読書記録「イン・ザ・メガチャーチ」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、朝井リョウさんの「イン・ザ・メガチャーチ」日本経済新聞出版 (2025) です!

・あらすじ
「推し活」とは、アイドルや俳優、YouTuberなど、自分が一番に応援したい「推し」の存在を、様々な形で応援し、愛でる活動である。
動画の再生回数を伸ばす、Xのトレンド入りを目指す、CDの売上を増やす、ライブやコンサートに行く、推しの聖地を巡礼する⋯⋯。強弱に差はあれど、「推し」が有名になるほど、その素晴らしさに陶酔する。
人々は「推し」が頑張るという、その「物語」に魅了される。
「物語への没入というのは、手っ取り早く我を忘れるために有効な手段の一つなんですよね」
人生は積み重ねだと考えていたが、今後還ってくるのは、自分がやってこなかったことかもしれない。妻と離婚し、娘とは月に一度のオンライン通話でしか話さず、一人インスタント味噌汁をつくる久保田慶彦は思った。
自宅と職場の往復、生意気な部下、メリハリのない日々。そんなある日、音楽業界に長らく勤めている久保田は、あるアイドルグループの「物語」の脚本担当に抜擢される。
MBTI診断で「INFP(仲介者)」と診断された者は、内向的で感受性が強い、言い換えれば生きづらい繊細さんである。集団に馴染めず、つい周りの人々に合わせてしまう生き方を、武藤澄香は呪った。
こんな性格では、留学はおろか、仕事もできないのでは。そんなとき、武藤は「Bloome」の垣花道哉を知る。同じINFPでありながら、アイドルを目指す健気さに惹かれる。
今思えば、「推し」のいる日々はなんと視野が狭かったのだろうか。Xのトレンド入りやCDの売上枚数、ライブのチケットに当選するか否か、そんな小さい世界しか見ていなかったと、隅川絢子は思った
偏向報道、陰謀説、真実を報道しないマスメディア。俳優の藤見倫太郎が自殺したというニュースを見た時、これが黒幕による陰謀なのだと、隅川には考えもつかなかった。
2026年の第23回本屋大賞の受賞作。東京読書俱楽部の課題本企画 偏愛読書会「朝井リョウ」編に向けて紐解いた次第。
話題作とあって、読書会でもたびたび話には聞いていた本作。「推し活」がテーマとあって色々な意見は伺うが、その影響力は凄まじく。
実際、本作を読んだある知り合いは、自ら主催していた読書会を締めた。
話を聞くに、本作を読んだ以外にも(決してネガティブではない)理由はいくつかあるけれども、それだけ衝撃を受けたらしい。
そんな本作は、「推し活」を進める企業側の人間、「推し活」にハマり始めた若者、かつて「推し活」をしていた女性、3つの視点から物語が進む。
立場も視点もぜんぜん違うはずなのに、それぞれの立場の人々に感情移入してしまう。
それは私が、孤独な未婚の男性であり、元アニメオタク(ラブライバー)であり、MBTI診断は「INFP」だからだろう。
※ 以降では、ネタバレを含む感想を記していきます。
本作は「推し活」が題材となっているが、その根本は「視野」の話をしていると思われる。
視野には大きく、「広い視野」と「狭い視野」に分かれる。
例えば「広い視野」だと、SDGsや多様性とか、自分の行動が世界にとってどう影響を与えるのかを考えるように。「狭い視野」だと、周囲や他人への影響など考えずに、自分が良いと思えることばかり選ぶように。
だが実際のところ、「広い視野」を持っているから選択肢が増えるわけでもなく、逆に「狭い視野」を持っているがゆえに、選択の余地は大幅に増えることもある。
SDGsを気にするあまり、最適解は徐々に少なくなっていく。環境のためを掲げれば、プラスチック製品を使わない、環境に配慮した製品しか選べない。減点法で選択肢を狭めていくと、出来ることは最小限となる。
一方、「推し活」をしている人は、それが「推し」と関係するものであれば、何でも自分に還元される。プラスチック製のDVDを観るのも、環境に配慮しない素材の推しのカラーでまとめた服を着るのも、コミケで推しの同人誌を書くのも、すべて「推し活」に通じる。
ぶっちゃけた事を言えば、「推しが訪れた飲食店」に行ったところで、推しに何のメリットもない(はず)。それでも、自分は満足できる。
それゆえに、「推し活」を推進する企業側にとっては、なるべく「推し」に陶酔してもらいたいと画策している。
そこには「物語」が必要であり、ファンたちはその物語をこぞって受け入れる。
「差し出された物語に自ら乗り込み、没入していける気質の人。物語と自分との境界線が曖昧になるほど共感能力が高く、何でも自分ごととして捉えがちな人。没頭度が高く、自らの視野を狭めていける人。ひいては自ら拡散や布教に励んでくれる人」
私自身で言うと、学生時代はそこそこの「ラブライバー」だった。もちろん、今でもラブライブの楽曲はよく聴いている。
最推しはμ'sの南ことり。幼馴染の高坂穂乃果に誘われて、一緒に初めたスクールアイドル。手芸とお菓子作りが得意で、チーズケーキが大好き。飛行機で忘れ物に気づいて、「枕」を取りに戻るほど(でも帽子を忘れちゃうのよね)。
あの頃は南ことりのTシャツを着て、南ことりのマグカップを使い、南ことりの同人誌を買っていた。いや、正直に言えば、今でも南ことりのパスケースを用いて会社に出社している。
イベントでは南ことりの立て看板の前で写真を取り、ミナリンスキーが勤めるという秋葉原の「キュアメイドカフェ」に通う。人気投票があれば、当然南ことりに票を入れる。
今思えば、楽しい時期だったのかもしれない。「推し」がいるということは。
本質的でないものこそ、熱量の高い布教が必要になる。
相手の視野を狭める必要があるから。
相手の脳を溶かし、判断能力を鈍らせる必要があるから。
そんなこと、本当はずっとわかっていた。
ただ私の場合、「南ことり」を推しているだけで、現実のμ'sにはそこまで興味はなかった。だからライブには一度も行ったことがない。
それと、ソシャゲ(ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル)への課金もしていない。
勿論、南ことりイベのときにはなるべく頑張って時間を費やしたといはいえ、ランキング上位を目指すほどの熱量もなかった。
もちろん、自分の周りには重度のラブライバーはいた。わざわざ地方のライブまで遠征したり、ファンミーティングに参加したり。
でも自分にはそこまでのめり込むほどの熱量はなかった。ラブライブの良さを、他の誰かに布教する気持ちもそこまでなく。
学生時代には、アニメやラブライブの話ができる友だちがいたし、熱が冷めた今となっては、個人の範疇で楽しんでいる。と言うか、今更μ'sのファンを集うのも無理がある。
恐らくだが、私がそこまでSNS(XやFacebook)をやらずに生きてきたのも関係していると思われる。
ラブライブが世間でどう思われているのか、他のラブライバーはどんな感情を抱いているのか、そういうのに興味があまりなく。
少々話が逸れるけれども、朝井リョウさんの「何者」を読んだときにも思ったのだが、どうしてそんなに他人を気にするのだろう。
昔から「他人の目」ってのをそこまで気にせず生きてきたからか(誰かの眼中にない状態が続けば、自ずとそうなる)。カラオケで自分が好きなμ'sの曲を歌って何が悪い。みんなだって自分が好きな曲を歌っているのに。
逆に言えば、他人が誰を好きになろうが、誰を推そうが、私には何の関係もないわけで。その辺は別作品の「正欲」にも通じるかな。
話を戻すが、要は非常に狭い視野で世界を見ており、それを喜んで享受していたということ。本作の言葉を借りるなら、信者気質というより、疑似恋愛気質だったのかもね。
ただ言ってしまえば、アニメキャラなど、所詮は脚本家が作り上げた「物語」に過ぎない。
高坂穂乃果の幼馴染で、チーズケーキが好きで、ちょっと天然が入っているけれども、しっかり芯のある女の子。企業側が「こういう女の子が好きなんだろう?」という思惑で作り上げられた偶像でしかない。
だが、そんな仮想の存在を好きになったのだ。そのためにお金や時間を使うことに、幸せを感じていたのだ。
結局誰だって、信じる物語を決めて生きているだけだ。それが世界平和だったり自己啓発だったり陰謀論だったりするだけで、皆各々のドラッグで自分で自分の脳を溶かしながら死ぬまで生きるだけ。どうせ全部ドラッグではあるんだから、正しいとかおかしいとか素晴らしいとか真っ当じゃないとか、そういう論争は無意味でしかない。
宗教であれアイドルであれ。週末の自己啓発セミナーであれ、SNSに蔓延る陰謀論であれ。人間は「物語」を信じずにはいられない。
ネットの情報を鵜呑みにして信憑性のない陰謀論を信じるのも、権威性のある教会の牧師から有り難い言葉を聞くのも、本質的には何も変わらない。
この世には「正解」がないのだから(正確に言えば、「正解」と思われていた行動が必ずしも「正解」ではなくなったから)、どっちを信じようとも、その人の自由である。
もちろん、それの物語を何も信じない生き方もある。
特定の誰かに陶酔すること無く、SNSの情報を盲目的に信じることもなく。それもまた、「失敗」のない選択肢ではある。
言うなれば、「広い視野」も「狭い視野」も持たない。中立と言えば聞こえは良い。ただそれが「幸せ」かは、また判断が分かれる。
個人的な解釈だが、視野には「軸」が必要となる。広い視野を見るには高いところに登る必要があるように、何かしらの支えが必要となる。
その軸を構築するのが難しいから困っている(他人の作り上げた物語に頼る)とは言え、そんな軸のない人生は、少々味気ない。
今は東京読書倶楽部という読書会の主催をしているから、他人と関わりを持って生きているし、それを軸に様々な人が集まって、好きな本を語る場を作り上げている。
もしこれらをやってこなかったとしたら、私の人生は、もっと違っていただろう。おそらく、「味気ない」人生を送ったかもしれない(当然、その結果「やらなかったこと」の代償を払いつつある。具体的には、恋愛関係など)。
何が言いたいのかといえば、結論はそういう「軸」があったほうが、何事も楽しいのではないかってこと。
それが自分で作り上げたものであれ、他人が考えた教義であれ、物語を信じれるってのは、薬にも毒にもなる。
所詮は「ドラッグ」だ。適度に摂取すれば救われるし、過剰に摂りすぎれば致死に至る。肉体的にも、精神的にも。
それでも個人的には、やはり何かを「推す」と言う、「何かを推せる」人生ってのは、良いものだと思った次第。それではまた次回!
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