23.三國志韓傳(なぜ金印が恩賜されたのか)
1.帯方郡
今回は、なぜ金印を恩賜されたのかについて考察します。
その前に倭は帯方郡に属したのかどうかについて考察します。魏志の韓傳に以下の記述があります。ここに記述されている「倭韓」の記述は、文脈から「韓濊」の誤りであると推測します。
魏志 韓傳
桓靈之末 韓濊彊盛 郡縣不能制 民多流入韓國
建安中 公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡
遣公孫模 張敞等收集遺民 興兵伐韓濊 舊民稍出
是後 倭韓 遂屬帶方
魏志 韓傳
https://ctext.org/text.pl?node=603360&if=gb
桓帝(146-168年)・霊帝(168-189年)の時代の終わり頃、辰韓と東濊が強盛となり、楽浪郡の各県は住民の多くが辰韓に流入するのを制止することが出来なかった。
建安年間(204年頃)、公孫康は屯有県以南の荒地を帯方郡として(楽浪郡から)分けて設置した。公孫模・張敞らを派遣して遺民(郡に仕える民)を集め、兵を起こして辰韓と東濊を討伐した。しばらくして辰韓に移動した住民は次第に戻ってきた。
こうして、辰韓と東濊(倭韓は誤り)は帯方郡に属した。
この三國志の韓傳には、帯方郡と倭との関係は記述されていません。従って倭は帯方郡には属さなかったと推測されます。しかし、倭は中國の朝廷を直接訪問します。
2.金印
後漢から魏の時代の倭の朝廷訪問ついて、以下の年表にまとめました。
*25年 後漢成立
*57年 明帝即位
*57年(建武中元二年) 倭奴國奉貢朝賀 光武賜以印綬
*106年 安帝即位
*107年(永初元年) 倭國王帥升等獻生口百六十人
*204年 公孫康が帯方郡設置
*220年 後漢崩壊
*237年 (景初元年) 公孫淵が独立宣言
*238年 (景初二年) 魏軍が公孫淵を討伐
*239年 曹芳即位
*239年 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬
*243年 (正始四年) 曹芳元服
*243年 倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人
この時代に倭は、後漢、魏に57年、107年、239年、243年と4回朝廷を訪問しています。この4回全てなんと新皇帝の即位後、或いは元服後の節目のときなのです。
節目のときに倭は、明確な意図を持って朝廷を訪問したと推測します。その目的は何だったのでしょうか。祝賀も一つの目的です。しかし主の目的は、就任した直後の新皇帝(新統治者)と外交上の事案を交渉することであったと憶測します。
「現在でも他国の新首相、新大統領が就任すれば、直ちに訪問して外交事案のすりあわせ(意思の合意形成)をするのと同じです。」
57年、107年、239年、243年の朝廷訪問での外交交渉の事案は何だったのでしょうか。
それは朝鮮半島(辰韓、弁辰)の鉄の採掘権に関する貿易交渉であったと憶測します。
後漢書東夷列傳、三國志弁辰傳に以下の記述があります。
後漢書 東夷列傳
國出鐵 濊 倭 馬韓 並従巿之 凡諸貨易 皆以鐵為貨
翻訳
その國(辰韓)は鉄が産出する。濊、倭、馬韓は皆これを法制に従って市場で取引している。あらゆる物資の取引は、すべて鉄を貨幣としている。
三國志 弁辰傳
國出鐵 韓 濊 倭 皆従取之
諸巿買皆用鐵 如中國用錢 又以供給二郡
翻訳
その國(弁辰)は鉄が産出する。馬韓、弁韓、濊、倭は皆これを法制に従って採掘している。
多くの市での売買は、中國で金銭を用いるように、全て鉄を用いている。また鉄は二郡(帯方郡、楽浪郡)に供給された。
https://ctext.org/zh
鉄が産出したのは、後漢書では辰韓、三國志では弁辰と相違していますが、弁辰と辰韓は雜居していると記述されているので、この相違は無視していいと考えます。
後漢書東夷列傳、三國志弁辰傳の記述に注目します。
*並従巿之 (後漢書東夷列傳)
*皆従取之 (三國志弁辰傳)
翻訳
*(濊、倭、馬韓は)皆法制に従って之(鉄)を市場で取引をした。
*(韓、濊、倭は)皆法制に従って之(鉄)を採掘した。
この記述の従=従ったものは、中國の法制であったと憶測します。法制は中國の皇帝が決定し、楽浪郡、帯方郡が管理していたと憶測します。
弁辰(辰韓)の地で鉄を採掘するには、中國による採掘権の許認可が必要であり、また鉄を市場で取引をするには、中國による市場への売買参加権の許認可が必要であったと憶測します。
そして、鉄を採掘したとき、および鉄を市場で取引したとき、租税を中國(楽浪郡もしくは帯方郡)に納める義務があったと憶測します。
後漢書東夷列傳、および三國志弁辰傳の記述から、この租税は、金銭ではなく、鉄で納税したと推測されます。
倭は弁辰(辰韓)での鉄に関する許認可、租税についての貿易交渉(合意形成)のために、中國の皇帝が交代した節目に朝廷を訪問したのだと憶測します。
倭には、後漢の時代は100國あまり、魏の時代は30國ありました。鉄に関する中國との貿易交渉は、倭の各諸國が個別に行ったのではなく、後漢のときは倭奴國が、魏のときは邪馬壹國が諸國を代表して許認可、租税についての団体交渉をしたと憶測します。
そして交渉締結後に、漢および魏から金印が恩賜されました。
鉄の採掘権、市場での売買参加権の許認可の証書は、倭奴國あるいは邪馬壹國が倭の各諸國に対して発行した。そしてその証書の有効性を保証するために恩賜された金印が証書に捺印されたと憶測します。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は、「對海國から一大國」のタイトルで、邪馬壹國への行程について考察します。
