【noteでBL16弾】花の名前
年内最後のnoteでBL企画!
16弾はかし子を喜ばせるために開催されると言っても過言ではない(過言です)この特別企画。
『激重感情仄暗不穏』『耽美』なブロマンス〜BL小説!!!
今年2月に開催された、激重感情仄暗不穏に耽美が追加されてパワーアップしました!
詳細はこちら!
年内最後ですし、2025年も頑張ってくれた信夫を登場させたいところですが、奴に耽美は似合わない。
というわけで、特別企画恒例(?)の見知らぬキャラクターで書きました。
誰だ、お前たち。
文字数は8900文字。良い感じ!
26日は職場の大掃除と納会でさすがにサボれないから、寝る前に投稿するスタイルです。
それでは、どうぞ!
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黒羽菫は幼い頃より跡取りとして厳しい教育を受けてきた。
黒羽家は財閥の流れを汲む珠墨家の分家筋である。
世間から見れば黒羽家も由緒正しき家柄と言えるのだろうが、菫の父は本家の人間に対して劣等感を抱いているように見えた。
「あの男の子どもに負けるな」
それが父の口癖だった。
「あの男」というのは、父の従兄弟である珠墨家の次期当主のことだ。
何をもって勝ち負けとするのかはわからない。
それでも、父の期待に応えることが自分の人生なのだと、菫はひたすら学業に邁進した。
それがいけなかったのか、中学生の頃から菫は不眠に悩まされるようになった。
大学受験が終わった今でも眠れない時がある。
今日も2時を過ぎたというのに眠気は襲って来ず、菫は部屋でぼんやりとテレビを眺めていた。
寝ると悪夢に襲われるとか、マイナスな想像をしてしまって眠れないとか、そういったものではない。
ただ眠くないのだ。
そんな状況を菫は半分諦めていたし、半分は気にもしていなかった。
受験生だった時の病的な不眠とは違う。
今日のように眠れない時もあるが、すんなりと睡眠に入れる日もある。
だから、今日もそういう日なのだろうと気楽に構えていた。
さすがに布団には入った方が良いか、と菫がベッドに移動したところで、控えめにドアを叩く音が聞こえてきた。
こんな時間に部屋を訪ねて来る人物は1人しかいない。
「開いてるよ」と声をかけると、予想通り、菫の世話人である白鹿文人が部屋に入ってきた。
彼は菫にとって兄のような存在だ。5歳年上で、物心がついた時にはこの屋敷にいて、自分の面倒を見てくれていた。
文人の父もこの屋敷で執事のようなことをしており、菫も世話になった記憶がある。親子でこの家に仕えてくれているのだ。
文人は寝る前だったのか、いつものきっちりしたスーツ姿ではなく、スウェットにゆったりしたカーディガンを羽織っていた。
「夜更かしですか。そろそろお休みにならないと、明日に響きますよ」
もう寝るところだった、という反論はしない。
文人は何でもお見通しで、菫の些細な変化や体調の状態はすぐにわかってしまうのだ。もちろん、嘘もつけない。
菫は素直に答えた。
「何だか眠れないんだよ。受験は終わったのになぁ」
「では、文人が手伝ってさしあげましょう」
文人はどこか楽しそうに言う。
「もう大学生なんだからいいよ。子どもじゃないんだから」
「子ども扱いではありません。菫さまのお世話をするのが文人の役目ですから。ほら、横になって」
「それが子ども扱いでしょ」
口ではそう言うが、嫌な気分はしない。
これは菫と文人の「お約束のやり取り」のようなものだから。
言われた通りに横になると、そのまま肩まで布団をかけられた。
やはり、子ども扱いだ。昔から変わらない文人の行動は、菫の心を温かくしてくれる。
「ほら、目を閉じて。いいですか。マリーゴールド、ネモフィラ、さくら、チューリップ、ヒヤシンス、ロベリア、フリージア、ラナンキュラス……」
菫の背中を優しく叩きながら、文人が春に咲く花の名前を挙げていく。
これは寝付けない主のための就眠儀式だった。
「……スミレ、パンジー、アネモネ……」
一瞬、自分の名前を呼ばれたかと思ってドキっとしたが、すぐにスミレの花だと察した。
柔らかい声と心地よい揺れ、近くに感じる文人の体温に、菫の意識はゆっくりと眠りの底へと沈んでいった。
気付けば朝だった。
リラックスして寝たせいか、寝る時間が遅かったわりに頭はすっきりしていた。
菫の朝の支度時に文人は来ない。
幼い頃は着替えなど手伝ってくれていたのだが、さすがに成人してからは断っている。
簡単に身支度をして部屋を出ると、食堂から機嫌の良い父の声が聞こえてきた。
部屋に入ると、父と弟が何か書類を見て楽しそうに話している。
「ほう、模試で全国1位か。さすがだな。これならどの大学でも余裕だろう」
「ありがとうございます」
仲睦まじげに話している2人の間に入るのは気が引ける。
こっそりやり過ごそうと思っていたのに、弟に気付かれてしまった。
「おはようございます」
「……おはよう」
礼儀正しく声をかけてくる昂を無視することもできず、仕方なく菫は挨拶に応えた。
食堂は広い。
顔を合わせずに食事をして、さっさと部屋に戻りたかったのに。
そんな菫に対し、ほんの少し前とは真逆の硬い声と表情で父は履き捨てた。
「今起きてきたのか。たるんでるな。お前も昂を見習え。そうでなくても受験に失敗しているのだから」
失敗とは何を指すのだろう。
確かに第一志望であった国立大学には落ちた。
だが、難関私立校には受かっている。父が目の敵にしている「あの男の息子」と同じ大学だ。
勝っているとは言えないが、負けているとも思えなかった。
何も言わない菫から視線を外し、父は溜息を吐いた。
「……跡継ぎの件も考え直さないといけないな」
重たい一言だ。
父にとっては何となく出た言葉だろうが、菫の一生を左右しかねない発言である。
張り詰めた空気が室内に漂った。
少し離れた場所から、他の使用人たちが心配そうにこちらを見ている。
逃げたいと菫は思った。だが、そんなことはできず、ただ黙っていることしかできない。
「そうだ、昂にも世話役をつけよう」
出来の悪い長男のことなど眼中にはないとばかり、父が昂に話しかけた。
まるで自身が存在しないかのように扱われたことは傷つくが、それよりも解放感の方が大きかった。心の中で安堵の息を吐く。
菫は黙って少し離れた席に着き、早く食事を終わらせることに専念した。
数日が経った。
夕食時は父や昂とは時間が被らないように食事をするのだが、どうしても朝は同じ時間帯になってしまう。
先日から、父の昂に対する溺愛ぶりが増していた。
反対に菫はほぼいないように扱われている。
何も聞いていないが、既に父の中で跡継ぎは弟に決定しているのだろう。
そんな気さえしてきた。
「お父様、世話役の件ですが」
昂に話しかけられ、父は機嫌よく答えた。
「ああ、そんな話をしたな。嫌だったら別にいいんだぞ」
父は昂には甘い。
それは彼が優秀で将来有望だからか、愛した女の息子だからか。
いずれにせよ、菫より目をかけられていることは明らかだった。
「僕、白鹿に世話役をしてもらいたいんです」
「……は?」
蚊帳の外だった菫の口から声が漏れた。
昂は、何を言っているのか。
「僕はこの家に来て間もないですが、白鹿とはよく顔を合わせています。それに、兄さんの世話役で慣れている白鹿なら安心です」
そんな息子の意見を父はニコニコと聞き、頷く。
まるで子どもの成長を見守る親のような姿だ。いや、親なのだから当然の様子か。それが菫に向けられたことがなかったというだけで。
「そうだな、それがいい!」
名案とばかりに父が手を叩いた。勝手に話が進められている。
菫は焦って口を開いた。
「待ってください。白鹿は俺の世話役で」
そこまで菫が声に出したところで、父の怒号が響いた。
「黙れ!」
その声の大きさ、鋭さに、菫の動きは止まった。
身体が痺れたような感覚さえ覚える。
「お前は白鹿に甘え過ぎなんだ。少し離れて自立しろ」
まるで、菫を敵と認識したかのような目だった。
父の威圧に身体が固まる。
「……はい」
それしか言えなかった。
その後は食事もせず、部屋に戻って淡々と大学に行く準備をした。
あの場に文人はいなかったが、父から正式な辞令のようなものがあるのだろうか。
その時、文人は黙ってそれに従うのだろうか。
そうなったら、菫はもう文人と気軽に話すことはできなくなるのだろうか。
また眠れない日が続きそうだった。
朝の出来事が尾を引いて、その日は何事も上の空の状態だった。
ただ何も考えずに日々のルーティンをこなすだけ。
食事を終え、風呂に入り、あとは眠るだけだ。今日は文人と話す時間がなかった。
それを残念に思ったが、もしかしたら既に文人は昂の世話役になって、もう菫のことなど相手にできないのかもしれない。
そんな鬱々とした考えで部屋に戻ると、ドアの前に昂が立っていた。
「白鹿が僕の世話役になるの、そんなに嫌?」
猫を思わせる蠱惑的な笑みを浮かべ、半分だけ血のつながった弟がこちらを見つめる。
彼の母親譲りであろう美しい容姿は、父にとっては愛しいものなのだろう。だが、菫にとっては憎らしい以外の何物でもなかった。
「喜ぶ奴なんていないだろ」
端的に答えて部屋に入ろうとしたが、ドアの前を立ちふさがれた。
「兄さんって白鹿にベッタリだよね。子どもみたい。兄さん、恋人もいないでしょ」
菫を馬鹿にするような言い方だった。
それは今に始まったことではなく、ずっと前からだ。
父や他の人間がいる前では兄を慕う弟を演じているが、二人きりになるといつもこうだ。
こちらの神経を逆撫でするような言い方をしてくる。
「悪かったな」
慣れてはいるが、不快なことに変わりはなかった。
「でも、キスくらいはしたことあるよね」
「それくらい当然だろ。子どもの時は寝る前にするだろう」
当たり前のことを話しただけだが、こちらの返答が予想外だったのか昂は目を丸くしている。
子どもの頃のキスすらしたことがない、可哀想な奴だとでも思っていたのだろうか。
失礼な話だ。
「……それって白鹿と?」
「そうだよ。もういいだろう。文人はお前の世話役になったんだから、そっちと話せよ」
昂を押しのけて部屋に入ろうとすると、腕を引っ張られた。
体勢を崩した菫の頬に柔らかいものが当たる。
それが何なのかはすぐにわかった。
「何するんだよ!」
頬を押さえて抗議をするが、昂は悪びれもなく答えた。
「何って、おやすみのキス。白鹿とはしたんでしょ?」
「だから、あれは子どもの時の話だって!」
叫ぶ菫に、昂は怪訝な視線を送ってくる。腕は掴まれたままだ。
「子どもの時の話? 本当に?」
「そうだよ! 二度と変なことするな」
昂の手の力が緩んだところで、無理やり引きはがした。
まだ何か言ってきそうな弟を無視し、勢いよくドアを閉めて鍵をかける。
そのまま布団に入った。
モヤモヤとした感情が胸に渦巻き、しばらくは眠れなかった。
翌日。
すっきりしない目覚めの朝である。
いつもより早い時間だが、この時間なら父も昂も食堂にいないだろう。
二度寝する気にもなれず、菫はそのまま食堂へ向かうことにした。
面倒なことに、菫の部屋と昂の部屋は近い。
食堂へ行くにも風呂に行くにも、昂の部屋の前を通らないといけない。
鉢合わせにならないことを祈りながら、足音を立てないように廊下を歩く。
昂の部屋のドアが少し開いている。
そのまま素通りしようとしたが、ふと聞こえてきた声に足を止めてしまった。
「私が丹精込めて育てた花です。あなたが手折っていいものじゃない」
初めて聞く、文人の不機嫌そうな声だった。
どんな表情をしているのかはわからないが、声からして相当苛立っているのがわかる。
花、と言っていた。
おそらく、昂が花壇でも荒らしたのだろう。大切に花の世話をしていた文人が怒るのも無理はないことだと思った。
夜、廊下に出たところで風呂から戻ってきたと思われる昂と鉢合わせた。
心の中で舌打ちをする。
「……お前、文人にちゃんと謝れよ」
話しかけたくなかったのだが、文人のことを考えると一言くらい言ってやらねばならない気がしたのだ。
「何のこと?」
心当たりのなさそうな顔をしている昂に、余計腹が立った。
「花壇のことだよ。花、折ったんだろ。あの花壇は昔から文人が管理しているんだ。それを荒らしたら、いくらお前だって文人は怒るに決まってるだろう」
「ああ、朝の会話を聞いていたの。コソコソと、趣味が悪いね」
「たまたま聞こえたんだよ」
わざとなのだろうが、昂は嫌な言い方をする。
いちいち反応していては身が持たないとわかってはいるのだが、言われっぱなしも癪に障った。
あれだけ文人が怒っていたのに、悪いことをしたと思っていなさそうなところも菫を苛立たせた。
「白鹿は別に花壇のことで怒っていたわけじゃないよ」
「じゃあ、何だよ。お前が怒らせたことに変わりはないだろう」
「兄さんって、何もわかってないんだね」
「何言って……!」
こちらを馬鹿にしたような目に、思わず手が出そうになったがすんでのところで耐えた。
「白鹿のこと。ずっと近くにいたのに。それだけ鈍感じゃあ、跡継ぎから降ろされて当然じゃないかな」
昂の嫌味に顔が赤くなった。
まだ跡継ぎから降ろされたわけじゃない。
そう叫びたいが、できなかった。
昂と話す時と自分を前にした時の父の表情の違い。
あれはすべてを物語っている。悔しいが、昂の話を否定はできなかった。
悔しくて、いたたまれなくて、菫は黙ってその場を後にした。
部屋に戻ればいいものを、勢いのまま走り出したせいで普段訪れない場所に来てしまった。
気付けば屋敷の中央付近にある食堂を通り過ぎていた。ここは使用人たちの住む棟のようだ。
こんな時間に自分がここにいたら変に思われるかと、菫は慌てて戻ろうとした。
何をしているんだろう、自分は。
少しだけ視界が滲んできた。
そんな菫の背後から、聞き慣れた柔らかい声が聞こえてきた。
「おや、菫さま」
振り返ると、仕事着のままの文人がいた。
はじめは穏やかな笑みを浮かべていたが、菫の様子を見ると表情が険しくなった。
「……泣いていらっしゃるのですか」
「ちが、目にゴミが入っただけで」
心配をかけたくなくて咄嗟についた嘘だが、そんな嘘が通じる相手ではなかった。
「菫さま。世話役でなくなったとしても、文人はいつでも菫さまのことを案じているのですよ」
「……うん」
近寄ってきた文人が、菫の方を掴む。その手の強さは、彼の心情を表しているかのようだった。
どこか、焦っているかのような。いつも余裕のある文人らしくない。
「何があったか話してくださいますね」
穏やかだが有無を言わさぬ文人の気迫に観念し、菫は頷いた。
「場所を変えましょう」と提案され、菫の部屋に移動した。
この部屋で、こうして2人で話すのは久しぶりのことだ。
文人に促されて、菫は端的に今さっきの出来事を話した。
口にしてしまえば大したことのない話だ。
こんなことで動揺して涙まで流して、自分が情けなかった。
「文人のために怒ってくださったんですか」
黙って話を聞いていた文人が感動したような声をあげた。
「別に、そういうわけじゃないけど」
菫からすれば「何か言ってやらないと気が済まない」くらいの気持ちでとった行動だ。そこまで大袈裟なものではない。
だが、文人があまりにも嬉しそうな顔をするので、気恥ずかしくなった。
「お疲れになったでしょう。今日はゆっくり休んでください」
頭を優しく撫でられる。
久しぶりのぬくもりが頭皮を通って心まで伝わってくるようだった。
「まだ寝るには早いよ」
「それでは、ホットミルクを作りましょうか。リラックスしますよ」
ホットミルクだなんて、相変わらずの子ども扱いだ。
だが、もう菫の世話役ではない彼がこうして構ってくれるのは、くすぐったい気持ちもあるが純粋に嬉しい。
久しぶりに文人とゆっくり話すことができ、菫は心の中が軽くなった。
食堂でホットミルクを飲み、身も心も温かくなった。
今夜はよく眠れそうだ。
足取り軽く部屋に戻ろうとした菫だが、ドアの前に立つ男の姿を認識すると、己の機嫌が一気に下がるのを感じた。
昂は人目があるところではほとんど話しかけてこない。
会話があったとしても、挨拶やなんてことのない雑談程度だ。
そんな彼がこうして部屋の前で待ち構えている時は、ろくでもない用事であることが多い。
先程のことを思い出して身構える菫を見て、昂は鼻で笑った。
「兄さんって、白鹿のことが好きなの?」
相手にしないつもりだったが、文人の名前を出されるとつい反応してしまう。
「そりゃあ、小さい頃から世話してもらってるし……好きに決まってるだろう」
「それって、恋愛感情?」
質問の意図がわからない。
菫が文人のことを好きなことは当たり前のことだ。
あれだけ自分のことを理解してくれている相手を嫌うものか。
それは恋愛とか友愛とは違うものだ。
菫からすれば、もっと深いつながりのように感じている。
親子のような、兄弟のような。または、相棒のような。
「家族みたいなものだけど……」
うまく言葉にできず、思ったことをそのまま伝えた。
「ふぅん……」
昂は納得していない様子だが、特にそれ以上は何も言わない。
無視して部屋に入ろうとドアノブに手をかけたところで、面白いことを思いついたような、明るい声がした。
「じゃあ、白鹿にしてもらおうかな」
「何を?」
「性欲処理。この家に来てから、窮屈なんだよ。お父様の期待に応えるために勉強しないといけないし。気軽に遊びにも行けない。気分転換が欲しいんだよね。白鹿なら顔も綺麗だし、適任じゃない?」
「お前、何言って……」
それは文人を馬鹿にした発言だ。
許されるものではない。
昂がそんな発言をしたことに、驚きを通り越して呆れてしまった。
いや、信じられなかった。
文人は優秀な人間だ。そんな彼に嫉妬した人間が文人の顔の良さを理由に「どうせ男も女もたぶらかして、今の地位を得たんだろう」と陰口を叩いていることを菫は知っている。
そんなこと、あるはずがないのに。
幼い頃から文人と一緒にいた菫は、彼がそうやって悪く言われることを悔しく思っていた。
それを知っているだろうに、目の前の弟は。
「兄さんこそ何も知らないフリするの? お父様がしてたこと、知ってるでしょ? 僕の母さんだって、相手の1人だったんだから」
忌々しそうに昂は吐き捨てる。
菫は彼の母のことを思い出した。
使用人の一人で、その美しさ故に父の目に留まった女性。逃げるように屋敷を去った後のことはよく知らないが、亡くなったと聞いている。
それで、身寄りのなくなった昂はこの家に来たのだ。
母と瓜二つに育った昂を、父は歓迎した。
逃した魚ほど大きい、ということだろうか。すぐ近くにいた菫の母よりも、昴の母に執着していたことは確かだ。
昂の母の人生、昂の幼少期を狂わせたのは父だ。
可哀想な境遇に菫の中にも同情心が芽生えるが、それとこれとは話が別である。
父がしていたから、息子である昂も同じように使用人に手を出していい、なんてそんな馬鹿げた話があるか。
「変なこと文人にさせるな! お前だったら、いくらでも寄って来る人間はいるだろ。そういう奴を相手にしろよ」
菫が声を荒げるが、昂はどこ吹く風だ。
むしろ、この状況を面白がっているようにすら感じる。
「だって、変な女にでもひっかかったら大変でしょ。美人局ってこともあるじゃない。それとも何? 兄さんは僕が悪い奴に弱みを握られて、一族の恥だとお父様から罵られる姿が見たいの? 陰湿だね」
「だからって」
その相手に文人を選ばなくてもいいじゃないか。
そう言いたかったが、菫は口ごもってしまった。
何を言っても弟に反論されそうだったからだ。
昂は俯いた菫の顎に手を添えると、上を向かせた。
お互いの目と目が合う。
猫のような目が嬉々としている。これは、獲物を捕らえた時の目だ。
「それじゃあ、兄さんが白鹿の代わりに相手してくれる?」
「相手って、何すれば」
「……兄さん、下手そうだね」
相手が何を求めているかわからない。
でも、文人が望まない行為を求められるよりは良い気がした。
「そこまでです。昂さま、菫さまに変なことを吹き込まないでください」
凛とした声がその場に響いた。
文人はこちらに向かって来ると、菫と昂の間に割り込んだ。
その様子に昂が苦笑する。
「兄弟のたわいもない話じゃないか。まさか、兄さんはこの程度の話もわからないくらいの温室育ちなの?」
「お前、」
「――そうですよ」
菫が反論しようと口を開くのと同時に、文人が肯定した。
肯定されるとは思ってなかった菫は彼の言動に疑問を抱いたが、文人の顔は真剣そのものだった。
怒りすら滲ませている。
「幼い頃から私が大切に育ててきたんです。あなたみたいな害虫、目障りで仕方がない」
まるで文人じゃないような声と表情だった。
知らない。
こんな冷たい顔の文人は見たことがない。
声だって、この前聞いてしまった怒りの声とは比べ物にならないくらい低い。
――怖い。
本能的に、そう思ってしまった。
昂も菫と同じことを感じたのか、口を閉ざしている。
ただ、その目だけは悔しそうにこちらを睨んでいた。
そんな彼に文人は冷たく言い放つ。
「では、あなたに用はございませんので。失礼します」
そのまま、文人に手を引かれて部屋に入った。
「菫さま、嫌な思いをされましたね。変なことはされていませんか」
「俺は大丈夫、その、文人が来てくれたから」
「良かった……」
安堵の声がすると同時に、文人に抱きしめられた。
石鹸の匂いに包まれると、先ほどまでの緊張がほぐれていくようだった。
「今日はもう寝てしまいましょう。ほら、布団に入って」
ちらりと時計を見ると、23時になっていた。
寝るにはちょうどいい時間かもしれない。
おとなしく文人の言葉に従うと、布団を肩までかけられる。
「お父様に進言して、世話役は元に戻して頂きましょうね」
「そんなこと、できるの?」
あの父がおとなしく文人の言葉を聞くかどうか疑問であった。
だが、自信があるのか文人はにっこり微笑んでいる。
「大丈夫ですよ。朝になれば、嫌なことはすべて消えていますから」
「……うん」
文人が菫との約束を違えたことはない。
世話役の話も、彼に任せておけばきっと良い方向にむかうのだろう。
そう考えると、安心して眠気が襲ってきた。
「さぁ、目を閉じて。ガーベラ、」
ゆっくりと、慈しむような声で春の花の名前が呼ばれる。
花は黒羽家の庭園で咲いているものと過去に咲いていたものだ。花壇の手入れを手伝う際、1つ1つの名前を文人が教えてくれたからよく覚えている。
文人は本当に花が好きだ。
挙げられていく花の名前をぼんやりと聞いていると、段々と意識が遠のいていく。
ふいに優しく頬を撫でる感触がした。
「……菫」
そういえば、庭にスミレは咲いていない。
過去に花壇へ植えられたこともない。
今、呼ばれたのは果たして花の名前だったのだろうか。
それとも。
【了】
*+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+*
【あとがき】
タイトルは須永朝彦の『就眠儀式』をそのままパクろうと思ったのですが、ちょうどウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が完全版で発売されたので、そっちをパクりました。
元々は企画用ではなくて、月さんと耽美小説書きたい! って話をしていた時に書いていた作品です。いつしか飽きて放置しておりました🤣
こうして日の目を見れて良かったです。
月さんと「当主って耽美」という会話をしたような気がして、「私もお屋敷とか当主出すか」と考えましたが、当主要素はどこかに置き去りにされました。
菫の父、当主って感じがしない。
小物感。
そういうところが本家じゃなくて分家筋の限界な気がします。
この後のことは考えてませんが、多分、菫は当主になれないと思います。
当主になるために頑張ってたけど、そのアイデンティティーが失われて絶望する菫。
そこで「お傍で一生支えます」とか言い出す文人。
菫が今以上に文人に依存する状態になり、文人独り勝ち的な話になるんじゃないかなぁ。
昂は菫のことが好きなんだけど、性格歪んでるので普通に愛せないし愛情表現とかもうまくできないタイプ。
残念!
名前もね、「菫の弟だから、兄と同じで「す」で始まって3文字の名前にしよう」って思いついたのはいいけど「鈴木」しか頭に浮かばなくてどうしようもなく、BL小説でよく登場するカッコいい名前を拝借しました。
適当でゴメンよ。
「文」を「あや」って読ませるのはお気に入りです。
過去作で使ったんだけど、その作品がどこへ消えたのか覚えてないので名前だけリサイクルしました。エコですね。
余談ですが。
「あの男の息子」は私の作品の中では珍しい、めちゃくちゃ光属性のしっかりした青年です。菫とは普通に仲良しです。何なら本家の次期当主さまも良い人なので菫は懐いています。
どちらも文フリの小説に登場します。
皆様の不穏小説は土日でゆっくり読みたいと思います🥰
楽しみだなー!!
あと、実はもう1作書いているのですが、微妙にお題とズレてしまったので投稿日をずらして投稿しますね!
信夫いるよ!!
前回の企画時に「年内ラスト」とか言ってたのに、ちゃっかり信夫登場するよ!
月さんの推しもいるよ!
お時間ある方はそちらも読んでやってください🙏
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