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人のふり見て我がふり直せ

 私の人生は、ほぼ8割「人のふり見て我がふり直せ」で構成されていると言っても構わない。

自分の生きるモットーとして、よく「やりたいときにやりたいことをする」と言っているが、同じくらい「人のふり見て我がふり直せ」が挙がる。

意識してやるというよりかは、無意識でやっているのかもしれない。


小学生の頃からずっと「我がふり直せ」だった。

 私は小学一年生の頃、陰口で悪口を言われたり、学校に朝来るや否や男子から「ぶた!!!」と言われる生活を送っていた。

「ぶた」と言われるほど太っていなかったし、いまいちピンと来ていなかったので、言葉自体には悪く思っていなかった。

なんか喋ってるなみたいな。叩かれるのは嫌だったが、父に言うと空手のパンチを教えてもらったので、「こっちには空手パンチがあるんだぞ」と内心思うことで強くなれた。

だが、ぶたの似ても似つかないひどい変顔をされ、「これお前のかお~」と言われたり、「てめえブスだな~、なんで学校きてんの?」みたいな謎理論が意外と心にささった。

友達だと思っていた子からは、突然ある日、何を話しても「ふ~ん、で笑?」しか言ってくれなくなったし、三人グループで私一人が仲間外れにされるようになって、陰口も耐えなかった。

今思えばよく学校行けてたなと思う。

それもすべて、「人のふり見て我がふり直せ」が活きているんだと思う。

どれだけ陰口言われたりしようとも

 どれだけ「ぶた」と言われようとも、なんか知らないけど叩かれたりしようとも、「ああ、次からは絶対に人に対して、こういうことしないようにしよう」と自分の行動に全て活かしていた

人の容姿をいじったり、真似したりすることってこんなに相手のことぶん殴りたくなるんだ」みたいに相手のことを冷静に客観視して、「自分は絶対にやらないようにしよう」と教訓のように使っていた。

小学一年生からこんな環境にさらされていたため、陰口に対して敏感になった。

陰口を言っていないんだろうけど、こそこそ話をしていそうな…耳に口を当てる仕草をしている人をみると、「私のこと言っているんだろうな」と思ってしまうようになっていた。

だから、人前で陰口を言ってそうな仕草を絶対にしないようにしている。そもそも容姿や行動について悪口を言わない。

その人だけ話したいことは、グループにいるときに無理に話さない。

あとで二人きりになったときに、「そういえば…」で用事を話せばいい。今でもそうするようにしている。

小学校の頃、たくさん学んだ「人のふり」

 本当に、小学校6年間、たくさん悪い「人のふり」を見ることができた。でも良い「人のふり」もたくさん見た。

自分は小学校の頃、この場にいたくないと思うとすぐに泣いてしまう人だった。

でも小学五年生の頃、初めて一緒にいてももやもやしなくていじってくるけど前よりはるかに不快じゃない人と友達になった。

小学六年生のときも一緒にいて、本当に心から楽しく思えた。小学一年生からの4年間、ずっと友達に仲間外れにされて陰口を言われ続ける人生だったから、本当に救われた。

さりげなくずっとそばにいて、人を守ることができる人間になろうと思った瞬間だった。本人は何も考えていなかったらしいが、やさしさは「無意識」のうちに存在するものなんだなと、より思うことになった。

その人は今でも、私の大切な人で、尊敬する人である。ずっと大切にする。


 寝たら忘れるタイプだったけど、確実にもやもやは蓄積されていた。夜には「仲間外れにされる私がひどいことしてるのでは」とか「なんか言ってしまったのかな」とか「性格悪いのは私の方では」とか…たくさん考えた。

「何かしたのであれば教えてほしい、本当にごめんなさい」と何度謝っただろうか。でもそれすらも聞いてもらえず、教室の端でじろじろ見てきては陰口みたいな。笑い声が苦手になった。

「絶対に人に対してあんな振る舞いをしない」と学べる機会になった。


冤罪ふっかけられたこともある。自分の罪を周りに広げようとする人も見た。冤罪は本当に晴らすことが難しい。映像証拠もなければ音声証拠もない。

そういうときは「次からなんとなく自分が感じて気持ち悪い雰囲気になったら逃げよう」と思うと同時に、「自分の悪さを認められる人間になろう」とも思っていた。

「友達は選ぼう」とも思った。傷つけてくる人と、無理にいなくてもいい。
えい、って逃げたら意外と離れることができた。

また逆に、「人を傷つけるってなんだろう」と考えるようになった。そこで、「自分が嫌なことは人にしない」という言葉の浅さに小学生で気づく。

「自分の嫌なこと」という範囲はとても狭い。本当に狭い。自分の主観でしかない「自分の嫌なこと」が、必ずしも相手に当てはまらないこと。

そして本当に相手にとって嫌なことは、「自分の嫌なこと」の外側にあるということ。だから、ここから「自分の行動を振り返る癖」がついた。

思いやりとかやさしさとかじゃない

 よくやさしいねと言われるけど、決してそうじゃない。やさしいんじゃなくて、過去の「人のふり」と同じようになりたくないだけ。

私のような被害者を、自分から作りたくないだけ。自分の振る舞いは「人のふり見て我がふり直せ」の蓄積である。

話した後、絶対に振り返ってる

 誰かと話した後…友達と他愛無い話をしたときでも、絶対に自分の言動を振り返っている気がする。無意識で、「今の言葉、別の表現の方が優しかったな」とか「あれ、もしかして親切にしてくれてたのかな」とか。

日々の無意識に行われる自己の振り返りが、自分を成長させるのかもしれない。

次からは…次からは…の繰り返しで、ちゃんと次の時に実行する。

自分のことを性格のいい人だとは思っていない

 逆に性格が悪いと思う。悪いから、直す。気を付けて生きている。

SNSは「人のふり」のオンパレード

 『Xに疲れちゃった話』にも書いたのだが、SNSには本当にたくさんの人がいる。

 表面上の情報だけを受け取って、自分の正義を振りかざしまくる人。
 性別関係なく「一人の人間」として人を見ることができない人。
 ただただねこさんのかわいい写真をあげている人。

たくさんいる。

ずっと見てると時間の無駄なので、推しのイラストを見るときに見るが、たまにちらっと争いがうつる。

そういうときにも、「人のふり見て我がふり直せ」である。

自分も日常の中で、「表面的な部分」だけを鵜吞みにしていないか。

自分の正義だけ人を責めたり、否定したりしていないか。

無意識のうちに一人の人間をカテゴリーで括って見ていないか。

まだまだたくさん出てくる。こうやって自分の言動を振り返る。そして

一次的な情報だけでなく、二次的な情報も調べよう。

人伝いに聞いたことだけではなく、自分から世界を見に行こう。

一人ひとりを尊重して、コミュニケーションをとろう。

次の自分のアクションを想像する。こういった「人のふり見て我がふり直せ」の蓄積で、私はできている。

書いてあることは、当たり前のことが多いと思う。でも、「当たり前のことを振り返る」ことで、当たり前のことが当たり前にできる自分に近づく。

当たり前のことを当たり前にすることは、意外と難しい。


のびのびと書いてみた

 今回の記事は割と言語化できた気がする。自分が無意識に気を付けていることに気づけたのは、とてもうれしい。

ここまでご覧いただき、ありがとうございます。
これからものびのびと書いていきます。よろしくお願いします。

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