まち歩きマップ「和泉そぞろ」de街クネしてみた ~桃山学院大学から久保惣記念美術館の段~
大阪府和泉市の情報を勝手に発信する「勝手に和泉市ラボ」。
今回の「勝手に和泉市ラボ」はラボ長のガミがお届けします。
いずみ市民大学まちづくり学科のみなさんが作った街歩きマップ「和泉そぞろ」を見ながら、街クネをするシリーズ第4弾!
今回は和泉中央駅から桃山学院大学を通り、久保惣記念美術館の周辺を街クネしてきました。
「和泉そぞろ」を見ながら、久保惣記念美術館を目指して街歩き!
今回参考にしたまち歩きマップ「和泉そぞろ」はこちら!

(和泉市民大学まちづくり学科5期生作成)
今回の和泉そぞろのマップ、実は11月30日に開催された「トカイナカいずみ景観さんぽ2025秋」のBまちなみコースで使われていました。


このイベントでは和泉そぞろをプロデュースする
陸奥賢先生が直々に解説していました
今回のスタートは和泉中央駅
1995年(平成7年)4月1日に開業した和泉中央駅。開通当時は第三セクターの泉北高速鉄道が運営していましたが、現在は南海電鉄の泉北線となり、泉北線の終点駅になりました。ちなみの和泉市には4つの駅がありますが、海側を走るJR阪和線の快速停車駅・和泉府中駅と並ぶ和泉市の主要駅です。

周辺には商業施設や公共施設、住宅などが集まっています
和泉中央駅から和泉シティプラザへ

和泉シティプラザへ向かいます

市民の文化活動拠点として計画された市役所出張所、図書館、保健福祉センター、生涯学習センター、多目的ホール、男女参画センターの6つの機能が複合する施設。ちなみに生涯学習「いずみ市民大学」もこちらの施設で開かれています。

葛飾北斎の「冨嶽三十六景 凱風快晴」を
モチーフにした壁面画

千円札の裏面にも描かれている
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が
ちなみにこの2点の浮世絵は、これから訪れる和泉市久保惣記念美術館の収蔵品でもあります。
和泉シティプラザを抜けて、次の目的地へ向かいます。

ちなみにこの道は桃山学院大学の通学路として多くの人たちが行き来しています。

桃山学院大学へは目の前のトンネルを通るのですが、和泉そぞろは横の脇道を通って、上の道路へと向かいます。
ちなみに和泉中央駅から桃山学院大学に続く道には、和泉・久保惣ミュージアムタウン構想の一つ「ART GUSH(アートガッシュ)」プロジェクトの一環として、多くのクリエイターさんが久保惣記念美術館の収蔵品をモチーフにした作品がいたるところに描かれています。

白狐「葛の葉」伝説をモチーフにした作品
元ネタは歌川広重の「小倉擬百人一首 中納言兼輔」
(和泉市久保惣記念美術館 収蔵品)

元ネタ「時代不同歌合絵 断簡」
(和泉市久保惣記念美術館 収蔵品)

実はこの道路は、和泉中央が開発される前からある旧の道で、周辺の石尾地域(万町)と内田町、唐国町などを結ぶ交通の主要な道だったそうです。

昔もこのあたりの村を一望できる道だったでしょう

給水塔があるのはここが周りよりも少し位置に
あるからではないでしょうか
ちなみにこの水道局の給水塔は以前、給水塔巡りの時に紹介しています。まだ読んでない方はこちらもご覧ください。
石尾墓地から石尾山・弘法寺へ
水道局から少し進むと次の目的地へと到着。

墓地を目的地にするのは
和泉そぞろでは「あるある」です

石尾墓地には代々、万町村の庄屋を務めた
伏屋(ふせや)一族のお墓があります
太田亮「姓氏家系辞書』によれば伏屋一族は豊臣秀吉の家臣であった伏屋飛騨守一安に始まるといいます(諸説あります)。17世紀後半の当主・伏屋長左衛門重賢(1638?~1693)は文人としても知られ、俳諧師の西山宗因(井原西鶴の師匠)と交流して高野山を案内しました。
また伏屋の分家筋で酒造業を営んでいた伏屋重の養子に入ったのが伏屋素秋(1747~1811)で、漢方医から蘭学医となり、腎臓に墨汁を注入する実験で腎臓の機能が濾過作用であることを解明しました。
伏屋一族は江戸期の和泉を代表する名士・名族といえるでしょう。
池田郷と呼ばれるこの周辺の庄屋を務めた伏屋一族。後ほど紹介する国学の祖「契沖」との関りや、この地域の開発に携わるなど、地域の発展の礎を築きました。
石尾墓地から少し歩くと次の目的地に到着。

古くから「石尾のお大師さん」として親しまれている弘法寺。
山門の脇には力強い仁王像、門前の左右には優しい姿の子ぼんさんが並んでいます。
高野山真言宗の寺院で、山号は「石尾山」といいます。寺伝では「槇尾山」「松尾寺」と共に「泉州の三尾」と呼ばれ、大同年間(806~810)に弘法大師・空海が横尾山登頂の際に道場として開創され、弘仁年間(810~824)に地元豪族の伏屋長者の寄進によって一字が建立されたといいます。また脇仏の地蔵菩薩は「福徳地蔵」と親しまれ、このお地蔵さまの功徳で万金を持つ長者が大勢、当地に住み、これが「万町村」の名の由来となったという言い伝えもあります。


本尊の左右にある鮮やかな屏風絵ですが、和泉市特別文化功労者で万町在住の日本画家・高野山画僧の藤原祐寛(重夫)氏が奉納されたものです。
屏風絵は万町の「阿弥陀ヶ原の伝説」(夜な夜な発光する野原があり、見に行くと鳳凰の鳴き声が聞こえ、見ると松の枝に阿弥陀如来の仏絵がかかっていたといいます)などを織り込んだものです。
このほかにもたくさんの仏像などがあります。

ぼけよけ地蔵霊場 第二十番札所でもあります

真言宗では十三の仏を特に大切にします。それぞれの仏さまのお姿と功徳は脇にある石碑に刻まれていますので、お立ち寄りの際にご覧ください。
般若心経が彫られたマニ車は「一転一念」。一回まわすと般若心経を一度唱えたのと同じ功徳が得られると言われています。ただし回転がよすぎるので、まわしすぎには注意!?
この他にも本堂の裏にあるおがみ山の頂上には白衣観音があったりと、ここだけでも見どころ満載。すべてを見るには時間が足りないため、後ろ髪を引かれながら次の目的地へ向かいます。
石尾中学校から桃山学院大学へ


江戸時代中期の真言宗僧侶・契沖(1640~1701)は一時期、万町村の庄屋・伏屋重賢屋敷内にあった「養寿庵」に寄していました。
契沖の祖父は加療清正の家臣であり、伏屋一族も季吉の家臣の子孫であったというので、親交があったのかも知れません。契沖は伏屋が所蔵する膨大な和漢書を読み、梵語(サンスクリット語)の研究を深めたといいます。その後、契沖は徳川光圀公の依頼を受けて『万葉代匠記』を執筆しました。その偉大な業績から「国学の祖』と褒め称えられ、石尾中学校前に記念碑が建立されています。
日本史を勉強してると江戸時代の学問の項目で必ず出てくる契沖。名前は聞くけど何をした人?って感じですが、実はこの和泉の地で和漢書を読み漁って勉強し、あの水戸黄門のモデルとなった徳川光圀の依頼で万葉時代の研究に励み、その知識が「国学」(仏教や儒教が伝来する以前の、日本固有の精神や文化、道(古道)を明らかにしようとした学問)の基礎となりました。
この「国学」ですが、のちの時代に本居宣長(国学を大成。「もののあはれ」論を提唱)や平田篤胤(宣長の門人で、復古神道を大成させ、国学を庶民層へ普及させる)が国学を確立し、尊王攘夷運動の思想的支柱となり、明治維新後の神仏分離や国家神道の淵源ともなりました。
そんな日本の源流を追求した学問を確立した偉大な人物がこの和泉市にいたとは驚き!和泉市はこの偉大な人物「契沖」をもっと推してもいいのでは?!
そんな思いを胸に秘めて、次の目的地・桃山学院大学を目指します。

向かう途中に見かけた頭上の歩道橋は和泉シティプラザからトンネルを抜けて桃山学院大学に向かうショートカットの道。
たしかに目的地に向かうには便利な道ですが、街クネするには不向きな感じがするなぁ、と感じます。

なんやかんやいいながら進むと、桃山学院大学が見えてきました。

架けられた陸橋「まなび野橋」
かつて登美丘キャンパスにあった「聖アンデレ橋」を模したランドマーク的陸橋。ちなみに主塔の「H」の形はHumanとHistonyを意味するそうです。

桃山学院大学
明治初期に来日した英国人教師ワレン師(1841~1899)は大阪・川口居留地で伝道活動を行いました。
明治17年(1884)には聖三一教会に三一小学校と三一神学校を開設し、これが桃山学院のルーツです。
明治23年(1890)、高等英学校を設立し、現在の天王寺区筆ヶ崎町(桃山界隈)に移転。その後、明治28年(1895)に桃山学院と改称しました。明治35年(1902)には大阪で最初の私立中学校として桃山中学校を開校。大正時代には、のちのニッカウヰスキー創業者で「日本のウイスキーの父」と呼ばれる竹鶴政孝が一時期、化学の教員として雇われています。これは竹鶴の妻リタが桃山中学校校長のローリングス師の夫人と親しく交流していたことがキッカケでした。戦後の昭和34年(1959)にはプロテスタント日本宜教100周年を記念して桃山学院大学を開学。平成7年(1995)にキャンパスを和泉市に移転しました。
なんと!NHKの2014年後期連続テレビ小説「マッサン」のモデルとなった竹鶴政孝・リタ夫妻が桃山学院大学と関わっていたとは!!
現在「マッサン」が再放送中ですが、主人公の二人が和泉市に関わっている人かぁ、と思いながら番組を見ると、少し見方も変わるかも?!
https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/asadora/drama/d_091.html

今回の街クネはいつもと違って懐かしい街並みではなく、
整えられた都会的な街歩きといった雰囲気です

環境に配慮した未来志向の循環社会型キャンパス。企業や行政、団体、そして近隣住民との連携を深めるための広場として、新たな地域連携と交流の拠点となります。


聖救主礼拝堂(チャペル)
チャペルを見ると、いずみ万博でのプロジェクションマッピングが思い出されます。
ほかにも大学のキャンパス内には見どころがいっぱいあります。


桃山学院大学から内田町へ
桃山学院大学のメイン通りを登っていくと、宮ノ上公園、そしていずみの国歴史館が見えます。

桃山学院大学に隣接する宮ノ上公園の一角、まなびのプラザにある資料館。常設展「和泉史-ひとのくらしもの語り-」では、市内の遺跡の出土品や、地域に伝わる古文書、旧町村役場公文書、民俗資料などを展示している。
和泉市にちなんだテーマを取り上げた特別展、歴史講座、古文書講座の開催や、勾玉作りなどの体験学習も実施している。

日本最大級の須恵器の大甕(近隣の窯跡から出土)

浮世絵の中のいきもの展が開催されています

「ART GUSH(アートガッシュ)」プロジェクトの作品の一つ
私の大好きな上田バロン氏の作品が!
いずみの国歴史館を後に、宮ノ上公園を通っていきます。

公園内に次の目的地があります



和泉市は至るところで古墳が発掘されているなぁと感じます。
そういう意味では和泉市は昔から人が住みやすい環境ではないでしょうか?


街中を歩いて、内田町の氏神様の神社へと向かいます。


コンパクトにまとまっています
明治22年(188984月1日、和泉郡の寺田村、箕形村、唐国村、内田村が合併して和泉「北松尾村」が発足しました。
名称の由来は松尾谷の北側に位置するので北松尾村なのですが、中世、松尾谷の一帯は奈良春日大社の荘園でした。これは長寛2年(1164)に膝原忠通(ただみち)の子・九条兼実(かねざね)が父の供養のために春日大社や興福寺に寄進したのが始まりといいます。その由縁で松尾谷界隈は春日神社が多いエリアとなっています。


地図にはありませんが、内田町にはノスタルジーを感じさせる建物もいくつか見られます。


趣のある建物だと思ったら、元内田農協の建物。
1960年竣工ということは築60年以上の名建築では?

アートギャラリー&カフェ「河野邸」




和泉市や南大阪産の地域食材を使用し、
フードロス削減やエコに着目して
メニュー作りをしています



ドライフラワーや焼き菓子の量り売りなどが


富有柿を使ったタルトを頂きました

後でクリームのことを尋ねてみると
隠し味にラム酒を使っているとのこと
松尾川沿いを歩いてゴールの和泉市久保惣記念美術館へ
本来「和泉そぞろ」では父鬼和気線を歩いて、ゴールの和泉市久保惣記念美術館へ向かうのですが、今回は趣を変えて松尾川沿いを歩いて向かいます。



和泉市久保翔美術館の裏側へ


外側から見ることができます


現在はいない様子


この石碑は和泉市久保惣記念美術館の設立に尽力された和泉市名誉市民・久保恒彦氏の功績を称えた石碑です。功績を称えてるのに、メインの通りや美術館の入り口から少し離れたところに石碑が建てられているのは、少し残念です。


和泉市久保惣記念美術館を最後に
今回の街クネは終了です
まとめ
今回は和泉中央駅から桃山学院大学を経て、和泉市久保惣記念美術館まで「和泉そぞろ」で街クネしてきましたが、今までの街クネとは違い、新しい町並みを歩き回った印象の内容でした。でも新しい綺麗な街並みの中に、古い町並みの顔がひょっこりと現れるという新鮮な感じで楽しい感覚の街クネでした。
「和泉そぞろ」にはいろんなタイプのマップがあることを知りました。次はどんなマップに出会うのでしょうか?楽しみです!
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