『Nの逸脱』感想
該当作なし
この結果発表を聞いた瞬間、全国の書店が一斉にシャッターを閉める景色が脳裡をよぎった。
まさか。直木賞、芥川賞、ともに該当作なしだなんて。
読書好きをコ◯ス気ですか?
いや、そんなわけはない。冷静に考えれば選考委員の先生たちとしても該当作を出した方がいいに決まっている。だが、今年は出さなかった。それは仕方のないことなのだろう。
かなり衝撃的な結果だったが、今回の異例の事態は読書好きたちをいっそう盛りあげさせたのではないだろうか。各地の書店で「わたしの直木賞、芥川賞」がムーブが起こり、書評家の先生や一般の人たちもこの作品に賞をあげたいという声が多くSNSで見られた。
わかる。すごくわかる。
私も賞をあげたい。そして直木賞ならぬ七輝賞を勝手にむりやりぎゅっぎゅっと贈りつけたい。
嫌でも受け取っていただきましょう、夏木志朋さん『Nの逸脱』に!
そう、『Nの逸脱』は今年の直木賞候補作だ。
本書には「場違いな客」「スタンドプレイ」「占い師B」の三編が収録されており、それぞれの逸脱した世界を覗くことができる。
短編集なのでどの話から読むかは読み手の自由なのだが、私としては本書は素直に「場違いな客」、「スタンドプレイ」そして最後に「占い師B」を読むことをおすすめする。
理由は最後に書くとして、まずは「場違いな客」から紹介させてほしい。
「場違いな客」は二十歳になったばかりの篤が主人公だ。彼は爬虫類専門のペットショップでアルバイトをしている。子どもの頃は爬虫類が好きだった篤。成長するにつれ興味を失っていったのだが、一匹だけ名前をつけてしまうほどにかわいがっているトカゲがいた。名前はフトシ。篤の愛着はフトシだけで他の爬虫類に興味はない。しかし、店に来る客は爬虫類に興味があり、そして求めてやってくる──はずなのだが。
篤は過去にオーナーから聞いた話を思い出していた。
この業界でまことし中に囁かれてる、とある噂だった。
『もし、場違いな客がそれを買って行ったら、そいつは──』
爬虫類専門店に来る「場違いな客」とはなんだろう。私はこの作品を読むまでそんな人がいるなどと想像すらしたことがなかった。
オーナーから話を聞いていた篤はすぐに「場違いな客」に気づいてしまう。展示されている爬虫類を見ているふりをして、まったく視界に入れておらず、確実に目当てのものが決まっていると言わんばかりにあるものを探し回っている。
もしかして、こいつは「場違いな客」なのでは──。
人はときどき、とんでもないことを考えたりする。本気で考えているわけではないが、妄想を膨らませたりすることもある。大人になってから妄想をする人間なんてお前くらいだと言われてしまったら閉口するしかないが、この人はこういう人なのではないかと決めつけてしまうことくらいはあるだろう。
決めつけは、合っている場合と、間違っている場合、予想よりも遥かに良い、あるいは悪い場合がある。
もちろん自分に対してもそうだ。うまくいくと思っていたのに、なんでこんな失敗をしたんだろう、なんて日も生きていたらあるに違いない。私なんてしょっちゅうだ。些細なミスならいいが、いや、むしろ些細なミスが大きなトラブルを生むことだってある。映画『チェンジング・レーン』がそうだったように。たったひとつの判断ミスで平凡で安定した繰り返しの日々を逸脱してしまうことはあり得るのだ。
篤は、「場違いな客」かもしれない相手にどう行動するのか──。
この作品は最後まで決して気を抜かないようにご注意を。短編なのに、どの登場人物も単調な行動はしてこない。彼らをわかった気になって読んでいると足元をすくわれてしまうかもしれない。
続いては「スタンドプレイ」。
西村という女性が主人公だ。彼女は高校で数学を担当していた。ある日彼女は終電を逃してしまうことで、日常を逸脱することに──。
この話は現実でもあり得そうで、どうしてこうなってしまうのだろうと考えさせられる。小説なので主人公が進む道を傍観するしかないはずなのだが、彼女をほおっておいてはいけない気がする。そんなふうに読者も一緒に考えながら進めていく作品だ。読者参加型の、ある意味マルチエンディング小説と言えるかもしれない。当然ながら結末は書いてある。ひとつだけだ。しかし、同時に違う結末が見える人は少なくないだろう。今回はこうだったが、この話は違うパターンもきっとある、そんなふうに思わされる。
ここに書かれているエンディングはハッピーエンドか、バッドエンドか。
ぜひ、確認してほしい。
最後は「占い師B」。タイトルの通り、坂東イリスという占い師の女性が主人公だ。坂東は出張占いで生計を立てていた。彼女のもとには仕事や恋愛の悩みを占ってほしいという客がやってくる。やってくると言っても、店を構えているわけではないので駅で待ち合わせをし、喫茶店などで占いをすることになる。
ある日、いつも通り客と待ち合わせをしていると、来たのは若い女性だった。黒縁眼鏡におかっぱ頭、服装はオフィスカジュアル風だった。
歩くたびに黒髪のボブヘアが揺れる。レンズが光に反射しているのか、眼鏡の奥にある目は見えない。
これはまた、えらく真面目そうな奴が来たものだ。
真面目そうな彼女が占ってほしいこととは──。
私はいままで占ってもらったことがない。そしてあまり占いを信じていなかった。だがこの作品を読んだあとは占いをむやみやたらに疑うのも、盲信するくらい危険なのかもしれないと思った。
本書のテーマは逸脱。なので今回もまた日常を逸脱していく。
逸脱とは、枠からはずれてしまうことだ。そしてはずれたあとはどうなるのかというと、いずれまたどこかに落ち着くことになる。人はずっと宙に浮いていられない。ただし、枠からはずれたことばかりに気をとられていたら、着地のタイミングを逃してしまう。状況と向き合えば、はずれてもまた戻ることも、違う枠を見つけることもできる。そんなことを「占い師B」は気づかせてくれた。この作品には「場違いな客」「スタンドプレイ」との繋がりがある。ふと瞬間に他の作品とすれ違うことができるのも楽しみのひとつだ。
「場違いな客」「スタンドプレイ」「占い師B」、逸脱した彼らの物語はこの世界の枠をただ否定し、自身だけを肯定するような単純な話ではない。
脱した彼らの物語はきっと今後のあなたの人生で、すとんと綺麗に着地してくれるに違いない。

