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よみがえる実体論

実体論の敗北

現代の哲学の体系はどちらかというと、「差異の優位」を強調する流れにあると思う。私もいくらか昔までその流れに肯定的で、今も場合によってはそうなのだが、ここではそれに対して「変わらないもの」の恩恵が現代社会の根底にあることを示していきたい。何か、今このときそれが必要なような気がして。

「変わらないもの」の起源としてここで着目するのがアリストテレスの実体論である。プラトンのイデアやソクラテス以前の哲学者たちがアルケーを探究していた流れもあるが、ここでは後に述べる現代の情報技術に直接接続できる概念が組み立てられたアリストテレスを取り上げる。

実際のところ、アリストテレスの実体論は敗北する流れの中にある。カルロ・ロヴェッリの本を読んでいると、現代の量子力学は情報理論であり、世界は実体なき関係で出来ているということが語られる。それに反発はしない、むしろそれは私の考える世界観に非常に近いと思っている。

ロヴェッリの物理学ではなく、私の理解できる範囲のことからそれを言うと、ベイトソンの情報の定義から差異の優位は導くことができると思う。ベイトソンは情報を定義して、「差異を生む差異」と呼んだ。これはアリストテレスの実体論の不可能性を示唆するものである。

アリストテレスは「このものがまさにそのものであるところのもの」、他の属性(付帯的なもの)がどれだけ変化しても、依然としてものの本性として変わらないものを実体と呼んだ。つまり、本当に存在するものはどこの誰から見ても全く変わらないものであるとして、それを実体と呼んだ。しかし、ベイトソンの情報の定義からすれば、それは全くの誤りであるか、そもそもそれは「存在」しないものである。

ベイトソンの情報の定義が示すのは「変化を起こさないもの」は「情報」を発生させない、つまり、「変わらないもの」を人間は検知することができない、そういったものは存在しているかどうか分からないということを示している。

一切変わらないものは、存在していてもいなくても何も変わらない。私たちにそれは関係がない。それはあってもなくても何も変わらないからである。あるいは、周囲を変化させて、それ自体として変わらないものがあるかもしれないというかもしれない。

しかし、その場合でも、それ自体として変わらないものは、その周囲のものは認識できても「そのもの」を認識できない。それは「そのもの」を「そのもの」として特定できるがゆえに実体であるという性質にとって致命的なものとなる。「差異を生む差異」が正しければ、定義上「変わらないもの」、「そのもの」にはたどり着けなくなる、実体はあってもなくても変わらないものになるということだからだ。

実体論はこの観点から見ても敗北の流れにある。しかし、にもかかわらず、その論理は情報技術が勃興している現代において盛んに再奏されていて、誰もがその恩恵を受けていると言っていい。どういうことか。例えば実体論の論理は、現代のIT技術の基盤の一つ、リレーショナルデータベースシステム(表形式のデータベース、RDB)のなかに組み込まれている。

情報技術の中の実体論

RDBが扱う一つのデータのまとまりはその文字通りエンティティ(実体)と呼ばれる。例えば、従業員を扱うデータベースで、名前、生年月日、住所、職種などの属性があるとき、その1人分のデータのまとまりはエンティティと呼ばれる。ここで私が言いたいのはこのエンティティがそのままアリストテレスの実体であるということではない。

データベースにおけるエンティティはその内部にコアとなる識別専用のデータ、idを持つ。私が言いたいのは、これがアリストテレスの言う実体そのものであるということなのだ。先にも述べたように、アリストテレスの言う実体は、あるものそれ自体であり、不変のものである。それには周囲のあらゆる影響による「差異化」が起こらない。idはまさにそのような存在である。それはあるものそれ自体の指示だけを目的とするもので、例えば従業員のデータベースではidはある人を一意で指し示す実体である。

そのようなデータベースでは、ある人を指し示すには、名前を使用できると言うかもしれない。しかし、名前は同姓同名であり得る。もしくは結婚などをすると名前は変わってしまう。名前が変わっても人間は変わらないのである。このように属性は変化するもので、一意で何かを特定できない。

しかし、RDBのidは基本的にはそれに紐づくいかなる属性の変化にも左右されない。それはそのものを指示し、不変である。そして、属性が往々にして現実に存在するものであるのに対し、idはあたかもアリストテレスの実体という概念が現実の描写として敗れ去ったように、現実の世界では何の意味も持たない、現実の世界には存在しない記号である。

また、アリストテレスの実体論は主述の関係として記述されており、実体は必ず主語に来るものであるとされる。RDBのidでも事情は同じである。「ソクラテスは賢い」ということ(ソクラテスという実体は賢いという属性を持つ)が、術語から主語を導く形で「賢いものはソクラテスである」とならないように、RDBのidもまた例えば「従業員太郎(idで表される実体)の職種は営業(属性)である」という表現なのであって、「職種営業は従業員太郎である」と表現されることはない。idは常にそのテーブル内(表の中)で表される属性の主語である。

※現実にはリレーションを組むとidが述部(属性)に来ることはある。通常職種のテーブルと従業員のテーブルは分かれるであろう。しかし、その場合でもidが実体として存在するのには変わりない。テーブル間で円環参照になるアンチパターンを避けていれば、最終的にはトップレベルに実体となるidが存在することになるためだ。

idは基本的には実体と同様に変化にさらされることがない。言い換えれば、それは関数、演算の対象にならない。例えば、123というidが太郎という人物を意味するとして、その数字に10をかけるという演算をしても何の意味もなく、ただ太郎を指示する情報が失われるのみである。それが意味のある演算でないことはわかるだろう。idは決して変化せず、あるものをあるものそのものとして指し示し、しかも現実世界においていかなる意味のある形を持たない。その性質から言っても、RDBのidはアリストテレスの実体論の再演なのである。

実際のところ、idが重要な役割を担っているのはRDBにとどまらない。例えばプログラミング言語のPythonでは処理対象のすべてのデータは「オブジェクト」というある種のデータのまとまりであるのだが、そのオブジェクトには個々のそれの一つ一つを識別するidが付与されている。高度な情報処理の場面において、このような実体は再帰してくるのである。あるいはむしろ、アリストテレスが徹底的に知(情報処理)を問題としたがゆえにそこにたどり着いていたのだと思う。

実体論としての固有名論

これと同じことが、柄谷行人の固有名論についても言える。RDBのidと固有名論には同一性がある。ソール・クリプキの議論を受けて展開された柄谷行人の固有名論の概要は以下のようなものだ。

クリプキは、固有名(例えば「アリストテレス」)は「固定指示子(rigid designator)」であると主張した。これは、固有名が現実世界において指示する対象と同一の対象を、あらゆる可能世界においても指示するという考え方である。

例えば「アリストテレス」という固有名は、現実世界でプラトンの弟子でありアレクサンダー大王の教師であった人物を指すが、もしアリストテレスが別の教師についていたり、別のことをしていたりするような別の可能世界を考えたとしても、「アリストテレス」という名前は依然としてその同一の人物を指す、というのがクリプキの主張である。

これは、「アレクサンダー大王の教師」といった記述的表現(確定記述)が、可能世界によって異なる対象を指し示す可能性があるのとは対照的である。固有名は「因果的連鎖によって名付けられた対象を指示する」ものであり、その意味は定義ではなく「指示の事実」によって保証される。固有名は確定記述に還元できない。逆に言えば固有名それ自体は、何らの意味内容も属性も性質も持たない、特定の「形」を示すことはないことを意味する。

固有名のこの性質はデータベースの id の性質と極めて類似している。id は固有名のような「指示のためだけの符号」である。そこには形(構造や属性)はなく、ただ指し示すだけの働きがあり、その意味は外部的文脈に依存し、他の性質の記述に還元できない。そして、固有名もまた実体と同様の意味において常に主語に来るものとなる。なぜなら可能世界論を持ち出してくると、固有名は述部としての意味(修飾する属性としての機能)を持たなくなるためだ。

実際のところ、可能世界論とRDBは共通的な構造を持っている。RDBは情報を保存するシステムであるが、現代の情報技術の基礎にある意味での情報とは取りうる可能性の中からあるものが選択されることとして定義されるからだ。RDBのidに紐づく属性とは本質的にはとりうる可能性の束から選択されたものである。固有名とidは可能世界論と情報技術の間でごく正確な形式でパラレルな関係にある。つまり、ともに周囲を取り巻く属性が変化する多様な可能性の中で、それだけは他の可能性がないものとして、可能世界とデータ(情報)の間を貫く形なきものなのである。

柄谷はクリプキの議論を踏まえつつ、固有名が持つ「固定指示子」の特性を、「単独性」という概念と結びつけた。例えば「アリストテレス」がどのような属性を持っていたとしても、「アリストテレス」という固有名そのものが捉える唯一無二の存在(単独性)は、属性の記述によっては完全に捉えきれないと。

 このような柄谷の議論は固有名と単独性の議論が固有名それ自体のみでは成立しないことを示している。柄谷は次のような全く同じ文章を並べて、一方は固有名であり、他方はそうでないという。

私はここで、名と言語を区別することにする。もちろん、この区別は便宜的なものである。なぜなら、私の意図は言語を固有名から見なおすことにあるので、それらを分離してしまうことにあるのではないからだ。さしあたって、この区別は、「これは誰か(何と呼ぶのか)」(1)と「これは何であるのか」(2)という問いの区別である。それらの答えは、たとえばつぎのようになる。

これはソクラテスである。(1)
これはソクラテスである。(2)

一見すれば両者には何の違いもない。しかし、この同一性は「誰か(何と呼ぶのか)」と「何であるか」という問いの差異が消されていることによるのだ。

柄谷行人 第三章 名と言語 『探究Ⅱ』 1994年 講談社 p47

固有名は言葉から識別することができない。固有名と単独性の議論は固有名それ自体だけの議論ではない。それは、名指すものと名指されるものの間にある、現に振る舞われる関係の性質に関する議論であって倫理の議論である。ここでいう固有名は「私はあなたに対して単独者として対面する」という関係の紡ぎ方を意味している。

それは誰かを誰か自体として、交換不可能なもの、代替不可能なものとして、ただ一人を名指して向き合う、そういった意味を持っている。それは人間関係において倫理的に捨て去ることができないものである。しかし、それは個人的な関係の中にしか見えない、言葉のなかには存在しない、現実のなかには現れない。

それはあるものを指示するとき、「同じもの」を共有しなければコミュニケーションはできないのに、不変のもの、「実体」それ自体は現実には存在しないのと同様である。その意味において、柄谷の固有名論もまた実体論の再演である。実際に、柄谷はアリストテレスの実体が固有名から考えられていると指摘している。

このようなことは逆に「実体」という概念、あるいはその言葉で表される指示するものと指示されるものの関係性が、それが現実に実在していないにも関わらず、私たちが必要としてしまうものであることを示すと思う。「実体」はその定義とは逆説的に「もの」を示すことはなく、「私」が対象と「何かそのもの」「誰かそのもの」として取り結ぶ単独的な「関係」を示している。そして、そのような関係がなければ何かを指し示すことはできないのである。

私たちは「実体」を葬り去り、現象の世界、消費の世界、差異の世界を弄んできた。それが原因とまで言えるかは分からないが、結局のところ、今や社会的実体を顧みないポスト・トゥルースな言説やデマゴーグ、僭主の出現に動揺している。

全てが流転するこの世界で差異の優位は決して揺るがない。「固有名」が忘れ去られるように、「実体」は忘れ去られる。しかし、私たちは、この流転する世界である特定の形を維持していて、その中には失っては生きてはいけないものがある。私たちは変えないものと変えるものを賢明に選ばなければならない。それが差異と同一性を識別する知性の基本的で根源的な営為であるのだから。

ある意味で、岩井克人が近代の普遍性を説き始めたことは、実体論への揺り戻しが起こりはじめている流れの一つではないかとも思う。あるいは、マルクス・ガブリエルの言説や、斎藤幸平によるマルクスの再評価もこの流れのうちにあるだろう(岩井はマルクスの労働価値説は実体論であると論じている)。

きっと「実体」が古代のような素朴さで復活することはないし、それは望むべきものでもない。しかし、今この時代に私たちはそれを捨て置くことはできないのかもしれない。実体を消し去ることができない統整的理念として、決して届くことのない仮象として、望まざるを得ないという現実に直面しているのではないかと思う。