【今熊野観音寺】西国三十三所・第十五番札所
私MBSアナウンサー河田直也とDJ風タレントくっすんこと楠雄二朗が、西国三十三所巡礼の札所とその周辺を巡ります。
今回は京都市内を12キロ歩き今熊野観音寺を目指します。
スタート地点は元慶寺です。
元慶寺
元慶寺は平安時代に花山天皇が出家したお寺で番外札所になっています。三十三の札所とは別に三か所が番外札所になっていて元慶寺はそのひとつです。
山門がちょっとめずらしい造りになっています。下部が漆喰塗りで中央はアーチ形の通路、木造の軒に入母屋の屋根。竜宮造りと呼ばれる山門です。



花山天皇は三十三所巡礼において大変重要な人物です。ここ元慶寺で出家した後那智で修行をし、その後西国三十三所巡礼に出られました。
当時西国巡礼は廃れてしまっていたのですが、花山天皇によって再び注目されたため「西国巡礼の中興の祖」と言われています。

元慶寺から山科区内を南に2キロ歩き坂上田村麻呂公園という大きな公園にやってきました。

坂上田村麻呂公園

坂上田村麻呂は平安初期の武将で蝦夷征討で功績をあげ、征夷大将軍となりました。坂上田村麻呂の功績は語り継がれ、江戸時代に入っても大勢の武士が崇拝する存在となりました。

後世にまで名を残したことから武の坂上田村麻呂、文の菅原道真と言われています。

続いてやってきたのは隨心院です。ここは山科区小野御霊町でその住所にもあるようにあの小野小町ゆかりのお寺なんです。
隨心院



絶世の美女として知られる小野小町ですが、その生涯には多くの謎が残されています。
しかしここ隨心院には小野小町が顔を洗い化粧をしたという化粧の井戸や、小野小町に送られた恋文が埋められている小町文塚があります。


隨心院をあとにし歩き始めると緩やかな坂道にやってきました。この坂道には「滑石・新大石街道」という名前が付けられています。
滑石街道

1701年、赤穂藩主浅野内匠頭の刃傷事件でお家断絶となった浅野家。家老・大石内蔵助はその後山科に住みこの滑石街道を歩いて祇園に足繁く通ったそうですが、冬場は雪が積もり内蔵助はしばしば足を滑らせたのだとか。
大石内蔵助が足を滑らせたことからこの坂道は滑石街道と呼ばれるようになったのです。

ちなみに坂の途中に大石内蔵助・一服の石と呼ばれる大きな石があり、その名の通り内蔵助はここで休憩していたみたいです。

峠を越えると瓦屋根の上、そして無数の電線の隙間から京都タワーが見えてきました。

元慶寺から約12キロ、目的地の今熊野観音寺にようやく到着です。
今熊野観音寺



宗派 真言宗泉涌寺派
開祖 弘法大師
創建 824年~834年
本尊 十一面観音菩薩

今熊野観音寺にはこんな話が伝わっています。
平安時代の出来事ですが後白河法皇は当時激しい頭痛に悩まされていました。
そこで今熊野観音寺でお参りをするとある夜、夢の中で枕元に観音様が立っていて明るい光が差したそうです。そうすると翌日から激しい頭痛が嘘のように治ったのだとか。

それ以来、後白河法皇の頭痛を治したことから頭の観音様と呼ばれ信仰を集めました。
今では「ぼけ封じの観音」としてお祀りされています。

ちなみに今熊野観音寺ではぼけ封じの枕カバーを販売しています。


取材が終わってからくっすんは枕カバーを購入していました。
