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昭和の少年マンガ・赤胴鈴之助の映画化

映画館で大映映画を最初に観た記憶は、少年漫画雑誌で人気を呼んだ「赤胴鈴之助」が映画化された1957年ごろだと思う。
 
「赤胴鈴之助」は「少年画報」という子ども向け月刊雑誌に連載され、男の子たちに圧倒的人気を誇った。
同時期に発売されていた月刊漫画雑誌は数多くあり、「冒険王」、「少年」、「ぼくら」なる月刊雑誌が、子どもたちのお気に入り漫画だった。
 
「鉄腕アトム」、「鉄人28号」なる SF漫画も子供たちに人気はあったが、自分は小難しい活字が並ぶマンガにはどうしても馴染めず、「まぼろし探偵」とか「ビリーパック」のような探偵ものに惹かれたものだ。
 
さて、そんな少年漫画界のアイドルでもある「赤胴鈴之助」が映画化されると聞いて、上映されるのを首を長くして待っていた。後に公開年月を調べたら、都会の封切館では第一作が1957年5月21日封切りとある。そうすると、自分が住む地方では、おそらく1~2ヵ月遅れは当たり前なので、梅雨前後の頃だったのだろうが、映画館に足を運んだ。

 
今でも、うっすらと記憶に残るのは、映画館の周辺には、あこがれの赤胴鈴之助の似顔絵らしき小さい立て看板が無数に並び、それが子どもたちの心を煽り、日曜日の朝一番で映画館の前に並んだ思い出がある。
 
子どもの頃なので、作品の良し悪し内容などは二の次で、ひたすら鈴之助がかもし出す「チャンバラ姿」が目的なのである。当時は一向に気づかなかったが、数年前に有料チャンネルで観たら、第一作はモノクロのスタンダード版である。あの頃は、そんなことはおかまいなしに、鈴之助が悪漢を懲らしめることで溜飲が下がる気がした。

 
1957年当時の日本映画は、普通サイズのモノクロ・スタンダード版から、シネマスコープや総天然色版に切り替わる時期だった。
 
裕次郎氏のヒット作「太陽の季節」や「狂った果実」、「俺は待ってるぜ」なども、モノクロ・スタンダードの同類項の作品である。
 
今でも懐かしく思い出されるが映画館は、上映する作品によっては、真っ白なスクリーンの大きさが左右に伸縮される仕組みになっていた。つまり、当時はまだ作品によっては、「スタンダード版」と「シネマスコープ」が混在しており、劇場側の係員がスクリーンの大きさを調整するわけだ。
 
ざっくり言うと、映画会社にとって主力作品と見なされる場合は、「シネマスコープ&総天然色」の映画、次いで「白黒のシネマスコープ版」、お子様向け番組は、製作費が安く上がる「モノクロ&スタンダード版」で仕上げ、配給収入を伸ばすこと。これが映画会社経営の鉄則で営業面における智恵なのである。
 
赤胴鈴之助は、第一作が子供たちに大反響を呼びヒットし続編が次々と作られた。おそらく、大映営業サイドにおける収益を大幅に伸ばしたことだろう。確認すると、第五話「赤胴鈴之助 新月塔の妖鬼」(1957年9月21日公開)からは、総天然色へとサービスされている。
 
また、当時問題となったのは、当初、赤胴鈴之助役を演じた梅若正二という、長身で二枚目のカッコイイ俳優さん、つまりこの映画の人気を誇る一つの要因だったが、突然、主役が替わってしまう異変が起きた。
 
その降板理由を、子供らには知る由もなく、「ガッカリ」したことを思い出す。
 
ネットのウィキペディアによる降板理由とは
梅若正二 『長身で大きな目、キップのいい語り口で、大映時代は人気が高かったが、第一線から姿を消すようになる。引退の原因としては「赤胴鈴之助」のヒットで国民的人気を得るが、そのことで不遜な態度を取るようになりスタッフから嫌われたため』という
つまり、人気におぼれ思いあがった態度をとったことが、会社側の逆鱗に触れ干されたのではないか。
 
大映という会社は、永田雅一というワンマン経営者が陣頭指揮をとり、現場に物申すことが多かったという。東映の大川博社長、日活の堀久作社長ら映画に素人の経営陣は収益さえ確保できれば、現場任せの社風を貫いたが、永田社長は現場から叩き上げた方だけに、俳優の扱いもかなり厳しかったようだ。
 
永田社長に異議を唱え、干された俳優さんはほかにもいる。日本映画界きっての美人女優と謳われた山本富士子、梅若正二と同様に「人気におぼれ思いあがった態度をとった」ハンサム・スターだった田宮二郎など。
 
昭和子ども漫画界の正義の剣士「赤胴鈴之助」と、惜しくも大映スターになり損ねた梅若正二という男優の存在は、今でも忘れられない銀幕のヒーロー像であり続けることに変わりはない。
 

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