているので、A´をもってAの認識と見なすのは誤りが生じる。何故なら、「人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない」(第二部定理二五)からである。そして、幼児が、月が手に届くとイマギナチオするのは、幼児が月の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が月から刺激される限りにおいてのみ月の本質を含んでいるからである(第二部定理三備考)。つまり、精神は身体が月から刺激される限りにおいて月が手に届くと考えるのである(第四部定理一備考)。
しかし、月Aから離れてA´そのものは幼児Bにとって認識そのもので誤りではない。それは幼児Bにとっては真であるが、現実にはA=A´ではない(虚偽である)。ここに何とも言えない奇妙な感覚が生まれる。なぜ疑わないのか?確信しているのではなくただ疑わないだけに過ぎないからという。あるいはまた、「彼の表象を動揺させる原因(言いかえれば彼にそれを疑わせる原因)が少しも存在しないから彼はその偽なる観念に安んじているというだけのことである」(第二部定理九備考)。スピノザはイマギナチオを「目をあけながら夢を見ている」(第三部定理三備考)という。
月は地球から約38万kmも離れているのに、幼児Bは「月は手に届く位置にある」と信じています。そして、知覚は信念に近いので、決して疑うことをせず、「お月様をとって」と無理なことを言うのです。私たちは現実世界では虚偽でも心のなかでは永遠に(真なるものとして)偽なる表象を持ち続けています。イマギナチオはウィニコットによると狂気の一種です。
ウィニコットは客観的に知覚されたもの(A)と主観的に思い懐かれたもの(A´)とのあいだに「内的現実と外的現実の両方が寄与している体験することの中間領域」を想定し、「これは疑義を突き付けられることがない領域である」と直観しました。月が手に届く距離にあるという信念は、月が地球から38万kmも離れていることを教えられても、消失しないのです。それ故に、「偽であるが真でもある」現実世界と内的世界の両方が成立するのです。この現実的には偽だが内的には真である世界をウィニコットは中間領域と呼びました。ここに遊び、嘘、妄想、宗教、文化が生まれるのです。
一方スピノザは、イマギナチオは外的世界を生き生きと認識するとはいえ、虚偽の唯一の原因であり、誤謬の源泉となるので、あくまでも理性によって排除します。リレーエッセイ第27走者『縁起について』でも解説しましたように、お釈迦様も、イマギナチオは苦しみの原因になるので排除します。「空」の理論です。何もない空っぽの心の中にあたかもあるかのように想像するというわけです。
2.現実と空想の2つの世界に足を置く
それでは遊びの分析に入りましょう。遊びが成立するには、遊ぶ人同士が現実と空想の2つの世界に足を置くことが求められます。そして「合意事項」として空想に現実を突きつけてははいけません。たとえば、ままごと遊びで泥の塊を団子として提供されたときに「泥だ!」と言ってはならないのです。それはままごと遊びの決まり事、言い換えると、暗黙のうちに合意が結ばれているので、恭しく団子としていただくふりをしなければならないのです。そうしないと遊びは成立しません。しかし、10歳前後を過ぎてメタ認知能力を獲得すると、現実検討識がより働いて、団子は泥だと強く認識するので、ままごと遊びは「遊び」になりません。時々、幼い子どもたちと遊んでいると、子どもたちはままごと遊びを楽しんでいるのに、私は遊べなくて、楽しそうにしている子どもたちの世界を懐かしく思い、それを壊さないようにするだけなのです。
これは私の経験なんですけど、手製の鬼の仮面を被って、秋田県のナマハゲの真似をして、「悪いご(子)はいねーかー」と孫たちを追っかけると、孫たちは私をナマハゲと思って怖くて逃げ回ります。泣き出す前に仮面を外して「大丈夫」と保証すると、立ち尽くしてはいるのですが、笑顔が戻ってきます。今は、何度もやったせいなのか、現実検討能力が身について怖がることはありません。孫たちにとって、現実の鬼の仮面という現実が空想を圧倒させたので、遊びにはならなかったのです。
ところで、ままごと遊びで、泥のお団子を差し出されて、食べる子どもはいませんね。食べる直前に、「団子は泥なので食べてはいけない」と判断するのでしょうね。空想と現実の世界を往ったり来たりしながら、精神分析専門用語ではスプリッティングといいますが、空想の世界に足を置いて、次の瞬間には、現実の世界に足を置くのでしょうか。それとも、両方の世界に同時に左右の足を置いて、意識だけを空想と現実を往ったり来たりするでしょうか。また、子どもは大人同様「泥でありお団子である」ことを意識しているのでしょうか。それとも、何も意識せずにそれをやっているのでしょうか。
岩永先生の「パーマン変身セット」では、パーマンになるには変身セットのマスク、マント、バッジが欠かせません。テレビでパーマンを見ていた子どもたちは小学生の低中学年―メタ認識を獲得する前―でしたので、かなり空想力が現実検討力を越えています。パーマン変身セットを身につけると、実際には飛べないのに、意識はパーマンになっているのですね。変身セットに近い遊びの青年版は、ほうきをギターに見立てるエアプレイでしょうか。カラオケで手にするマイクも歌手になった気分を高めますよね。
こうして、子どもは空想と現実の2つの世界に足を置いて、遊びながらいろいろなことを経験し成長していくのです。そして遊ぶことを通して子どもは、遊びにはルール(合意)が欠かせないことを知るのです。現実世界ではルールがあることを自然と受け入れていくのです。ルールがないと遊びは成立しませんし現実世界も成り立ちません。
つまり、子どもは「制約があるから遊び(自由)を満喫する」というパラドックスを経験するのです。子どもたちに人気の人魚姫は、プリンスに会うためには声を失う、という運命を受け入れないといけません。そして、メタ認識を獲得した子どもたちから大人まで、遊びの延長線上にゲームやスポーツが続くのです。サッカーはボールが手に触れるとアウトです。ラグビーではボールを前に投げてはいけません。相撲では相手力士の髷を掴んだら負けになります。このように遊びには制約(ルール)が欠かせないのです。つまり、遊びの制約という不自由さがみんなを平等にさせ自由を満喫できるのです。
2.一人遊びについて
岩永先生の「パーマン変身セット」のエッセイに登場される患者さんは、幼いころ、空き地を海に見立てて、プラスチックのバッジを口にくわえて深海を泳ぎ回って遊んでいました。岩永先生はバッジを加えて深海を泳ぎ回る遊びに焦点を置いて論を進めていましたので、私は「一人遊び」の視点から論じてみようと思います。
リレーエッセイ第25走者『引きこもりと良寛さん』でも紹介しましたように、良寛さんは子どもの頃から「一人遊び」を好む内向的な気質の子どもで、後に「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れる」と詠みました。世の中の人々とつき合わないというのではないのですが、思いのままに一人で遊ぶことは良寛さんにとってとても大切なことだとおっしゃっています。一人遊びは誰かに気兼ねする必要もないからですね。世事に疎い良寛さんにとって一人遊びほどリッチな気分にさせるものはなかったのでしょう。それが良寛さんの読書であり、詩歌であり、書、だったのだと思います。
一人遊びで思い出すのはコレクションのことです。フィギュア、アニメグッズ、カードゲーム、ミニカー、コイン、切手、昆虫、etcの収集は一人遊びの極致ではないでしょうか。収集に癖をつけていわくありげに扱うのは問題だと思います。スマホで収集癖を調べると、ほとんどの記事が病気扱いです。オタク、アスペルガー、精神病、などなど。余計なお世話だと言いたいですね。収集癖と比べて、コレクションとカタカナで表示すると病的な印象は少なくなるから面白いですね。言葉ってそんなものなのでしょう。それでも、コレクションを一人遊びと一緒にはしないでという声も聞こえないではありません。
コレクターを私は否定しません。よーやるね、と尊敬しています。テレビ『なんでも鑑定団』に登場するコレクターの可愛いことといったらありません。彼らは集めたコレクションの前では純な子ども(心)のままです。解剖学者の養老孟司先生の昆虫採集はつとに有名です。経済アナリストの森永卓郎さんは1000台以上のミニカーを癌死する前に断捨離するという記事を読みましたが、もったいないですよ。どこかの保育園にプレゼントしてあげて下さい。
一人遊びに戻ります。フロイトは、1歳半になる孫が糸巻きを放っては「いないfort」と叫び、手繰り寄せては「いた Da」、と遊んでいるのを観察し、孫の一人遊びを母親の「消滅」と「再現」とを表す「遊び」だと考えました。つまり、母親がいなくなったという受身的体験を能動的に一人遊びの中で演じることで不安・抑うつを解消してるのだ、と解釈したのです(『快感原則の彼岸』)。一人遊びは身体を動かす遊びから空想を盛り込んだお人形さんごっこまでと幅広くあります。大人の一人遊びは数えきれないですね。私のこのエッセイも一人遊びだと思っています。内容の不出来はともかくこうして文字を書き連ねるのは楽しいものです。リレーエッセイ第27走者『縁起について』でお釈迦様が世継ぎを設けて出家したことに気づいたときはとても嬉しかったです。でも、一人遊びには、とんでもない罠が仕掛けられています。自己満足は他者からの非難・批判に「打たれ弱い」という性質があるのです。人とは共有しないので、独りよがりになる傾向も持ち合わせ、一人遊びでは心の強さを獲得することが少ない、といえます。
3.心の強さ
集団で行う遊びと一人遊びの違いをもう少し追求してみましょう。岩永先生の「パーマン変身セット」の話では、患者さんの内的空想を維持したのがパーマン変身セットでした。一人遊びは「打たれやすい」傾向があると指摘しましたが、本来、遊びは精神を強くします。それはなぜなのか?スピノザの『エチカ』第三部定理五九を引用します。
すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情だけがある。
働きをなすとは自分自身を原因にする、つまり能動であるということです。その限りにおいては、精神には悲しみを除いた喜びと欲望に関する感情しかない、とスピノザは言ってます。遊びやスポーツでは参加者はより能動的ですので、たとえ敗者となっても、全力で戦った喜びは残り、敗戦の悲しみを小さくし、次回の勝利を勝ち取るために努力しようとします。この自身の存在を維持し努めようとする欲望を勇気と言います。また他の人間を援助しかつ友好を深めようとする欲望を寛仁とスピノザは呼びました。この勇気と寛仁が遊びやスポーツには発生するので、精神の強さにつながる、と思うのです。心が弱ったときには度が過ぎない程度に遊ぶといいですね。
また『エチカ』第四部定理七三では、
理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。
理性に導かれる人にとって、一人遊びは、制約もなく自由ではあるけれど、集団の遊びの方が、制約があるからこそより自由だと言っているのです。パラドックスです。精神分析が喜びを生むのはどうしてでしょう。精神分析には遊びの要素があり、また、感情に隷属している原因を分析し理性に導かれた能動的な生活を促してくれます。岩永先生の患者さんは子どものころパーマン変身セットをみにつけて深海を泳ぎ回ったのは、内的空想にしたがってそれを行ったと思います。精神分析の始祖フロイトもスピノザも決定論者です。飛んでいる石は「俺は自由に空を飛べるんだ」と思っているのですが、実は空に石を投げた人のことは知らないだけなんですね。それをフロイトは無意識の空想といいました。この事実を知ることは、精神の強さにつながります。
遊びは心を強くしてくれますが、集団と一人の遊びでは違いが見られ、集団の方がより心を強くしてくれます。いずれにしても遊びは私たちの心を強くし維持してくれます。逆に、遊べないと、心は弱くなり、悲しみの感情に隷属するのです。うつ病にかかりやすい執着性格、完全主義はこの遊びの少なさを表しているのだと思います。
Ⅲ.さいごに
今回は「遊び」がテーマでした。遊びには自身の存在を維持しようと努める欲望、つまり勇気、そして周りの人を援助しコミュニケーションを深めようとする欲望、つまり寛仁が発生します。この欲望と寛仁が心の強さ、だとスピノザは言ってます。「塩水飲み」では健康の維持に努める勇気が生まれ、「はりつけ」ではルールを守り、罰を受け入れる潔さを知ったのです。お酒が飲める年になって、見栄を張るのを避け深酒しない勇気は「塩水飲み」で生まれたと思います。
参考文献
1.川谷大治:『スピノザの精神分析』.遠見書房、2024.
2.Winnicott, D. W.(1971):Transitional Objects and Transitional Phenomena. In Playing and Reality, London: Routledge.(移行対象と移行現象.橋本雅雄/大矢泰士訳『改訳遊ぶことと現実』、岩崎学術出版社、2015.に所収)
3.スピノザ:『エチカ』、岩波書店、1951.
