秋の夜に読みたくなる物語~播磨国風土記から2話~
川瀬流水です。秋のお彼岸も過ぎ、
朝夕は、だいぶ涼しくなってきましたが、天気の長期予報では、10月はまだ全国的に高温傾向にあるとのことでした。しばらくは、気が抜けません。
先日、姫路の北側にある「福崎町」(ふくさきちょう)に行ってきました。年来の友人が住んでいることもあって、以前は、毎年8月に開催される「山桃忌」(さんとうき)に参加していましたが、次第に足が遠のいてしまい、ここ十数年訪れることもなくなっていました。
山桃忌は、福崎町が生んだ二人の偉人、民俗学の父「柳田國男」(やなぎた・くにお)と、医師・国文学者で歌人の次兄「井上通泰」(いのうえ・みちやす)の偉業を偲んで、祥月の8月に開催されています。
今年、ケガで入院した友人の見舞いに、久しぶりに訪れたのですが、そのとき初めて、今年の山桃忌が終わっていることに気がつきました。
今年は、柳田國男生誕150年記念イベントと合わせて、盛大に開催されたようです。後日入手したパンフレットをみると、パネリストのなかに「小泉凡」(こいずみ・ぼん)氏の名前を見つけました。
同氏は、9月29日(月)から始まるNHK朝ドラ「ばけばけ」の主人公である「小泉セツ」とその夫「小泉八雲」の曽孫にあたられます。ご専門は、小泉八雲の民俗学的研究や、ケルト口承文化研究など
私は、前回、2011(平成23)年に福崎町を訪れたとき、今回と同様、山桃忌と柳田國男没後50年記念イベントが合せて開催される場に参加することができました。その際も、小泉氏が、パネリストとして出席されておられました。

私は、小さな頃から、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850~1904)が好きで、『怪談』など何度も読み返した記憶があります。怪異や霊異に惹かれる彼の感性は、日本人の心情と深くシンクロしながら、独自の色合いも加味され、依拠する原典を超える魅力を生み出しているように感じています。
今回は、山桃忌にちなんで、柳田國男・井上通泰ゆかりの地、かつての「播磨国」(はりまのくに)を舞台に選び、小泉八雲に敬意を表して、少し不思議な物語を取り上げてみたいと思います。

播磨国は、上図赤枠で示したように、かつて12の「郡」(こほり)からなっていました。柳田國男や井上通泰の生まれ故郷である福崎町は、このなかの中央上部「神崎郡」(かむさきのこほり)に含まれます。
現在の福崎町の様子を図で示すと、下のとおりです。

JR姫路駅から播但線に乗り、約30分で福崎駅に着きます。ここから市川を挟んで東側に、柳田國男生家や記念館・資料館などが立ち並ぶエリアがあります。
徒歩だと、駅から30分近くかかりますが、レンタサイクルを借りると、快適で便利です。マイカーだと、中国道の福崎ICで、播但連絡道に乗り換え、近くの福崎北ランプで降りれば、数分で着きます。
柳田國男の生家は、もともと町の中心部、辻川(つじかわ)にありましたが、後年、少し北にあたる現在地に移築されました。
4畳半と3畳×2間の四角い茅葺きの家で、一時期新婚だった兄「松岡鼎」(まつおか・かなえ)の夫婦が同居していました。しかし、厳格な姑と兄嫁が反目するようになり、兄嫁はわずか1年ばかりで実家に帰ってしまいます。
後年、柳田國男は、著書『故郷七十年』のなかで「・・・こうした兄の悲劇を思うとき、「私の家は日本一小さい家だ」ということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささ、という運命から、私の民俗学への志も源を発したといってよい・・・」と述べています。

井上通泰(1867~1941)は、柳田國男(1875~1962)の8歳年上の次兄で、12歳のとき、医者の井上家で養子となりました。医師として勤めるかたわら、歌人・国文学者としても活躍し、1931(昭和6)年に『播磨国風土記新考』を著しています。

「風土記」(ふどき、古風土記)は、奈良時代初期に編さんされた官撰の地誌で、国ごとに地名の由来・産物・古伝承などを記し、朝廷に報告されました。平安初期に書かれた『続日本紀』(しゃく・にほんぎ)によると、713(和銅6)年、元明天皇(げんめい・てんのう、女帝、660~721)の命により、編さんが始まったとされています。
現存する風土記は、出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の5か国で、すべて写本であり、このうち完本は出雲のみです。
『播磨国風土記』は、冒頭の総説、明石郡・赤穂郡が欠落していますが、登場するキャラクターは多彩です。
大汝命(おほなむちのみこと)と少日子根命(すくなひこねのみこと)、天日槍命(あめのひぼこのみこと)、伊和大神(いわのおおかみ)などの神々
大帯日子命(おほたらしひこのみこと、景行天皇)と印南別嬢(いなみのわきいらつめ)、帯中日子命(たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇)と息長帯日女命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、品太天皇(ほむだのすめらみこと、応神天皇)などの天皇やその后
そして、シカの腹を裂いて夫と国占め(くにしめ、領地争い)をする賛用都比売命(さよつひめのみこと)、盟酒(うけひざけ)を試す逞しいシングルマザー道主日女命(みちぬしひめのみこと)、意奚(おけ)と袁奚(をけ)の二人の皇子に愛され悲運に生きた根日女命(ねひめのみこと)など、魅力あふれる女神(女性)たちも登場します。
播磨国は、都と九州を結ぶ東西交通、日本海と瀬戸内海を結ぶ南北交通が交差する要衝の地にあり、現在の姫路を中心に平野が広がる、豊かな国でした。そのため、風土記には、周辺諸国や海外からの来訪者に関する記述が、多くみられます。
播磨国風土記に、不思議な物語が多いのは、このような背景があるからなのかもしれません。
今回は、井上通泰の『播磨国新考』(以下『新考』と略称)と、秋元吉徳(あきもと・よしのり)著『播磨国風土記 全訳注』(鉄野昌弘補、講談社、2024、以下『全訳注』と略称)に基づき、こうした物語のなかから、少し怖くて、不思議な味わいのものを2つ、取り上げてみたいと思います。
〇揖保郡 広山里 麻打山
「播磨国の南西部の「揖保郡」(いひぼのこほり)にある「広山里」(ひろやまのさと)に、ある山がありました。但馬国の人、伊頭志君麻良比(いずしのきみ・まらひ)が、この山に家を構えて住んでいました。二人の娘が、夜に麻を打ったところ、たちまち、その麻を自分の胸に置いて、死んでしまいました。それで、この山を「麻打山」(あさうちやま)といいます。今なお、このあたりに住んでいる人は、夜になれば、麻を打たないといいます。土地の人の言い伝えによると、讃伎国(さぬきのくに)」
(注)「今なお、」以下の文章は、風土記編さん時点での出来事
この物語のなかにある「娘が、夜に麻を打ったところ、たちまち、その麻を自分の胸に置いて、死んでしまった」とは、何を意味しているのでしょうか。
「麻打ち」は、精麻(せいま)、すなわち麻の茎から分離した靭皮(じんぴ、繊維部分)、を糸にする工程のひとつで、束ねた精麻を床などに打ちつけて、柔らかくする作業を指します。あまり詳しくは知りませんが、古代においても、基本的な作業内容は、同じようなものではなかったかと思います。
女性が夜の手仕事として麻打ちをするのは、古代においても、生産的なプラスのイメージをもつ行為と捉えられていたのではないか、と思ってしまいますが、それがどうして死につながるのか、不勉強で申し訳ありませんが、今でも不思議に思っています。
また、この物語の最後の部分は「・・讃伎国」で突然終わっています。これについては、『新考』をはじめ諸説ありますが、今のところ、よく分かっていない、ということのようです。
この終わり方を目にするとき、思わず、小泉八雲の『怪談』に収められた「茶碗の中」の最後の部分を思い出してしまいます。物語が佳境にさしかかったとき、「・・・影のように舞い上がっていった。そして」と突然終わるのです。
このことについて、八雲は、物語を未完のまま終えることは、「文学的観点からいえば、その時に味わった感覚の強烈さと、その感覚が遺す記憶の鮮やかさが、(大きな価値を生み出すことを)何より雄弁に物語る」と述べています。
風土記が、朝廷に報告された官撰の地誌であることを考慮すると、意図的にこのような終わり方を選択したとは考えにくいですが、この物語の不気味さと相まって、読者に強い印象を与える効果を生み出しているように思われます。
『新考』を参考にすると、広山里は、現在の「たつの市誉田町(ほんだちょう)広山」にあたるようです。ここには、神功皇后や応神天皇等を祀る「阿宗(あそう)神社」があります。また、広山の東南にある現在の「太子町阿曽」の「阿曽」(あそ)について、『新考』は、「麻打」(あさうち)からきており、阿曽は古くは「阿宗」と書かれた、としています。


いずれにしても、風土記の「麻打山」は、現在の誉田町広山から太子町阿曽にかけてのエリアのどこかにあったのかもしれません。
太子町阿曽の東方には、聖徳太子ゆかりの名刹「斑鳩寺」(いかるがでら)がありますので、一度訪れてみられるのもよいと思います。


斑鳩寺へのアクセスは、JR姫路駅北口から、龍野行きの神姫バスに乗り、斑鳩寺は「鵤(いかるが)バス停」、阿宗神社は「広山バス停」で下車、ともに徒歩数分で着きます。マイカーだと、国道2号(太子竜野バイパス)福田ランプから、ともに数分程度で着きます。

〇讃容郡 中川里
(前段)「播磨国西部の「讃容郡」(さよのこほり)に「中川里」(なかつがはのさと)があります。昔、近江天皇(おうみのすめらみこと、天智天皇)の御代に、丸部具(わにべのそなう)という人がいました。この人は、仲川里(中川里に同じ)の住人でした。彼が、河内国(かわちのくに)の免寸(うき)の村人が所有していた剣を買い取りました。ところが、この剣を手に入れたのち、その一族は一人残らず死滅してしまいました。」
(中段)「その後、苫編部犬猪(とまみべのいぬい)という人が、死滅した一族の土地のあとを耕して、畠を作ったところ、地中から、剣を見つけました。剣の周囲1尺ばかりは、地面から離れていました。その柄は、朽ちて無くなっていましたが、刃は錆びることなく、その光はまるで明るい鏡のようでした。不思議に思った犬猪は、剣を取り上げて家に持ち帰り、すぐに鍛冶師を呼んで、その刃を焼かせました。すると、この剣は伸び縮みして、まるで蛇のようでした。鍛冶師は大変驚いて、そのまま仕事を止めてしまいました。犬猪は、不思議な霊力をもつ剣だと思い、朝廷に献上しました。」
(下段)「その後、浄御原朝庭(きよみはらのみかど、天武天皇の代)の甲申年(きのえさるのとし、684年)の7月に、朝廷は、曽根連麿(そねのむらじまろ)を派遣して、この剣を元のところに送り返しました。現在も、この里の御宅(みやけ)に安置してあります。」
この物語もまた、多くの謎に満ちています。
登場する霊剣の出自は明らかにされず、河内国免寸の村人から買い取ったとされるのみです。「免寸」については、読み方も所在地も定まっていないようですが、『新考』では、『古事記』の仁徳天皇の段に出てくる、免寸河の西にあった高樹を切って「枯野」(からの)という船を作った物語の「免寸河」と同じ場所であろう、としています。高樹と霊剣という2つの超越的な存在に、なにか通じるものを感じます。
この霊剣は、朝廷に献上されますが、何らかの事情で、元の場所に返されます。『全訳注』は、『日本書紀』の天武天皇の段で、686年、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の祟りで天皇が病に罹った、との占いが出て、剣が尾張国の熱田神宮に返された、という記述に着目しています。風土記の霊剣返却は、684年で、まだ天皇は健在でしたが、災害発生の記録があることから、霊剣の祟りが疑われたのかもしれない、としています。
このような強い威力をもつ霊剣は、元に戻されたあと、今も中川里の御宅に安置してある、と記されていますが、その後、どうなったのでしょうか。
これについては、神社に祀られている、あるいは、そもそも古墳から出土した「蛇行剣」(だこうけん)のようなものを想定すべきであり、その視点から考える必要があるなど、諸説あるようですが、定まったものはないようです。
『新考』や『全訳注』によると、中川(なかつがは)は、播磨国西部を流れる千種川(ちぐさがは)と、その東側にある本郷川の間を結ぶ「志文川」(しぶみがは)を指し、中川里はその流域エリアで、現在の「佐用郡三日月」にあたるのではないか、としています。



三日月に行くには、JR姫路駅から姫新線を使うと、50分少々で「三日月駅」に着きます。志文川は、駅から歩いてすぐのところにあります。
ここで少し足を延ばし、三日月駅から、再び姫新線に乗って、10分少々行くと「佐用(さよ)駅」に着きます。当駅は、東西の姫新線と南北の智頭急行が交差する交通の要衝で、両者の駅は隣接し、比較的簡単に乗り換えることができます。ここで、智頭急行に乗り換え、岡山・鳥取方面に15分ほどいくと、「宮本武蔵駅」に着きます。

剣豪「宮本武蔵」の出生地については、従来から論争があり、いまだ定説はありませんが、候補地は3か所、そのいずれも、播磨国か、その隣接地にあります。ひとつは、兵庫県揖保郡太子町宮本、次に、かつての印南郡にある高砂市米田町米田、三つめは、かつての美作国にある岡山県美作市宮本、上記の「宮本武蔵駅」は、このなかの美作市宮本に隣接する今岡地区に設置されています。
風土記にある霊剣が、その後どうなったか、定かではありませんが、もし仮に、再び中川里(三日月)のどこかに秘されていて、播磨国やその近隣に、強大な霊威を及ぼし、のちの剣豪を生み出す原動力となったと想像すると、何かゾクッとするようなロマンさを感じてしまいます。
今回の取材の旅の最後に、JR姫路駅のプラットホームにある「まねき食品」のお店で、姫路のソウルフード「天ぷらえきそば」をいただきました。


かんすい入りオリジナル中華麺と和風出汁の組み合わせに、天ぷらのサクッとした食感が合わさって、ここでしか味わえない、旅先最後の至高の一杯をいただくことができました。
秋が深まる頃に、再び播磨の地を訪れてみたい、と思っています。
