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メビウスの輪を走る、孤独な現実/救いの物語

春フェス2本に足を運んだ。
会場やその道中で目にし、耳にした大勢の若者たちの言動。そこから、宮本浩次の特性と、彼の歌が刺さる人の気質、いわば聴き手と摩擦を起こさない歌との決定的な違いが見えた気がする。この心地よい摩擦のなさの対極に、なぜ宮本浩次という男が屹立しているのか。
その手応えをなんとか言語化したいと思って、書きました。



行きの電車で若者たちが「“悲しみの果て”とか“俺たちの明日”とか聴きたいな〜」と話していた。
会場の休憩テント下のカップルは、男の子が女の子に「次どうする?」と優しく尋ね、彼女の希望を快諾する。それから顔を寄せ合って自撮りをする。

フェスは、いわば非日常空間。
彼らは何を求めてここへ来るのだろうか。
何を求めて音楽を聴くのだろうか。
ここにヒントがありそうな気がする。

フェスは非日常の世界。だが同時に、日常の延長でもある。
音楽にもそれを求めているのかもしれない。
日常の延長にある非日常の世界。すなわち、物語。

歌が描くのは、《今ある世界線》と《あったかもしれない世界線》。
現実と非現実。虚構の世界と実在の世界。
日常でありながら、物語になるような、物語にしたくなるような。

例えば、成就した恋と実らなかった恋。あの時もしも別の選択をしていたら違う未来だったかもしれない、とか、あの時のあのきっかけがあったから君が振り向いてくれたんだ、とか。
「今ある世界」と「あり得なかった世界」、「あり得たかもしれない世界」と「現実につながる世界」。
日常の延長にある非日常(=物語)と、目の前の世界(=現実)の関係性から、歌は生まれる。

多くの歌は、こうした《あったかもしれない世界線》と《目の前の現実》を往復する。
なぜその現実があり得なかったのか、どうすればあり得たのか(あるいはその逆)を、歌が説明してくれる。非日常の物語という枠組みが、やり場のない感情を受け止めるための装置となり、折り合いのつけ方を教えてくれるのだ。歌の中の「もしも=虚構」が、現実の痛みを和らげてくれる。
つまり、「あったかもしれない世界=虚構」という毛布で包んで心を整えてから、現実へ着地させてくれる。

こうして、「あの時、違う選択をしていればよかった、そうすれば今頃は…」という思いだけで、曲がひとつ成立する。そして、そんなふうに思い悩むくらいなら「全部やって確かめてみりゃいいだろう!」(UVERworld “PRAYING RUN”)と叫び飛ばし、凄まじいエネルギーが聴衆を巻き込んで意志による現状突破を肯定してみせる。それは、現実の閉塞感を打ち破るための強い拳となる。

これに対して、宮本浩次の歌は「救いとしての虚構」に逃げ場を作らない。
「あり得たかもしれない世界」ではなく、「あり得なかった現実」を歌う。
「あの時こうしていれば」という後悔や逡巡さえも、あくまで「今ここにいる俺が直面している事実」として突きつけてくる。

現実しか歌わない。現実的すぎるほどに。
そこにあるのは共感というより、原因の追求と解決に近い。しかも彼自身の。
そして、現実しか歌わない宮本は、不可能を歌わない。
「全部やって確かめてみりゃいいだろう!」と言われても、実際に全部なんてできるわけがない。時間は戻らないし、過去は変えられない。日常の延長にある《あったかもしれない世界線》は、彼にしてみれば「引き返すことが不可能な世界」。この《もう二度と戻らない日々》を、後悔、逡巡、欲望、憧れといった剥き出しの言葉で腑に落としながら、あったかもしれない世界を拒絶するのだ。

ならば、フェスという場で歌われるエレファントカシマシの3曲が、広く、深く届くのはなぜか。
それは逆に、彼の歌う「物語」が、歌の中に心を逃がしてあげるための毛布ではないからだ。だが、その毛布を幻想だと切り捨てたりはしない。そして、逃げ場のない現実を現実のまま突破するために「匕首」を懐中に忍ばせ、その冷たく鋭い切先で明日を切り拓く。

“悲しみの果て”
「悲しみ」という感情を詩的に変換して、「果て」という場所へ置こうとする。聴き手は「今の苦しみは、いつか辿り着く場所への通過点なんだ」という世界線を自分の中に作ることができる。
「悲しみの果てに何があるかなんて誰も知らない。でも、素晴らしい日々が来るかもしれない」という「あり得るかもしれない世界」への希望を、いつもの部屋でコーヒーを飲み花を飾ることで日常に接続し、現在の絶望に折り合いをつけてくれる。「絶望」を「場所」に置き換える物語。

“今宵の月のように”
月の夜は、古今東西で異世界への門が開く時間。「うまくいかない現状」と「あり得たかもしれない世界」への未練が、「いつか輝きたい」という願望となって、あり得るかもしれない世界へと繫がる。いつだったか君がくれた思い出のかけらを集めて、今日も明日も愛を探しに行く。媒介するのは、月という「変わらず、変わっていく存在」。「いつの日か輝くだろう」というまだ見ぬ世界線を信じることが、今の自分を肯定する。

“俺たちの明日”
「物語の共有」という共感ではなく「覚悟の共有」に近い。
若者たちがフェスでこの歌を求めるのは、非日常の空間で、自分の少しばかり情けない日常を「肯定すべき人生」へと昇華させてくれるから。10代20代30代とそれなりに必死で積み重ねてきた日々を振り返り、愛おしみ、励ましをくれるこの歌は、逃れられない現実のリアルさを取り戻させてくれる。「お前もやってきたな、俺もやってきた。じゃあ、また行くか」と目の前の現実に向き合う勇気をくれる。

そしてソロの “冬の花”。
この歌で宮本は、他者の物語を歌う術を会得したのではないか。だが、たとえそうだとしても、彼は主人公を物語の中に逃げ込ませずに、あざやかに現実へ着地させてみせる。物語という枠組みを手に入れたことで、むしろ彼自身の生身の切迫感や、現実への着地が、より鮮明に際立っている。

宮本のパーソナルで現実すぎる歌が、なぜ一部の人に深く鋭く刺さるのか。
これまで、その受容体を《アンテナ》と呼んで論じてきたが、どうやら、この「響く/響かない」を解き明かす鍵は《自他境界線》にありそうだ。

歌詞が「響く」というのは、言ってみれば一時的に《自他境界線》をあえて曖昧にして、アーティストの言葉を自分の内側に取り込む作業。《自他境界線》をゆるめて、自分の中の火種を歌詞に投影すると、アーティストの叫びは自分の叫びと同化する。

だが、宮本の歌は救いとしての同化を受け付けない。
やり場のない切なさを歌いつつ、その感情を整理して落としどころに収める過程までを歌い切ってしまうからだ。そして聴く側もまた、自分の感情の居場所を自分の手で作ることを強いられる。多くの歌は「あなたは大丈夫」と歌ってくれる。聴き手もまた、自分の存在を全肯定してくれる毛布を求めている。
だが、宮本の歌は違う。「いい顔してるぜ!」と一旦は受け止め、その直後に放つ「よく見えないけど」という魂の火を確かめるようなあの眼差し。その視線のまま、聴き手を刺してくる。

俺はこう生きる。お前はどうする。

だから、優しいのに厳しい。救いなのに逃げ場がない。
人を勇気づけたい、救いたい、じゃない。
そうやって作られる歌は世にたくさんある。
そうではなく、自分はどうすればここに立っていられるか、なのだ。

あまりに現実的すぎる上に「個」の純度が高すぎる。そのせいで《自他境界線》が明確に引けている人にしか刺さらない。
《自他境界線》がしっかりしているから尚更、そのあまりに純度の高い「個の現実」に自分の「個」が共鳴する。他者の凄まじい孤独を目撃することで、自分自身の孤独の輪郭がはっきりする。そして、宮本が「自分のために、自分を救うために」命懸けで歌う姿を見たとき、その圧倒的な「個」の現実に、自らの「個」が共振し始める。

彼がこれほどまでに現実を生きているなら、自分も自分の現実を生きるしかない。

そんな、突き放された先にある深い納得。《自他境界線》があるからこそ、独立した個体として響き合う。ここに「自分のために歌っている歌が他者に対して作用する」というパラドックスが起こり得る。

多くの歌は、人生を美しくかっこよく描こうとする。だが宮本は、衣食住とそれにまつわる感情という、逃れられない生活を執拗に描く。
そのひとつひとつが点だとしたら、その点の連続が人生という線になっていく。この独特のスケール=物差しで、点が線になる過程を歌うからこそ、地に足のついた実在感が生まれる。

「響く/響かない」は、共感が《自他境界線》を「越えて引き合う」のか、それとも《自他境界線》の「内側で共振共鳴する」のか、この違いなのかもしれない。
物語という毛布による救済か、現実への鮮烈な着地か。
この対比こそが「共感の吸引力」の分水嶺。

宮本が歌う「素晴らしい日々を送っていこうぜ」を、聴き手は「救いの物語」として受け取る。
だが、そこにあるのは「あり得たかもしれない世界」への希望ではなく、《この先にある世界》を目指すしかないという「冷徹な覚悟」だ。
そしてその世界は「たゆまず前進している現実」を積み重ねることでしか到達できない場所であることを、彼は知っている。彼の歌を聴くとき、その冷たく鋭い匕首で《孤独な現実》が切り裂かれる。その先に、いつしか聴く者をも救う「物語」へと反転していく瞬間が訪れるのだ。

このメビウスの輪こそが、彼が孤高でありながら、同時に多くの人の心を掴んで離さない求心力の正体なのかもしれない。



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